第9話 落下

「おはようございまーす」


 挨拶をしながら仕事場の扉を開けると、これから使うものを用意していたであろう凌霄りょうしょうが部屋の入口の方を見るなり、驚いた声をあげた。


「どうされたんですか、その顔は」

「え? ……ああ、この痣ですか? いやあ、転んでしまって……」


 桜鳴おうめいは、へへ、と照れくさそうに、昨日できたばかりの右頬の痣を手で擦る。


 好奇心に従って突っ走るから、昔から怪我は多かった。とは言え、身体が大きくなってからは、ある程度制御もきくようになり、転ぶ一歩手前で踏みとどまり、怪我なんて一年ほどはほとんどしていなかった。


 なのに、ここ最近は、何かによく躓いてそのまま転んでしまうことが何度もあった。


 手や膝を軽く擦りむいてしまうだけならよかったが、昨日はちょうど両手が荷物で塞がっていたのもあって、手が先に出ず、顔から地面へと落ちてしまった。

 そうしてできたのがこの痣である。表情筋を動かすとじんじんと鈍く痛む。

 できれば数日間は、怒って叫ぶようなことはしたくないが、そんな思いも知らずに今日も漣夜れんやは嫌味を言ってくる。


「子猿は落ち着きがないからな」

「猿じゃないしっ!」


 早速怒ってしまい、桜鳴は頬の痛みに顔を歪ませる。ほら、やっぱり落ち着きがないじゃないか、という漣夜の視線は無視して、凌霄に向けて話を続けた。


「なんかここ最近、不運が続くんです!」

「不運、ですか」

「はい。何かに躓いてよく転ぶのは当たり前で、向かいから歩いてきた女官の人が躓いて、持ってた汚れた水かぶっちゃうこともあって……それも、一度じゃなくて、三度も!」

「三度も……」


 被害はどれも軽微なもので済んでいるが、それにしても頻度が多い。勤め始めてまだ10日ほどでこの惨状だ。話を聞いていた凌霄も想定以上に多いと思ったのか、考え込むようなしぐさをしていた。


「まあ、不運の時は何やっても駄目と、よく言われてますけどね!」


 環境が変わって心身共に安定していないからか、今はきっと悪い気が溜まっている時なのだろう。そのうち好転するはずだから、それまで待っていよう。

 そう一人で分析している横で、漣夜と凌霄が何かを察したように視線を交わしていたのを、桜鳴は知らなかった。


 ◇◇◇


 あれから、変わらず不運が数日続いていた。傷が治る前に次の傷ができてしまい、水を使うたびに両の手が沁みるが、もうその痛みにもそろそろ慣れてきてしまった。


(痛みになんか慣れたくないなぁ……)


 そんなことを考えながら後宮の廊下を歩く桜鳴の向かいから、どこかで見たことのある顔が歩いてきた。

 見目麗しい外見に、華美な服。こういう格好はたいていの場合后妃だから、端に避けて軽く頭を下げて通り過ぎていくのを待たなければいけない。

 その間に、誰だったか、と記憶を探って思い出す。


(……あ、この間、漣夜に言い寄ってた人だ)


 凌霄に後宮を案内してもらった日に、甘えた声で漣夜に近づいていた女性だ。


 后妃が通り過ぎるのと同じくらいに思い出せて、すっきりとした気分で廊下の先の階段を降りようとした時だった。


「、え」


 一段目に足を下ろそうとした瞬間、背中にどんっと強い衝撃が加わる。一段目の先端に足裏がずるりと滑って踏み外し、そのまま前のめりに身体が落ちていく。

 ここの階段は他よりも高く、上手く落ちたとしてもよくて骨折、運が悪ければ死に至る可能性もなくはない。



 それで、今の桜鳴はすこぶる運が悪い。つまり。


(や、っばい――っ)


 とにかく頭だけは打たないように、先に背中が落ちるように身体を捻る。あとは痛みに耐えるだけ。全身を襲う予定の痛みを覚悟するように桜鳴は目をぎゅっと瞑り、衝撃に備える。――が。


(っ! ……って、痛くない……?)


 軽い衝撃だけで、痛みという痛みはほとんどなかった。何が起こったのかと、おそるおそる目を開けると、身体の下に人がいた。

 短い髪型に、一束だけ長い髪。それを纏めている深い緋色の紐。


 あの男の瞳と同じ色。


「――漣夜様! 御無事ですか!」


 凌霄の大きな声で我に返った桜鳴は、慌てて漣夜の上から退ける。漣夜は何事もなかったかのように立ち上がり、凌霄に何かを告げた。「承知しました」と言って、凌霄は階段を上っていった。


「なんで、漣夜がここに……」

「は、助けてもらった相手を呼び捨てかよ。しかも、『皇子』を」

「そ、それとこれとは別じゃん! っていうか、怪我、してないの!?」

「お前みたいなちんちくりんを受け止めきれないほど、軟弱じゃない」


 両腕を身体の前で組み、偉そうに言う彼に少し怒りが生まれたが、今はそれどころではない。結構な高さの階段から落ちたのを受け止めた。ただ落ちたのではなく、高さから生じるそれなりの速度で落ちたのだ。漣夜にはかなりの衝撃があったはず。床に倒れるほどの衝撃が。


