第10話 第二皇子

「、っと……」


 桜鳴おうめいは大きな荷物を両手で抱える。

 重さはそれほどないが、身体の前で持つと、荷物の高さが目線ほどまであり、目の前がほとんど見えない。これを自分の部屋まで持っていかなければならないのだが、人にぶつかる自信しかない。

 とは言え、運んでくれそうな凌霄りょうしょう漣夜れんやの世話で忙しいし、他に気軽に頼めるような人はいないから自分で運ぶしかない。


(向こうが避けてくれることを祈って行くしかない! あと、お偉いさんも通らないように……)


 部屋に向かうため一歩を踏み出すと、前方から男性の声がした。


「ずいぶん大きな荷物だね」


 そう思うなら避けてほしい。その言葉は喉元で止まりなんとか飲み込むことができた。

 声をかけてきたのは誰なんだろう。桜鳴は持っていた荷物を一旦通路の端に置いて、声の主の方を見る。そこにいたのは知らない男性だった。

 腰ほどまである長い巻髪は色素が薄い茶色をしていて、瞳も薄い澄んだ緑色で、宝石のようだった。背丈は漣夜よりも少し大きいくらいだろうか。

 どこかこの国の人っぽくない目の前の人は、柔和な顔をさらに崩して桜鳴の元へと近づいてきた。


「きみ、初めて見る顔だね。新人さん?」


 この後宮に来てからもう一か月近く経とうとしている。それを新人と捉えるべきか迷うところではあるが、奏祓師としての仕事をまだ一度もしていないという点では間違いなく新人だろう。


「まあ、……はい」

「そっか。名前は? どこ付の子?」


 ずいっとさらに近寄ってくる男に不信感を抱き、身分を明かすべきではないと思った桜鳴は、名乗らずに、むしろ質問を被せるように相手に問うた。


 それが過ちだと分かるのはすぐあとだった。


「……名前を聞くなら、そちらが先に名乗るべきでは?」


 驚いた男の顔が見えたと思ったら、景色が勢いよく動き視界が一面廊下の床になる。頭を誰かに押さえられているようだ。

 視線だけを横に動かすと、隣には幼い顔つきの女官がいた。近くを通りかかっただろうその女官の手が、桜鳴の頭へと伸びていた。


「なっ――」


 何してるの、と問いかけようとしたが、女官の大声にかき消されてしまった。


「っ申し訳ございません! この方はまだこちらに慣れておりませんので、どうか無礼をお許しください!」


 桜鳴の脳内はやってしまった、の一言で占められていた。

 最初に気付くべきだった。男性の衣服がどう見ても高価そうなことに。その気品あふれる佇まいに。

 その外れてほしい予想の答えを、女官がちらりとこちらを見て小声で囁く。


「桜鳴様、こちらは第二皇子の天瑞てんずい様でございます……」


 心の中で天を仰いだ。当たってほしくない予想はたいてい当たる。


 皇子に対して、先に名乗れと言ってしまった。


 漣夜はどれだけ無礼なことを言おうが、「落ち着きのない猿だ」とか言って特に咎め……てはないような気がするが、この第二皇子がどのような人物なのかをまだ知らない。

 つまり、今度こそ極刑は免れないかもしれない。

 目だけを上に向けて皇子の様子を伺うが、変わらずにこにこと笑顔のままで、それが逆に怖くも感じた。


「――顔、上げていいよ」


 桜鳴の視線を感じた皇子の言葉におずおずと上げると、皇子に顎を掴まれ顔のすぐ傍まで持ち上げられる。


(やっぱり処される……っ!)


 覚悟して目をぎゅっと瞑ると、皇子は思ってもいなかった言葉を口にした。


「僕の名前は蔡天瑞さいてんずい


 まさか自己紹介をされると思わず、驚きのあまり閉じていた目をぱっと開くと、宝石のような綺麗な薄緑色の瞳がじっと見つめていた。


「先に名乗ったよ。さあ、きみは?」

「え、あ……楊、桜鳴、です」

「どこの子?」

「れ、漣夜……様の――」


 奏祓師です。そう答えようとしたら、天瑞が言葉を遮った。


「漣夜のとこ!? へー珍しい! あんまり新しいの入れたがらないのに」

「あ、えっと、奏祓師です……」


 返答を聞いた天瑞の笑顔が、一瞬だけかげったように見えたが、すぐに元のにこにこ顔に戻ったので、見間違いだったかもしれない。


「あー……漣夜のところ、ずっといなかったんだっけ。また、面白そうなになったなぁ」


 顎から手を離してくれたおかげで、ほぼ宙ぶらりんになっていた足が久々に地面についた。

 もしかして、処されないのだろうか。びくびくとしながら、彼を見ていると、左手を取られる。


(なに……?)


