4章 白羽の矢
第34話
日曜の午後、鉄山で起きた飛び降り事件を調べるため、ひなたは図書館に訪れていた。ネットで調べても出てこなかったので新聞をあたろうと考えたのだ。
――ちょうど二年前の今日この時間に、彼女はあそこから飛び降りて死んだんだ。
廻の言葉から日付はわかっていた。新聞を借りて目を皿のようにしながら読み進めていく。しかし、飛び降り事件に関する記載は見つけられなかった。
廻と同じ中学校の子に訊いてみるしかないんだろうか。
「いや、それはどうかな……」
人を巻き込んだ調査をしたら廻に探っていることを知られてしまう気がする。そうなったら、廻はおそらくひなたから距離を置くだろう。なぜだか、そんな確信があった。
廻は友人を自殺に追い込んだ中学校教師に復讐してない。そのことが引っかり続けているのだ。あの廻が、見逃すとは思えない。
――数週間後に、私は人を殺そうと思ってるんだ。
廻の言葉が脳裏に蘇り、ひなたは溜息をついた。
思い過ごしならそれでいい。でも、廻が復讐を企てているとしたら、自分はそれを全力で止めなければならない。そのためには情報が必要だった。
ひなたは建物を出て自転車のサドルに跨ろうとした。その時、「おお」と声が聞こえた。
見ると、天童だった。若い女性を脇に連れている。
「流石優等生だな。図書館で勉強か」
「まぁ、そんなところです。そちらの美しい方は……」
「妻だよ」
天童は照れくさそうに言った。女性が微笑みを浮かべて会釈をする。上品そうな人だった。
天童の妻が図書館に入っていく。それを見届けてから、天童は小声で言った。
「最近何か、困っていることがあるんじゃないか?」
流石に気づかれていたらしい。
数週間前までのひなたは、友達と行動を共にしていた。しかし今では一人行動か、廻と行動かの二択しかない。事情を知らない人間から見たら不自然極まりないだろう。
「悩んでいることがあるなら先生に何でも話してくれよ。全力で相談に乗るから」
「ありがとうございます。でも、今のところは大丈夫です。廻がいるので」
「そうか」
天童は嬉しそうに言った。
「先生って廻のことを嫌ってないんですね」
他の教師は廻を目の上のたんこぶとしか思っていなかった。態度を見ればわかる。
天童は自分の頬を掻いた。
「実は俺、中高時代は灰崎みたいなタイプだったんだよ。斜に構えて大人たちを馬鹿にしていた。黒歴史だな」
「……へえ、意外ですね……」
「ま、誰しもそういう時期はあるもんだ。前島はなさそうだけどな」
「それは……どうでしょうね」
姉とのやり取りが頭に浮かぶ。
天童は苦笑しながら話を続けた。
「昔の自分と重なる部分が多いから灰崎には真っ当な道に進んでもらいたいと考えてるんだ。しかし、俺だけの力じゃ灰崎を学校にとどめておくことはできん。あいつは昔の俺以上に捻くれ者だからな。だから……」
ひなたを見つめて少年のような笑みを浮かべる。
「俺は、前島の力が必要だと思ってる。頼めるか?」
「先生に言われなくてもそうするつもりです」
「そうだろうな。前島が自分の意志で、あいつに歩み寄ってくれて嬉しいよ。心からお前を誇りに思う」
「……先生……」
「ふふ、こんなところで泣くなよ。先生の胸を貸そうか?」
いや、とひなたは真顔で言った。
「奥さん待たせすぎてますけど大丈夫なんですか」
「あ!」
天童は焦った顔を浮かべた。
「そ、そうだった、そうだった。それじゃあ前島、気をつけて帰るんだぞ」
慌てた様子で建物に入っていく。
あの様子だと、かなり尻に敷かれているみたいだ。
ひなたは今度こそ自転車のサドルに跨り、ふう、と息をついた。
廻のことをしっかりと見てくれている人間が自分以外にもいた。
「……いいことだよね……」
快晴の空を見上げながら呟く。
ひなたは軽やかな気持ちでペダルを漕ぎ、帰路についた。
▼
家に帰ると、七緒は優雅なティータイムを楽しんでいた。
「今日はどこへ行ってたの?」
「図書館」
「へえ、それはいいわね」
