第32話


 廻との夜のデートを終え、自宅に帰る。時刻は八時半になっていた。

 リビングに足を運ぶと、七緒が定位置に腰掛けていた。食事を取らず待っていたらしい。短い挨拶を交わしてから、ひなたは本題を口にした。


「夜出歩こうとしていたわたしの方が悪いのに、お姉ちゃんを責めるような言い方をしてごめんね」


 七緒は柔らかな笑みを浮かべた。


「誰にでもそういうことはあるわ。気にしなくていいのよ」


 いつもの優しい姉の姿に、ほっと胸を撫で下ろす。

 ひなたは一度、自室に戻った。荷物を置いて何の気なしにベッドの方を向き、え、と呟く。

 ゲームセンターで廻からもらった熊のぬいぐるみがなくなっていたのだ。

 リビングに戻り、七緒にぬいぐるみのことを訊く。

 ああ、と七緒は微笑んだ。


「今回の罰として、あのぬいぐるみは隠させてもらったわ」


 絶句する。


「仕方ないでしょ。ひなたは悪いことをしたんだから。罰がなきゃ人は成長できないのよ」

「そんなの……」

「私が高校生の時、夜になってまで遊んだことはなかったわ。そんなことをするのは不良だけよ。このままだと、ひなたが不良になっちゃう。だから罰を与えたのよ」

「返して」


 硬い表情で言う。


「ダメよ。本当に反省するまでは返さない」


 ひなたはリビングを出た。背中に声を掛けられたが無視する。階段を上り、姉の部屋の扉を開けた。電気をつけて部屋を見回す。掃除が行き届いていて整理整頓されていた。ぱっと見では、どこにぬいぐるみがあるかわからなかった。クローゼットの中を探す。


「ひなた、何をしているの? 人の部屋よ」


 七緒が追い付いてきて声を掛けてくる。

 どこにもなかった。

 おそらくこの部屋にはないのだろう。

 部屋を出ていこうとしたが、七緒に立ち塞がられた。

 悲しそうな表情で見つめられる。


「どうしちゃったの? やっぱり、廻って子と付き合ってから、おかしくなってるわ。ひなた、昔のあなたに戻って頂戴。そうしないと、優秀だった頃の私みたいになれないわ。お母さんにも認められなくなっちゃう」

「……」

「ひなたには、カヤちゃんみたいな大人しくて素直な子の方が合ってると思う。あのぬいぐるみも、廻って子からもらったものなんでしょう? この際、忘れてしまってもいいんじゃないかしら」


 ひなたは黙って首のチョーカーを外した。


「これ、返すよ」


 手を差し出すと、七緒は目を見開いた。


「どうして?」

「終わりにした方がいいと思って」


 ひなたは悲しみを抑え込んで言った。


「私はお姉ちゃんにとって都合のいい人形じゃない。ましてや、亡くなった親友でも、過去のお姉ちゃんでもない。わたしは前島ひなたなんだよ」

「意味がわからないわ」


 胸が張り裂けそうになる。わかっていたことだ。いずれ、こうなることは……。

 七緒を傷つけたくなかったから問題を先送りにしていた。そう思っていた。

 しかし、それは言い訳でしかなかったのだ。

 本当に七緒のことを思うなら、もっと早く言うべきだった。

 自分が傷つきたくなかったから、ひなたは言いたくなかったのだ。


「お姉ちゃんは、お姉ちゃんの人生を生きるべきなんだよ。わたしはわたしの人生を生きるから」

「意味が、わからないわ」

「お母さんに認められるっていう、ありもしない望みを叶えるために、お姉ちゃんは頑張りすぎちゃったんだよね。その結果、破裂して自分の人生を諦めるようになった」

「……」

「お姉ちゃんは、わたしに全てを託そうとしてくれた。正直、嬉しかったよ。両親からは何も期待されてなかったからね。わたしみたいなポンコツに期待してくれてありがとう」


 七緒は身じろぎ一つせず、困惑の色を浮かべて佇んでいた。妹が何を言っているのか、必死に咀嚼しているようだった。


「でもね、お姉ちゃん。さっきも言ったけど、わたしは前島ひなたなんだ。お姉ちゃんと全く同じにはなれないんだよ」

「ひなた……」

「わたしは、お姉ちゃんの影響を受けて生きてきた。その点は間違いないと思う。今のわたしがあるのは、お姉ちゃんのおかげだよ。凄い感謝している。いじめから救い出してくれた時は、本物のヒーローだと思ったもん。わたしにとってお姉ちゃんは」

「ひなた!」


 七緒は耳を塞いだ。


「もう、やめて。聞きたくない。何も、聞きたくないの。お願いだから、やめて頂戴」


 子供のように首を振り、逃げるように扉を閉める。足音が遠ざかっていった。

 ひなたは姉の部屋で一人、溜息をついた。握られたチョーカーを見つめる。


 七緒の親友が亡くなったのは今から三年前。

 七緒が働き始めた頃、チョーカーが送られてきたという。その数日後、親友は自殺した。理由はわかっていないらしい。


「ひなたに持っていてほしいのよ。大切なものだから」


 プレゼントされてからというもの、ひなたは肌身離さず、チョーカーをつけるようにしていた。

 親友の死、母からの期待、自分の未来。七緒はその全てを、実の妹に押し付けていた。一人で抱えきれなくなってしまったからだ。


「お姉ちゃん……」


 虚空に語り掛ける。しかし、当然ながら返事はなかった。

 しばらくその場に佇んでから、ひなたは「よし」と呟いた。

 自分は今、前進している。現実と戦えている。

 くよくよ悩んでいる暇はなかった。

 ひなたは自分に喝を入れてから扉を開くと、暗闇の中に飛び出した。

 

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