 そう思ったのも束の間、天瑞は桜鳴の左手を口元まで運び、そのまま手の甲に唇を押し当てた。


「これからよろしくね、桜鳴」


 呆気にとられている桜鳴をよそに、天瑞はひらひらと手を振ってこの場から去っていった。


 何が起こったのだろうか。何も理解できないで、ただ天瑞の背中を見ることしかできない桜鳴に、少し後ろで静かに控えていた女官が隣にきて声をかけた。そのおかげで、意識を現実に引き戻すことができた。


「桜鳴様……? 大丈夫ですか?」

「は、え? だ、大丈夫じゃないけど……」


 隣にいる女官の方に、ぎぎぎ、と音が鳴りそうなくらいぎこちなく首を向ける。


「処刑、はされない、よね……?」

「まさか! 天瑞様はそのような御方ではございませんよ!」

「よ、よかったぁー! 助けてくれなかったら、終わってたかも! えっと――」


 名前を問うように伺うと、彼女も察してくれたようで、幼さが残る笑顔で答えてくれた。


徐春燕じょしゅんえんです! 漣夜様付でございます」


 もう虐められるようなことはなくなったが、親しくしてくれる人もいつもの顔ぶれ以外にはいなかった桜鳴に、初めてできた友達である。



 持っていた荷物を春燕が部屋まで運んでくれると言うので、最初は自分のものだから、と遠慮したが、「私の方が慣れてますから!」と無い力こぶを作りながら言う彼女の親切を無下にはしたくなかったので、お願いした。

 春燕は背が高いから、荷物を持ったとしても前は見えているようだった。


「ねえ、天瑞様ってどんな人?」


 彼女の隣をついて部屋まで向かう道すがら、先ほどの出来事について質問を投げる。今回はたまたま何も罰せられなかっただけで、もし虫の居所が悪かったりすると、次は命はないかもしれない。これから気を付けるために、どのような性格か把握しておくべきだろう。


「天瑞様はお優しい方ですよ。まったく接点のない女官のことも覚えてらっしゃいますし、大変そうにしていたらお声もかけてくださるんです。ただ……」


 柔らかく弾んだ声で答えていた春燕は言い淀んだ。やはり何かしら問題点はあるのだろうか。

 あの性悪と同じで。


「ただ?」

「ただ、その……好色な方でして、噂では後宮にいる大半の女性が身分関係なくお手付きだとか……」

「大半!?」


 あまりの数の多さに大きな声が廊下に響く。


 子孫を残すのが皇族の役目だとは言え、手を出しすぎではないだろうか。皇位継承者が決まってからにした方がいいような気もするが。それに、皇族のような体裁を保ちたいところは、身分を一番重要視しているのではないだろうか。

 第二皇子ともなる人がそれくらいのこと考えてないことなんてないはずだけど、それよりも女性の方が優先度が高いのだろうか。


 皇子なのに変わった人だ、とうんうんと頷いていたところで、はっと気付く。大半の女性がお手付きってことは――。


「その、春燕も……?」

「いえいえ! とんでもないです!」


 首をぶんぶんと振って全力で否定する春燕は続ける。


「私なんて実家は何の力もないですし、見た目も……」

「身分関係ないんでしょ? それに、春燕はかわいいでしょ。なんというか、こう、母性が刺激されるというか……あ、そういえば何歳?」

「15になります」

「ほんと? 同年だ!」


 幼い顔立ちをしていたから、年下だと思っていた。この謎に生まれた母性はしまっておくことにしよう。


「春燕とは仲良くなれそうだから、敬語じゃなくていいよ!」

「ですが……」

「ほら、わたしなんて漣夜のこと呼び捨てだしさ!」


 誇らしげに言う桜鳴を見て、春燕は苦笑いをした。

 しまった。凌霄に人前では敬称をつけるようにって言われていたんだった。


(……春燕になら、まあいいか)


 春燕は周りに無礼なことをしたと言いふらすような人ではない。ほんの数分ほどしか話していないが、そう思えた。


「それと、桜鳴様、もやめて桜鳴って呼んでよ! そっちの方が友達って感じするし!」

「……お、桜鳴……」

「! うん、春燕!」

「お、お部屋に着きましたので、私はこれで……!」


 いつの間にか部屋の前まで到着していた。春燕と話しているとあっという間だった。部屋の前に荷物を置き、どこかそわそわとした様子の春燕に礼を言う。


「荷物、運んでくれてありがとう! 助かった!」

「……また、何かあったら、呼んでくださ――呼んでね!」


 言い直して言葉を崩してくれた彼女と目を見合わせ互いに笑った後、手を振って「また」と挨拶をして別れた。


 やっぱり、春燕とは仲良くなれそうだ。

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