第38話 勇気を出したその先に
ついにやってきた8月11日日曜日。2日間を通して行われる夏の大型同人即売会。その1日目であり、七海の運命が決まるといっても過言ではない大事な日だ。
俺は集合場所になっている喫茶店に一足先に訪れ、ふたりを待っていた。
例の男に関しては未だに明確な証拠を掴めていない。しかしネット上では密かに女性トラブルに関しての話題が上がるようになっていた。今のところは妬みや嫉み、あるいは女側の勘違いだという反応になっていて、一部では既婚者なのではないかという噂もある。「火のない所に煙は立たぬ」と言うし、何かしらのスキャンダルが出てくるのも時間の問題だろう。
そんな当の本人は噂には一切言及しておらず、今日のイベントにもコスプレイヤーとして参加するとSNSで公表していた。どんだけ面の皮が厚いんだ。
ゲーム通りならこの日が分岐点なのだが、今は本来の七海のイベントとは流れが大きく異なっている。そもそも俺や栞がずっと一緒にいる予定だし、あの野郎を近づかせなければ大丈夫なはずだ。
まぁ問題はその後なんだけど……
「いらっしゃいませー2名様ですか?」
「いえ、連れが先に来てると思うのですが…」
どうしたものかと悩んでいると栞の声が聞こえてきた。キョロキョロと俺を探している栞に手を振ると、すぐに気づいてくれてこちらへとやってきた。
「いやはや。やはり君は分かりやすくて助かるよ」
「そっちこそ。モデルかと思った」
本当なら駅で合流する予定だったのだが、栞がどうしても喫茶店が良いというので仕方なくそれに従ったのだ。そしてその理由は恐らく栞の隣に座った胸の大きな不審者のせいだろう。
「…………木下はなにしてんだ?」
「っ………いやぁ……」
何故か七海は帽子にマスクというこの真夏に相応しくない格好をしていた。しかも店に入ったのに外す気配もない。すると栞が呆れた様子で事情を語り始めた。
「どうしても零央を驚かせたかったらしい」
「俺を…驚かす?」
「……詳しい話は本人に聞いてみてくれ」
「…………だ、そうだけど」
「っ……!!」
俺からの問いかけに七海は何かを決意したのか、ゆっくりと帽子とマスクに手を掛けた。
「……ゆ、勇気出したんだ…………ふたりと一緒だからって……美容室予約して……他にも頑張って……だから……………」
七海は小さく震える声でそう呟き、隠していたものをさらけ出してくれた。
「ど、どう…………かな?」
思考が何秒止まったか分からない。もしかしたら数分かもしれない。それくらいの衝撃が俺に襲いかかってきたのだ。
重い印象があった髪はさっぱりと整えられ、肌もいつもよりもとても綺麗に見える。まるでゲーム中で見た七海のイベント後の姿だったのだが、決定的にそれとは違っていた。
正直ゲーム中での七海のイメチェンには不満があった。眼鏡キャラが眼鏡を外すなんて言語道断だろうと。
だが今の七海はどうだ。特徴的だった眼鏡は外しておらず、自信が感じられたゲーム中の笑顔とは違い、恥じらいがにじみ出ているなんとも七海らしい笑顔をこちらに向けていた。
その輝きを形容するにはもう天使という表現では生ぬるい。女神にさえ届きうる美貌だ。そして自分のコンプレックスに立ち向かった彼女に述べるべき言葉なんて1つしかないだろう。
「ありがとうございます…………」
「なにそれ…………こちらこそ。ありがと」
「はぅぅっ……!!」
感謝と共にとびっきりの笑顔を見せつけられる。そのあまりの威力に俺が気持ち悪い反応をしていると、七海の隣に座っている栞が俺の足をおもいっきり踏みつけてきた。
「零央???流石にな???」
「イッ…はい…………分かってます…………」
「どうしたのふたりとも?」
「いやいやなんでもないぞ七海。なぁ?」
「はい…………その通りです……」
喫茶店を出るまで栞に足をグリグリと踏まれ、軽い朝食をとった俺達は三人揃って会場へと向かった。
「じゃあ私達はあっちだから。井伏くんはそっちね。受付して、着替え終わったらまたここに集合ね。あ、受付でもらう紙は失くさないでよ?その時は自腹で払ってもらうからね」
