第13話
単調な雨音が町全体を包んでいた。すぐ脇を、ウィンドブレイカー姿の子供達が駆け抜けていくのをひなたは見送った。水たまりを避けながら足を進めていく。
とんでもない目に遭ったな、とひなたは先ほどのことを思い返した。
人に抱きしめられて意識を失いかけたのは生まれて初めての経験だった。金輪際、同じような経験はしたくないと切に願う。
二階建ての自宅が見えてきた。
クリーム色の外壁で屋根は茶色だ。庭にはブランコが設置されている。ひなたが物心つく頃からあったものだ。
飛び石を踏んで扉の前に立ち、傘の水滴を払ってから、解錠して中に入る。静まり返っていた。傘を置いて靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。リビングの扉を開くと、姉の七緒がソファに座り、紅茶を呑んでいるところだった。
ひなたに気づき、おかえりと微笑む。
「うん、ただいま」
七緒の前の席に腰を落とす。姉は清楚なワンピースを着ていた。長い黒髪を三つ編みにしている。目鼻立ちは整っていてプロポーションがよく、本当に自分の姉なのかと疑いたくなるような美人だった。
七緒はカップを置くと、ひなたに優しいまなざしを向けてきた。
「学校はどうだった?」
「カヤと映画の話をしたよ。あと、長身女に殺されそうになった」
「え?」
目をぱちくりさせる。
事情を大雑把に説明すると、七緒は神妙な顔で頷いた。
「危ない子とは距離を置いた方がいいわ」
「言いたいことはわかるけど、放っておけなくてさ。意外と優しいところもあるんだよ。今のところは関係を続けていこうと思ってる」
「ひなたの判断を信じるわ」
安堵の気持ちが胸の中に広がっていくのを感じる。信頼されているのだ、と嬉しくなった。
学校での話を続けようとしたら、玄関の方で物音がして、足音が近づいてきた。扉が無造作に開けられ、母の市子が姿を現す。グレーのスーツに身を包み、不機嫌そうに眉を顰めていた。
どうしたの、と訊いたら、忘れ物、と市子は短く答えた。リビングの奥に置かれている封筒を手に取り、こちらを向く。七緒が笑みを浮かべると、市子は鼻を鳴らして何も言わず部屋を後にした。玄関の扉が閉まり、少ししてからエンジン音が鳴り響く。会社に戻るのだろう。
七緒を見ると、顔を伏せ、下唇を噛んでいた。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫よ」
七緒は顔を上げた。
「気にしてないから」
笑みを浮かべる。それからよどみない口調で続けた。
「私はお母さんの期待を裏切った。だから、無視されて当然なのよ」
空気が重くなる。
七緒は優秀な子供だった。神童と呼ばれ、大学でも活躍していたと聞く。そんな姉が初めて壁にぶつかったのが新卒で入った会社だった。詳しい話は聞いていないが、相当酷い目に遭わされたらしい。
七緒は半年で仕事を辞め、地元に戻ってきた。二年間引きこもっている状態だ。
引きこもり期間が長くなると、あらゆることに気を使わなくなるとネットに書かれてあった。しかし七緒はその逆で、以前より容姿に気を遣い、部屋の掃除を欠かさず、昼夜逆転もしていなかった。
本当に引きこもりなのか?
