第5話 衝動殺人

 今の世の中、殺人にもいろいろ種類があるが、殺人としての要件は、基本的には、

「動機がある」

 ということである。

 人を殺すには、それだけの理由があるわけで、

「動機なき殺人事件」

 というと、

「愉快犯」

 であったり、

「通り魔殺人」

 あるいは、目的は、

「婦女暴行」

 だったのに、相手に顔を見られたことでの逆上しての犯罪。

 この場合は、

「顔を見られた」

 ということが動機になっているので、厳密な、

「動機なき」

 ということではないだろう。

 ここでいう、

「動機のない」

 というのは、

「計画性の医務」

 があったのかどうかということであり、

「本当は殺すつもりはなかった」

 というのも、動機がないといえるだろうか?

 捕まった犯人は、最初には、

「殺すつもりはなかった」

 というかも知れない。

 しかし、殺すつもりはないといっても、それは、

「殺意があったかどうか?」

 ということであり、暴行を加えるだけの恨みであったり、それなりの理由はあったことだろう。

 だから、動機はしっかり存在していて、ただ、殺意があったかどうかというだけの問題で、犯罪の立証に関しては、ある意味、動機という意味では、ほとんど、言い訳でしかないだろう。

 警察だって、最初から、動機のない人間を調べたりはしない。

 まずは、捜査の最優先として、

「被害者を恨んでいたり、殺害動機のありそうな人間を洗い出し、それらの人間に絞って、その時のアリバイであったり、事件前後の行動を洗い出したりして、犯人を突き止めようとするだろう。

 つまりは、容疑者というのは、

「容疑者たる理由から、容疑者として捜査をされることになるのだ」

 ということである。

 実際に、捜査が始まると、証拠集めが行われ、必要とあれば、

「家宅捜索令状」

 を取り、家の捜索が行われる。

 これは、

「自由を一部、制限され、個人情報を、捜査のために晒さなければいけないということにより、家宅捜索令状を必要とする」

 ということになるのだ。

 そのような捜索令状を取ることで、証拠固めが行われ、平行して、容疑者が、

「逃亡、あるいは、証拠隠滅に走る」

 ということが考えられれば、こちらも、裁判所に申請し、

「逮捕状」

 というものを申請できる。

 それによって逮捕されれば、今度は、拘留されながらの取り調べが行われ、一定期間、拘留できるので、その間に、警察は、必死になって、捜査を行うのだ。

 この、

「逮捕状請求」

 というのも難しいもので、拘留期間が決まっているので、その間に事件が進展しなければ、

「証拠不十分により、釈放」

 ということになってしまう。

 基本的にそうなれば、

「警察の敗北」

 ということになる。

 だから、本当にその時に犯罪が行われたのかどうか、ある意味、

「逮捕状を請求できるだけの、証拠」

 というものも必要になるだろう。

 裁判所も、もちろん、むやみやたらに逮捕状や、家宅捜索令状というものを乱発することはできないであろうからである。

 それを考えると、

「警察の捜査というものも、確かに警察は、他の人にはない、捜査権であったり、いろいろと権力を有しているが、あくまでも、権利の元の力であり、その権利というのは、法律の下によるものだ」

 ということになるのだ。

 今の世の中において、

「動機のない犯行」

 というのは、捜査が難しい。

 なぜなら、まずは、動機のある人物から調べあげ、その中で、

「怪しい」

 と思われる人物を、まずは、犯人として、ある程度までに決めてしまっているからだといえるのではないだろうか>

 というのも、

「人間というのは、どんなに聖人君子に見えても、人から一つや二つは恨みを買っているものだ」

 と言えるのではないだろうか?

 その人にとっては、

「何でそんなことで恨まれなければならない?」

 ということだってあるだろう。

 好きになって、告白し、付き合っている女性を好きになったやつがいて、性格的に告白できない小心者が、好きになった人に対して、正式に告白し、相思相愛になった時点で、本来なら、諦めるべきところを諦めきれずに、結果、その二人に対して、嫉妬からの恨みが生まれたとしても無理はないだろう。

 しかし、その恨みというのは、まったくの逆恨みであり、

「これほどに理不尽なことはないだろう」

 と言われるに違いない。

 そんなことを考えていると、

 そんな場合は、

「殺されるという意識が本人にないだけで、相手にとっては、その嫉妬が殺意に変わることがないともいえない。下手なやつだと、嫉妬まで行ってしまうと、後は、殺意と紙一重だ」