「はいよー気を付けまーす」
会場についた後、テキパキとしている七海から説明を受け、男用の更衣室に向かった。それにしてもまさか自分がこの手のイベントにコスプレイヤーとして参加する日がくるとは思ってもみなかった。なんというか……役得だな。
そんなことを考えながら受付を済ませ、サクッと着替え始める。女子の方が混むらしいから急がなくても良いだろうがあのふたりを待たせるのは危ない気がする。それに他の人だっているわけだし、何事も早め早めが大事だ。
にしても…………
「顔強すぎね?」
「顔だけじゃなくて体もヤバいんだけど…」
「何のコスプレするんだろうな」
相変わらず井伏零央は周りからの注目を集めるのが得意なようだ。受付してる時からずっとチラ見され、ヒソヒソ話をされている。気持ちは分かるが少し恥ずかしい。とっとと着替えて集合場所に向かうとしよう。
「あっっっつ…………」
着替え終わり、外に出たのはいいが暑すぎる。真夏に軍服モチーフは流石に厳しいものがあり、世の中のコスプレイヤーはこれに耐えていたとは尊敬しかない。
そんな猛暑の中、持ってきていたスポドリを飲みながら待ち合わせ場所で待機していると、二人組の女性から声をかけられた。
「あ、あ、あの…………それって……『ハンガン』のウルフ……ですよね?」
声をかけてきてくれた女性は明らかに俺よりも年上だったが、井伏零央の威圧感のせいか緊張しまくっていた。俺はなるべく怖がらせないように優しく微笑むように心がけ、その質問に答えた。
「はい。そうですよ」
「うっっっわ…………ほらそうだってそうだって!やっぱり二期効果はあったんだよ!」
「いやでもでもクオリティヤバすぎない??本物じゃんそのままじゃんヤバいって」
少しはこの世界のサブカル事情に詳しくなったから分かるが、ハンガンはどちらかといえばマイナー寄りの作品だ。アニメの一期なんて作画が怪しくてなぁ……おっと今はそんな事考えてる時じゃないな。
「え、え!1枚いいですか!?」
「……どうぞ」
「わ、私も!」
「俺で良ければいくらでもどうぞ」
という感じで俺がこのイベントを最大限に楽しんでいると、女子更衣室の方から既に周りの注目を集めている二人組が歩いてきた。
「なんだ人気者じゃないか」
「…そっちこそ」
見事に衣装を着こなしている栞と話していると、俺の事を撮影していた女性達は栞達の方を見て固まってしまった。
「え、え、え、……え??お知り合い……ですか?」
「えぇ。私達3人は一緒に参加してます」
女性からの問いに栞が答える。その隣に立っていた七海も赤面しながらも頭をペコッと下げていた。
「マジ…………え、これ夢……?」
「わかんない……でも少なくとも今日が命日だと思う…………」
あまりの衝撃に脳のキャパが限界を越えたようで、彼女達は半泣きになりながら互いに顔を見合わせていた。
俺はそんな彼女達の為にと栞に目配せをし、察してくれた栞が彼女達に近づいて話しかけた。
「お写真、撮られますか?」
「ひゃっ…………は、はいぃ……お願いします…………」
「喜んで。ほらヨミ。君も」
「わ、私は…………」
栞からの誘いに七海が断ろうとしていると、それよりも先に女性の1人が遮るように突っ込んできて七海の手をとった。
「是非!お願いします!お二人で!」
「え、私も……いいんですか……?」
「もちろん!!!すっっっごいかわいいです!!!」
「っ……………ありがとう…ございます」
その熱量に押された七海はチラリと俺の方を見た。俺はそんな七海に対して「大丈夫だ」という気持ちを込めて微笑み返すと、七海はとても嬉しそうな顔で笑い、栞の隣に堂々と並んだのだった。
その後も俺達3人の写真を撮られたりと色々な要望に対応している内に周りには沢山の人が集まっており、しばらくはその対処に追われてしまうのだった。
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