そんな疑念を抱きそうになるほど、生活習慣や容姿が整えられていた。
「私が悪いの、私が。私が悪い。全部、私が……」
七緒がぶつぶつと呟き続ける。さきほどの市子の無視を引きずっているらしい。
市子は、子供に対して距離を置いて接していた。そもそも人づきあいが苦手で、誰に対してもドライに接することを心掛けていたようだ。その考え方は子供相手にも変わらなかった。とはいえ、完全に無視しているわけでもない。長女の活躍ぶりを周囲に自慢することもあったと聞いている。母なりに気にはかけていたのだろう。しかし、社会で大きく躓いて地元に戻ってきた七緒に対して、市子は関心を示さなくなった。
「私はもうダメね」
七緒が微笑んで言う。
「でも、ひなたは違うわ。起き上がれない私と違って、どんどん完璧だった頃の私みたいになってきている。もっと近づければお母さんを認めさせることができると思う。二人で、あの人を見返してやりましょう」
姉の暗い瞳を見て、ひなたは言葉に詰まった。
市子は、ひなたに対して何の期待もしていなかった。学校行事に顔を出したことはないし、悩み相談をしても、「お父さんに聞いて」と一蹴されて終わった。年配の女性を詐欺被害から救い警察から表彰された時も、「へえ」と言うだけだった。
期待を寄せていた存在が成功した時だけ、市子はそれを自分の成果のように吹聴するのだ。仮にひなたがノーベル賞をとったところで市子は関心を示さないだろう。姉はそのことに気づいていない。
市子のそういうスタンスに反発めいたものを感じていたのは中学までで、高校に入ってからはどうでもよくなった。育ててくれたことには感謝している。だが、母の期待に応えようという考えは一切なくなった。
「お姉ちゃんはダメなんかじゃないよ。わたしの百倍は立派」
ひなたは力強く言った。
「そんなことを言ってくれるのはひなただけよ」
「お母さんのことを気にしているなら――」
途中で言葉を飲み込み、何でもないと笑みを浮かべた。
お母さんのことなんて気にしなくていいんだよ――そんな気休めを言ったところで姉は救われないだろう。なぜなら七緒は母に自分の功績を認めさせるために頑張ってきたからだ。今更、一切気にしないで生きていくのは難しいだろうし、その軸を崩してしまったら、いよいよ姉は一生立ち上がれなくなってしまうのではないか。そんな恐れがあった。
七緒は柔らかな笑みを浮かべて言った。
「今日は、美味しいものを食べましょう」
両親は共働きで帰りが遅いため、出前やウーバーで済ませることが多かった。寿司屋のお品書きを引っ張り出してきて、テーブルの上に広げる。どれにしようか、と会話を続けた。
「そういえば……」
七緒がお品書きに視線を落としながら口を動かす。
「チョーカーに引っかき傷がついてるわ」
「え?」
外して確認すると、確かにそのような跡があった。
……廻の仕業か。
おそらく抱き着かれた時に引っかかれたのだろう。
七緒は視線を上げて微笑んだ。
「私の死んだ親友のものだから大切にしてほしいわ」
「あ、ごめんね……」
「大丈夫。ひなたが大切にしてくれているのは伝わっているから。事故でついちゃったんでしょ? 仕方ないわ」
再び装着すると、なぜだか息苦しさを覚えた。単なる錯覚だろう。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「その傷、ひょっとして例の子がつけたんじゃない?」
澄んだ瞳に見つめられ、たぶんそうだね、と白状した。
「ひなたは純粋だから、人を操作しようとする悪い人に目をつけられやすいから心配だわ」
「廻は大丈夫だよ」
「……そうよね。ひなたがそう言うんだから大丈夫よね」
七緒はスマホを取り出した。お品書きに書かれた電話番号を打ち込みながら話を続ける。
「ひなたはきっと、昔の完璧だった頃の私みたいになれるわ。そうしたら、人を選べるようになれるはず。今は、まだ目を養う時期だものね。グレーな人と付き合うのも勉強になるから止めはしない。でも、身の危険を感じたらすぐに離れるのよ」
「わかった」
「ごめんね、お節介で」
「気にしてないよ、むしろ感謝してる。わたしって頭よくないからお姉ちゃんの助言がなきゃ生きていけないもん」
「嫌いにならないで」
「なるわけないって。ありえないから」
「ひなたは素直で可愛いわよね……。頭よくないって謙遜してるけれど、勉強もできるんでしょ? このままいけば、いつかきっと、お母さんを見返せる。私が保証するわ」
「ありがとう」
こちらの反応に満足したのか、七緒は通話をタップした。
注文の声を聴きながら窓際を見ると、てるてる坊主が吊るされていた。ひなたが作ったものだ。
立ち上がり、てるてる坊主に近づく。軽く押すと、ぶらぶらと揺れ始めた。
わたしの心の動きみたいだな、とひなたは思った。
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