 と思っている人も少なくはないだろう。

 だから、この場合には、殺意はあるわけだ。

 警察はそんな動機を見逃すことはない。

 本人は死ぬ間際に、

「何で俺が殺されなければならないんだ」

 ということで、恨みを持ったまま死んでいくことになるだろう。

 昔のテレビ番組で、

「恨みを持って死んだ人は、その恨みを晴らす権利がある」

 ということがテーマとしてあり、

「ただし、その権利を使ってしまうと、地獄に落ち、永遠の苦しみを味わう」

 ということだったように思った。

 過激なテーマであるので、賛否両論があったが、この話において、

「死後の世界」

 においても、

「権利が存在すれば、義務も必ず存在する」

 ということで、

「地獄において、苦しみを味わう」

 というのが、ここでいう

「義務」

 というものになるのであろう。

「権利があれば義務もある」

 この考え方がある意味カチッとした枠に嵌って考えられるのは、この、

「死後の世界」

 しかないということだろう。

 もっといえば、

「死後の世界」

 という、

「神様の領域に達しなければ、義務というものは存在しない」

 ということになり、逆にいれば、

「人間だけの世界では、発生した権利に対し、義務というものは、人間が決め手はいけない」

 ということになるのだろう。

「犯罪を犯す動機」

 というもので捜査をしてきて、

「捜査の中で動機のありそうな人を片っ端から洗ったが、そこで容疑者が一人もいなくなってしまったら、そこから先は、動機のない殺人という、実に漠然とした。まるで雲をつかむような捜査になってしまうのだろう」

 ということであった。

 実際に、動機のない犯罪を捜査するというのは、不可能に近く、もし万が一、容疑者を逮捕することができても、

「動機のなさを理由に、容疑者は頑なに証言をしないだろう」

 何といっても、動機がないのだから、尋問しようとしても、何から掴んでいいのか分からない。

 そうなると、

「防犯カメラにでも写っている」

 というような、決定的な瞬間の姿でもない限り、何も言えないだろう。

 確かに最近の防犯カメラの映像は赤外線でもついているのか、暗闇でも、人物を特定できるようなカメラなのだろう。

 だからといって、それだけでは決定的な証拠にはならないかも知れない。

「被害者と、どこかで接点というものがあれば別だが、本当に動機もなく、かかわりのなかった人間を殺す」

 ということもありだろう。

 その場合は。

「殺されるということが、被害者に分かっていなかっただけではなく、犯人にとっても、まさか誰かを殺す羽目になろうとは」

 ということもあるだろう。

 いや、それ以外に、その瞬間まで、人を殺そうとは思っていなかったと言い張り、実際にそうなのかも知れないが、少なくとも、

「人に対して殺傷能力を持ったもの」

 を凶器として使うのだから、

「人を殺そうとは思ってもいませんでした」

 というのは、虚しい言い訳にしか聞こえない。

 実際に、殺意というのがあったとしても、それは、被害者に対してではなく、

「誰でもいいから殺したい

 という意識からだったに違いない。

「誰でもいいだと? ふざけるな」

 と、警察の取り調べでは、それくらいのことは言われるだろう。

 しかし、今の取調室は扉が開いていたりと、

「昔のような、自白を強要させる:

 ということはない。

 もし、そんなことをして、裁判で、

「警察に強要された」

 と言われてしまうと、本来の真理とは別のところで、言い争うことになる。

 つまり、裁判の最初にも入っていないということになってしまう。

 だから、警察は、このあたりはデリケートなのだ。なぜなら裁判を行うほとんどの人は、

「公平に審理を行わなければならない」

 ということになるのだ。

 このような、裁判のようなものとして、

「どのように審理するかというのは、動機の有無によって、まったくその様子が分からなくなってしまう」

 ということだろう。

 なぜなら、このような犯人に対しては、

「まずは、精神鑑定」

 というのが行われる。

 この結果が出るのも、結構時間が掛かるようで、

「審理続行」

 ということになると、あらためて、裁判が行われる。

 この頃になると、

「実際の逮捕からでも、かなりの時間が経っていることだろう」

 と言われるだろう。

 そうなると、

「被告が事件の様相を覚えているかということで、わざと、覚えていないというのか、本当に覚えていないということでの供述なのか、自分でもよく分からなかった」

 それを考えると、

「ただでさえ、審理が難しいのに、真相究明ともなると、これからさらに、時間を要する」

 ということになるのか、それとも、

「すでにこの時点で、真相というものは、どうでもいいというほどの、目的も、大義名分というものもなくなってしまっているのだろう」

 と言えるのではないだろうか?

