(6)
気がかりだったのは、長瀬君のことでした。
あれだけ怒っていた彼が、あの動画を見たらどれだけ傷つくだろう、嫌な気持ちになるだろう、と。
何よりあの動画のせいで、高松さんをバカにしたような、そんな物言いをする学生が、ネット上にも現実にも少数ながらいたのです。
僕は彼と高松さんの関係性について何かを知っているわけではなく、そもそも数回話したことがあるだけで親しい友人ですらありません。
そんな立場で何ができるという話ですし、正直、同じ立場なら迷惑と感じたでしょう。
ただ僕は、あの時の彼の震えた声が、涙ぐんでいた表情が、どうにも忘れられずにいました。
実習授業の途中でした。講義の間も動画のこと、文章のことが小声で話されていて、聞こえていたのでしょう、長瀬くんの肩は震えていました。
30分ほどして、彼は教授に会釈すると、教室を抜け出しました。
行かなくちゃ、と咄嗟に思いました。
このまま静観していたら、彼が帰ってしまう気がして、自分もトイレに行くふりをして教室を出ました。
「長瀬くん」
何を言ったらいいか分からず、最初に名前を呼びました。
「なに?」
返事をする長瀬くんの声は、やはり暗いもので、その顔は、青ざめているのに目元だけが赤くて、ひどく憔悴して見えました。
僕は、なんだか胸が詰まるような気がして、回らない口で、大丈夫?というようなことを聞きました。
怪訝そうな顔をする彼に、弁解するように、コピー用紙事件があった時に怒っていたのを見てしまったこと、今日の動画を見て、いてもたってもいられなくて、つい声をかけてしまったのだ、ということを説明しました。
それから、きっとよく聞こうとしてようやく聞こえるような声で、
「高松さんさ、その、長瀬くんとの関係性はわからないけど、一生懸命な人だと思った。その、そんなこと僕が言っても意味わかんないと思うし、そっちからしたら全然関係ないやつがなんだって、そういう話なんだろうけど」
というようなことを途切れ途切れに言いました。つぶやいたというほうが合っていたかもしれません。
僕のそんな、整理のされていない不恰好な言葉を、長瀬くんはただ黙って聞いてくれました。
なんとなく、自分が子どもになったような気持ちでした。
ひと通り話した後、少しの沈黙が流れました。
それから、長瀬くんのため息と
「本当に全然関係ないじゃん、キミは」
という言葉。
やはり迷惑だったんだ。僕は泣きたい気持ちになりました。でも。
「でも、ありがと。優しいね」
彼は赤くなった目を細め、小さく笑いました。
返事ができずに固まってしまった僕に、長瀬くんは続けて
「でも、オレ別に高松って人と知り合いじゃないよ?だから正直、高松さんへのフォローをオレに言われても困る」
「え?」
拍子抜けというかなんというか、僕は間の抜けた声を出しました。
「いやでも、怒ってたから、関係あるのかなって」
「オレが怒ってたのはさ、『きよすみりょうた』の方。てか、そんな怒ってたのわかりやすかったんだ……この後、話せる?えっと」
たぶん僕の名前が出てこなかったのでしょう。
「秋津肇です」
「オレは長瀬
僕も彼の下の名前を知るのは初めてでした。
教室のある棟を出て、少し歩いた学内カフェのテラス席に2人で座ると、注文したカフェオレを一口飲んでから長瀬くんは話し始めました。
「オレさ、高校生の頃に親が離婚してて、苗字一回変わってんだよね。母親の方の長瀬にさ」
思わぬ告白に驚く僕をよそに、彼は続けます。
「まぁ、親の折り合いが悪かったんだ。兄貴が死んじゃってからは余計に酷くて、しょうがなかったのかなって」
少し息が詰まるような気がしました。それは、会ったばかりの僕が聞いていい事なのだろうかと。なんとかひねり出した返事は、
「お兄さん、亡くなってるんだ」
というオウム返しみたいなものでした。
「ん。自殺か事故かわからないんだけどね。雨の日に川で転落死だって」
今度は何も、言えませんでした。
「兄貴は立派な人でさ。なんていうか、明るくて、頭もツラも良くて、礼儀正しくて。全然、死ぬような人じゃなかったんだよ。自殺するような人じゃ、でも、あんなところにわざわざ行く理由もなくて──ほんとに立派な兄貴だったんだ。だから、父親もたぶん、兄貴に期待してたんだろうな、オレじゃなくて。兄貴が死んでから抜け殻みたいになっちゃって、それで、お袋はオレのこと心配して、離婚したんだよ。オレのために、旦那を捨てさせちゃってさ」
あくまで淡々と、当たり前のように長瀬くんは語りました。
それが、かえって苦しくて。
泣きたくなるようなことを、そんなに穏やかな顔で言わないでほしい。
僕の一方的な同情とは関係なく、彼は順を追って、落ち着いて、次の言葉を紡ぎます。
「で、離婚した父親の苗字が、清澄ってんだ。だからオレは、清澄夏方だったんだよ、つい少し前まで」
少し、頭の中で時間が止まったのを覚えています。
え、とか、あう、とかそんな音が僕の喉から漏れました。
それから、なんとなく嫌な想像が頭を巡ります。
清澄、『きよすみ』、じゃぁ、そのお兄さんの下の名前は。
「
そう言った後、彼はまたなんでもないような顔をして、数秒後に、ようやく泣きそうな顔をしました。
初夏の日差しが、痛々しいくらい彼を照らしていました。
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