「ちんちくりんじゃない! 本当に大丈夫なの!?」


 漣夜の身体をぺたぺたと触って、どこか異変がないかを調べる。そんな二人を、横を通る人たちが何事かという目で見ているが、それどころではないと構わず続ける桜鳴を、漣夜はどうにか止めようとする。


「おい、もうやめろ。大丈夫だと言っているだろ」

「だめ! こういうのは後から痛み始めるんだから! 頭とか打ってない?」


 つま先立ちして腕を伸ばしぎりぎり漣夜の頭に触れる。一応こぶのようなものはできていなかった。ふぅと、ひとまず安堵の息を吐く。

 いつもよりも近づいた漣夜の目が、桜鳴の目をじっと見つめる。普段の冷たいそれに加え、かげりがあるように見えた。


「……『皇子』が怪我したとあっちゃ、大変だからな」

「いや、皇子かどうかなんて関係ないでしょ。痛いのは誰だっていやだよ。よく怪我するわたしがそう思うんだから、みんなそうだと思う!」


 自信満々に早口で言う桜鳴に、瞳が少し揺らいだ後、漣夜はくっくっと喉を鳴らしながら笑った。


「とんだ暴論だな」

「そんなことないと思うけど……痛むところ、本当にない?」

「……とりあえず、こんなところでやることじゃないと思うが?」

「そ――わっ!」


 それはそうだけど、早めに診ないと。

 そう言おうと思ったが、漣夜に抱え上げられたことで言葉が止まる。そのままずんずんとどこかへと歩いて行く。

 離して、どこ行くの、と何度も言いながら桜鳴は腕の中から逃れようとしたが、漣夜の部屋に着くまで離してもらえなかった。



 少しして凌霄も部屋にやってきて、漣夜の身体を改めて診ることになった。

 何の断りもなく服を脱ぎ始めたので、桜鳴は慌てて背中を向ける。


(わたしは気にしないけど、まあ、うん、礼儀としてね……)


 何なら部屋から出た方がいいのではないだろうか。どうしようかと悩んでいると、触診されながら漣夜は問いかけた。


「お前、虐められていることに気付いてなかったのか」

「え」


 何のことを言われているのか本当にさっぱりだった。

 虐めというと、暴力をふるわれたり悪口を言われたり、気に入らない者に心身の危害を加えることだ。

 桜鳴の身にはまったく覚えがなかった。

 後ろから大きなため息が聞こえてきた。表情は見えないが、なんとなく馬鹿にされているような気がする。


「……近頃不運だと仰ってましたが、すべて先日後宮にやってきたばかりだというのに、いきなり漣夜様に直接お仕えしていることに対しての嫉妬や、邪魔者扱いからの、后妃様や女官たちの虐めでございます」

「え、え?」

「階段から落ちたのも、そのひとつです」


 凌霄が、ここ最近の桜鳴の身に起きたことの真相を教えてくれたが、桜鳴には何一つ理解できなかった。

 だって、奏祓師だからしかたなくここに来たのだから。

 腑に落ちない桜鳴を凌霄は見透かしたのか、言葉を続けた。


「奏祓師のことは皇族やその親族、また男児を産んだ后妃様たちにしか知らされません」

「へー……なるほど……」


 それなら納得できないこともない。きっと、奏祓師のことを知らない人たちから見たら、ぽっと出の庶民が皇子の側仕えに採用されたように思えたのだろう。妬むのも頷ける。

 

 こんな、口を開けば嫌味を言うような皇子だとしても。


「誰かから加害されてることにも気が付かないとは……どれだけ能天気なんだか」

「……はぁ!?」


 思ったそばから人を馬鹿にする漣夜に、先ほどは耐えられた怒りがふつふつと湧いてくる。何かを言い返してやろうと考えていた桜鳴の頭にぽんと手が置かれる。


「まあ、もうされないだろうから安心しろ」


 顔をあげて後ろを見ると、漣夜がすぐそこに立っていた。逆さまになった漣夜をじっと見つめていると、「なんだ」と怪訝そうに言われた。驚いているのはこっちだというのに。


「いや……漣夜がそんなこと言うと思わなくて……、はっ!」


 漣夜の言動にびっくりして思ったことをそのまま言ってしまい、後から気付いた。

 先ほど皇子を呼び捨てにするな、と言われたところだった。これでも一応口に出す時は、きちんと敬称をつけているが、今みたいに感情が先に出てしまうと外れてしまうようだ。


「す、すみません……漣夜、様……」


 不敬だと言われる前に謝罪をしなければ。そう思ったのは、無駄だったようだ。


「構わない。前々から、お前が敬っているのは気持ち悪いと思っていたからいい機会だ」

「気持ち悪いってなんなのよ! これも虐めじゃないの!?」

「これくらいで傷付かないだろ。あんなにやられてたのに、けろっとしてたお前が」

「~~っ! 言いたいことだけ言って、この男はっ!」


 掴みかかろうとする桜鳴を止める凌霄の、「他の方がいる前では、きちんとしてくださいね!?」と叫ぶ声が部屋に響いた。

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