 そんな中で、衝動殺人というものがある。それは、自分に明らかな動機もないのに、反抗を行うことで、しかも、通り魔殺人のように、

「れっきとした殺意があるかどうか?」

 というのも、怪しいものである。

 つまりは。

「通り魔殺人というのは、動機というものも、殺したい相手がいるわけではないが、人を殺したいという意思はあり、その意思だけで行う、動機はないが殺意だけはある」

 というものである。

 そして、

「衝動殺人というのは、動機もなければ、殺意もない。ただ、反応に及んだ時、急に、誰かを殺したくなった。あるいは、何か幻覚のようなものに急に襲われて、自衛本能のようなものから、人を殺してしまう」

 というものになるのかも知れない。

 ある意味、

「通り魔殺人と、衝動殺人は、れっきとして違ったものだという意識はあるが、こうやって考えると、本当の境目というのは、意識できないところにあるのではないか?」

 と感じるのだ。

 しかし、厳密に考えると、やはり。

「通り魔殺人と、衝動殺人」

 では、まったく違うものだといってもいいだろう。

 通り魔殺人というのは、病的ではあるが、それは、目的や目的を達成するということに対しては、何ら精神疾患というわけではないだろう。

 しかし、衝動殺人となると、その精神疾患性というものは、結構あるかも知れない。

 殺人を犯すほんの少し前までは、人を殺そうという意思はなかったはずだからである。

 いきなり、人を殺そうという意識に見舞われるというのは、考え方として、

「とにかく、誰かを殺したい」

 という積極的な意識よりも、

「誰かに殺されるかも知れない。殺される前に、殺してしまおう」

 という意識としての、

「防衛本能」

 というものが働いて、

「人を殺す」

 という行動に出てしまうのだろう。

 人を殺しておいて、言い訳もないというものだが、もし、これが、

「精神疾患によるものが原因だ」

 ということになれば、

「最初から、罪に問われることはない」

 ということになるだろう。

 それが、

「衝動殺人」

と、

「通り魔殺人」

 の違いということになるのだが、

「実際に、犯罪が重たいとすれば、どちらなのだろう?」

 ということになると、難しいところである。

 それこそ、考え方によって、賛否両論があるだろう。

 通り魔殺人などは、一番卑劣な殺人である、

「通り魔」

 という場合、たいていは、一度で済むことはないと考えられる。

「一度犯行を犯してしまうと、殺人というものに感覚がマヒしてしまい、それどころか、快感に感じてしまうと、罪の意識に対しては、感覚がマヒするだろうが、犯行時においての快感に対しては、次第に高まっていくものだろう」

 といえる。

 そうなると、

「高まってきた快感が、飽きてくるまでには、どれくらいかかるだろう」

 すぐに飽きるものなのか、それとも、なかなか飽きることはないのだろうか?

 人それぞれなのだろうが、

「やはり、一度覚えた猟奇的な快感は、なかなか取れるものではないだろう」

 ということである。

 普通であれば、

「理性」

 というものが、抑えているのだろうが、逆にいえば、理性がなければ抑えられないもの。

 もっといえば、

「人間の本性の部分に関わってくることなので、理性というものを必要としないほどに、抑えることはできない」

 と考えると、

「通り魔殺人」

 というのは、理性に負けなかった意思の強さということにもなるのだろう。

 もっとも、

「殺人を犯せば、自分も終わりだ」

 ということが分かっていて、それでもやってしまうというのは、一般的に言われている精神疾患というものではないが、病的な、猟奇的な精神によって、行われているというのであれば、精神疾患よりも、たちが悪いといえるだろう。

 では、精神疾患ともいえる、

「衝動殺人」

 というのはどうなのだ?

「急に追い詰められたような心境になって、人を殺したくはないのかも知れないが、自衛のために、人を殺してしまう」

 というと、言い訳としては、一応理論としては合っているだろう。

 しかし、殺された人はどうなるというのだ? 何も悪いことをしているわけではないのに、殺されて、しかも、精神疾患ということで罪にも問われない。

 死んだ人間はともかく、残された家族としては、たまったものではない。

 稼ぎ頭である父親を殺されて、

「明日から、路頭に迷う」

 という、切実な状況に追い込まれる家族もいるだろう。

 いきなり、

「天国から、地獄に叩き落され、しかも、犯罪者に、おとがめなし」

 などというのは、本当に許されることなのだろうか?