会話しながらキッチンに向かう。
七緒は相変わらず身だしなみを綺麗にしていた。努めて、いつも通りを演出している。あの口喧嘩は七緒の中ではなかったことになっているらしい。
七緒との問題は何一つ解決していなかった。しかし、ひなたに焦りはない。ゆっくりと歩み寄り、二人で問題を解決していこうと決めていた。それは、以前までのような問題の先送りとは違う。より現実的なアプローチだった。いずれ、廻からもらった熊のぬいぐるみのありかも聞き出すつもりだ。
「これから映画を観ようと思うのよ。ひなたも一緒にどう?」
「いいね、ちなみにわたしはサメ映画が観たい気分」
「……サメ映画はちょっと……」
明らかに嫌そうな顔をする。
ジョーズやディープ・ブルーは真っ当に面白いし傑作なのに……。
冷蔵庫の麦茶入りピッチャーを取り出したところで家電が鳴り響いた。セールスか勧誘の電話だろう。七緒が立ち上がり、受話器を持ち上げる。
麦茶を飲んで一息つきながらリビングを見ると、七緒が険しい顔で返事をしていた。やけに長いのが気に掛かる。
「申し訳ないけど、ひなたとはもう会わないで頂戴。それが無理なら距離を置いて。頼むから」
……え?
やり取りを聞いただけでわかった。廻からの電話だ。
なぜ家電に掛けたのだろう。いや、そもそもどこで番号を知ったのか。兵隊に調べさせたのだろうか?
「お姉ちゃん、電話貸して」
近づいて声を掛ける。
七緒は逡巡しているようだった。ひなたはじれったくなり、ごめんね、と強引に受話器を奪い取った。
「もしもし、わたしだけど」
「……わたし? 今、わたしって言った? わたしって誰よ?」
「前島ひなただけど」
あれ、と思う。明らかに廻の声ではなかった。
「さっきの人、支離滅裂だったんだけど、何者なの?」
「わたしのお姉ちゃんだけど……」
「そう。もっと論理的に話ができるよう指導しておきなさい。それと、今すぐ相坂公園に来て」
「え、急に何なの?」
「緊急事態よ。灰崎廻のことで重要な話があるの。一刻を争う事態だわ」
「いったいどういう……」
「来なかったら殺すからね」
通話が切れ、ツーツー、と音が鳴る。
「……さっきの子、灰崎って子よね? 支離滅裂だったわ」
七緒が硬い表情で言う。やっぱり妹の友人は最悪だった、と顔に書いてある。
ひなたは受話器を置いて溜息交じりに言った。
「今のは廻じゃないよ。もっと変な子」
「そんな子とも友達なの!?」
悲鳴のような声を上げる。
ひなたは玄関に足を運んだ。
「行っちゃダメ」
七緒が鋭い声を出す。
ひなたは振り返って言った。
「廻がピンチらしいんだ。行かなきゃ」
再び前を向いて歩き出したら腕を掴まれた。
「それなら、なおさら行かせられないわ。ひなた、行っちゃダメよ」
「……お姉ちゃん……」
振り返ると、七緒は泣きそうな顔を浮かべていた。この間とは違う、真摯な目をしていた。
「話を聞いてる限り、やっぱりその子とは距離を置いた方がいいと思う。これはお母さんのこととか、私の未来のこととか、死んだ親友のこととは関係ない。姉としての意見よ」
ひなたは唇を嚙み締めた。七緒は嫌われることを覚悟のうえで、妹の身を案じているのだ。そのことが伝わってきた。
以前のひなたなら、考えるまでもなく七緒の意見を受け入れていただろう。
七尾が微笑んで言う。
「ねえ、一緒に映画を観ましょう。そういう約束だったわよね?」
「…………」
「ひなた、何か言ってよ。お姉ちゃんの顔を見て頂戴」
「ごめんね」
「……あっ……」
手が降ろされる。七緒は呆然とした様子で妹を眺めた。
「お姉ちゃんの気持ち、凄く嬉しかったよ。ありがとう」
「ひなた……」
「でも、廻のことは放っておけないんだ。行ってくる」
ひなたは七緒の視線を振り払うようにして家を飛び出した。
さきほどの快晴とは打って変わり、鼠色の空模様になっていた。
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