 しかし、日本において、

「精神耗弱者は、罪に問われない」

 という法律となっている。

 これも、一種の、

「違法性阻却の事由」

 と言えるのではないだろうか?

 しかし、精神耗弱者の犯行の場合、

「精神耗弱者」

 には、自由というものが制限される。

 それはそうだろう。

「いつ何をするか分からない」

 という人間を、

「放し飼いにしているようなものだ」

 つまり、精神耗弱者となって犯罪を犯せば、その時点で、人間としての、

「自由はほとんどない」

 といってもいいだろう。

 もちろん、犯罪さえ犯さなければ、できるだけの自由は保障されていただろう。

「介護を必要とする人であれば、介護者と行動することで、ある程度の自由は許される」

 許されないとすれば、介護者が、

「不可である」

 と判断した場合で、これも一種の、民法などでいうところの、

「法律的無能力者」

 として、自由を制限されるのだが、実際には、

「自由を制限することで、その本人の生命や権利を守っている」

 と言ってもいいだろう。

 実際に、精神耗拍車ということで、

「禁治産者」

 あるいは、

「準禁治産者」

 というものが、民法上、

「法律的無能力者」

 として、定義されているのである。

 実際に、法律的無能力者は、民法においては、

「無効」

 であったり、

「取り消すことができる」

 というように規定されている。

 これは、元々、

「法律的無能力者を守る」

 ということから始まったものだが、だからといって、それを知らずに契約をした人は、「その損害を被らなければいけないのか?」

 ということになるのだ。

 確かに、このままであれば、法律的無能力者のせいで、損害を被ることになる。

 しかし、それでは、

「平等」

 という観点の、民主主義からは、かけ離れたものとなり、

「そもそもの法律の意義というものを覆す存在になりかなない」

 ということになるであろう。

 それを考えると、

「それを知らずに契約した人も守らなければいけない」

 ということから、

「すべてを無効にしてしまっては、いけない」

 ということで、

「無効のもの」

 と、

「取り消しができる」

 ということの二つに分けることができるというものである。

 ます、向こうというと、

「最初からなかったことになる」

 ということで、契約の相手は、その損害を被ることになる、

 ただ、もちりん、後から、

「法定代理人」

 という人が、追認した場合は、そうではないだろう。

 例えば、未成年が、マンション契約をしたとして、未成年の勘違いで、成人している日にちと契約日との絡みで、契約日が、

「まだ未成年だった」

 ということで、契約する相手も、そこまで気づかなかった場合なぢに当て嵌まるだろう。

 逆に、契約する相手が、

「ちょっとでも気にしていれば、すぐに気づけた」

 ということであれば、それは、

「気付かなかった方が悪い」

 というわけで、しかも、年齢が記載されていて、生年月日などの記載がある契約書だったりすれば、

「ちゃんと確認しない方が悪い」

 ということで、

「無効とされても、文句は言えない」

 だろう。

 それくらいのことは、気にしなければいけないということである。

 しかし、精神耗弱者に関しては、ハッキリと、

「おかしい」

 と分かる場合であればいいのだが、そうでなければ、普通にはわかりにくい。

 しかも、怪しいと思っても、相手に対して、

「あなた、精神耗弱者なんじゃないですか?」

 などと聴けるはずもない。

 そんなことをいきなり口にしてしまえば、それこそ、大問題であり、本当に精神耗弱者であれば、相手を侮辱した。

 あるいは、差別目的だったのではないか?

 ということになり、法律的にも、倫理的にも、

「アウトだ」

 ということになるだろう。

 それを思うと、

「相手が分からないというのは、無理もないこと」

 ということになり、いきなり、

「無効だ」

 というのは、あまりにも不公平であろう。

 となると、

「法定代理人」

 ということで、先ほどの未成年の場合であれば、

「親権者」

 ということであるが、今度の、法定代理人としては、

「保佐人」

 ということになる。

 つまり、

「精神耗弱者の行った契約は、一応、有効ということになり、それで、精神耗弱者や、そのまわりの人間に、損害が被ってはいけないということで、取り消すことができる」

 ということになるのだ。

 だから、この取り消しというのは、もちろん、

「保佐人」

 によって行われるということであり、保佐人が、

「取り消す必要はない」

 ということであれば、

「追認した」

 ということに自動的になり、契約は成立するということになるのだ。

 しかし、これは民法上のことであり、刑法においては、

「行った犯罪に対して、精神耗弱者ということになれば、犯罪者に、罪を問うということはできない」

 ということになる。

 一種の、

「被疑者死亡」

 ということでの、書類送検でしかないのと同じことである。

 そう、そういう意味では、

「被疑者死亡」

 なのである。

 罪を問うことのできる相手というのが、もうこの世にはいないということになるのだ。

 罪を背負うことができる人がいないということは、被害者側からすれば、

「これほど、理不尽なことはない」

 ということになるのではないか。

 誰を恨めばいいということなのか?

 それを思うと、これ以上の矛盾を世の中に感じるということはないだろう。

 そうなると、衝動殺人というのも、同じことであり、

「もし、相手が精神耗弱者などということになると、誰を恨めばいいのか? 死んでいった身内は、犬死ではないか?」

 ということになるのだ。

 そう、まったくの犬死なのだ。

 人から恨まれているわけでもない。これが、通り魔殺人とかであって、他にも被害者がいれば、

「極刑」

 ということになっても不思議ではない。

 つまり、

「よくて、無期懲役、普通に考えれば、死刑だ」

 ということになる。

 これが、

「法律によって、罪が裁かれる」

 ということである、

 当たり前のことであり、これが認められないということであれば、それこそ、

「神も仏もないものか」

 ということになるであろう。

 それを考えると、

「しょせん、人間の考える法律というのは、限界があるんだ」

 ということも考えられる。

 そうなると、今の日本では禁止されている、

「復讐」

 であったり、

「仇討」

 ということだってないとも限らない。

 実際に、言われていないので、誰も復讐などしていないということになっているが、実際にはそれなりにあって、それを公表すれば、

「社会不安に陥るのは、明らかだ」

 ということで、最高機密ということで、政府や警察の上層部だけ、あるいは、公安などという、

「本当にごく一部」

 という機密事項になっているのではないだろうか。

 それを考えると、

「今の国民は、知らないことが山ほどあるのではないか?」

 ということと、

「憲法で保障されている」

 という、

「表現の自由」

 と、

「社会問題になりそうなことなので、緘口令を敷く」

 ということとでは、どちらが優先されるべきなのか?

 ということである。

 本来であれば、

「憲法に抵触するわけなので、憲法自身を変えてしまわなければならないのだろうが、それは実に難しく時間もかかるということで、実質的ではない」

 ということになれば、

「憲法の補足ともいうべき、特例法を作るという必要があるのではないか?」

 ということになるだろう。

 なかなか難しいことである。

 どうしても、昔の治安維持法などでは、

「国家体制を揺るがすことに対しては、国家が介入できる」

 というような感じの法律ではなかっただろうか?

 何といっても、当時の世界情勢から言って、いろいろな社会体制、主義主張などがあり、そのため、他国からの諜報活動が多かった。

 かくいう、日本も実際に満州であったり、北京などで行っていたことであり、だからこそ、日本も警戒をしていたのだ。

 つまりは、

「国内にたくさんの他国からのスパイが潜り込んでいて、いざという時、国内を引っ掻き回すことで、戦争になった時、自国と優位に立たせよう」

 ということが目的だといってもいいだろう。

 しかし、日本は敗戦し、

「図らずも民主主義国家になった」

 ということもあって、憲法が改正され、それまでは、個人の電話傍受まで、国家レベルで行っていたということが、公然と行われていたのが、

「すべての検閲の禁止と、通信の秘密を舗装する」

 というのが、表現の自由のところの二項に書かれているのだった。

 つまり、国家や、個人、さらには、企業などの、いかなる者が、人の電話を傍受したりしてはいけないということになったのだ。

 戦前、戦中であれば、それこそスパイの問題などがあり、そういうわけにもいかなかったが、結果として、自由を認めることで、

「他の国から、新憲法ができた後、国家機密などの情報が、どこかに漏れていないということになるのだが、実際には、日本を属国とする某国に、すべて漏れてしまっていると言われているのは、実に皮肉なことである」

 と言えるであろう。

 そんなことが日本だけではなく、他の国でもあるのだろうが、とりあえず、今のところ日本という国が、

「お花畑だ」

 と言われているのが、垣間見れるような気がするのは、当たり前のことであった。


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