第4話 生殺与奪の権利
そんな緊急避難の話だったが、小説では、緊急避難のことを書いているわけではなかった。
その生きのこった男が、実は大悪党であり、性欲と金銭欲、さらに、それらを総合した征服欲というものに塗れ、主人を死に追いやって、まるで善人でもあるかのように、綺麗 な奥さんを我が物にして、同時にすべてを手に入れるという、
「紙も仏もあるものか」
という話だった。
それまでは、主人に対して、
「忠実な犬」
であったが、それを男は、自分が助かることが、自分が主人に取って代わるという状態になり、その奥さんとの間に自分たちの子供を設けたのあ。
実は、夫との間にも子供がいて、その子が邪魔だということで、葬ろうとしたのを、召使の起点で、何とか、それを逃れ、同時に化けの皮が剥がれたことで、家にもいられなくなり、自分の息子と、どこかにいってしまったという話だった。
結局は、その父親が違う義兄弟が、
「正義と悪」
に別れて戦うという、サスペンスタッチの話だったのだが、そこに、緊急避難のたとえになりそうなことを、プロローグとして、しかも、緊急避難には触れずに、話を振るということになるのだった。
そんな話であったが、話をしている串木野も、それを聞いている同僚も、今度は、その小説のことを話すわけではなく、
「緊急避難のたとえ」
として話しているのだった。
この話は、ある意味、実に気持ち悪い話でもある。
「自分が助かるために、他人を犠牲にしてもいい」
ということなので、小説のように、
「ひょっとすれば、皆助かったかも知れないものを、助かる確率を高めるということで、敢えて主人を葬り去った」
ということである。
ただ、あんな極限状態になると、精神状態もまともえはないだろう。ボートに乗っている方も、必死に泳ぎ着いた方も、
「相手のことなど考えている暇はない。とにかく自分だけでも助かりたい」
と思うに違いない。
しかし、ボートに後から泳ぎ着いた方、圧倒的に不利である。決定的に自分に勝ち目はないのだ。
「俺は、死にたくない」
と思い必死になってすがってくる姿を見ると、ボートに乗っている人たちも、必至で、男を振り払おうとする。
一度でも、その行動を起こしてしまうと、相手は、こちらを完全に敵だと思うだろう。普通の精神状態であれば、その恐怖の形相にたじろいでしまうことだろうが、そうなると、逆に、その様子に急に冷静になることもあり。
「ここで一度でも相手をボートに乗せないような態度を取ってしまうと、相手がもし助かった場合、自分はただではいられないかも知れない」
と考えるのだ。
相手の男は、
「明らかに自分を殺そうとしている相手を覚えているだろう」
と思い込んでいる。
この極限状態で、自分が冷静になったように、相手も冷静に見ているとすれば、
「皆助かった時、自分は、一生、この男の恐怖を感じながら生きなければいけない」
と考えるのだ。
そうなると、
「この男は、今ここで死んでしまっていてほしい」
と考えるのは当たり前だ。
この場にいる連中は、水の中にいる相手以外は、皆自分と同じ立場だ。
つまり、犯罪において、
「一蓮托生」
誰かが裏切れば、その人もただでは済まされない。要するに、
「溺れている男以外の皆が助かるか? あるいは、溺れている男もろとも、皆が死んでしまうか?」
ということであり、結果として、結局、実質的な状況においても、皆助かったという場合において、その後としても、結果は同じなのだ。
もし、復讐をしようとしても、復讐をする相手は、犯罪者ではない。
状況から考えると、
「誰かが犠牲にならないといけない状況であれば、あの時、復讐されるようなことが起こっていたとしても、罪になるわけではない」
ということだ。
だから、この復讐には、何ら正当性のない、
「動機と言える正当性のない」
ということで人を殺そうとしたのだから、情状酌量も薄いだろう。
つまりは、この場合、殺されても仕方がないという人物は存在しないのだ。
「せっかく、命が助かったのだから、それをよしとして、復讐など考えなければ、誰も死ぬことはないし、自分も破滅することはない」
と言えるだろう。
実際に、こういう緊急避難的な状態は、結構あるのかも知れない。
ただ、その立証というと、結構難しいのではないだろうか?
というのも、その時の証人というと、
「関係者以外誰もいない」
ということである。
もっといえば、自分がいかに平静を保っていれば、問題がないといえるわけだ。
それだけ、緊急避難というものは、
「曖昧」
であり、いかに、その状況を把握できるかということでもあるだろう、
何と言っても、その場に居合わせたのは、そのメンバーしかいないのだ。
ということは、それ以上いては、もっと大変であり、しかも助かった人すべては、
「一蓮托生だ」
ということになるのだ。
つまり、緊急避難の名合は、実際に罪を犯した人が裁かれるのであれば、
「他の人もすべて裁かれる」
ということになる、
「共同正犯」
ということになるのかどうかであるが、少なくとも、共犯ということは免れないだろう。
もちろん、これだけ曖昧なものなのだから、
「緊急避難として、罪に問われることはない」
ということを利用するという犯罪であったとしても、それを立証することはできないので、結果として、こうなってしまえば、もう誰も、そのことを問うこともできないだろう。
そんなことを考えていると、前に読んだあの小説は、
「あきらかに、落ち着いた状態での犯罪だった」
ということで、
「犯人は、どれほど肝が据わってた」
ということであろうか?
犯人だって、あの時は、精神的に、どうすることもできない状態だったはずだ。どこかで、開き直って、
「死ぬなら死んでしまえばいい」
というくらいになると、悪の精神が芽生えてきて、まるで、
「悪魔に魂を売ってしまった」
とでもいうべき状況になると、本当に落ち着ける気持ちになったとしても、無理もないことであろう。
実際に、悪というのは、それだけ冷静でなければ、務まらないともいえよう。
「人間は弱い動物だから、人を頼らないと生きられない」
ということなのかも知れないが、同時に、
「恐怖というものも知っている動物だ」
と言えるのかも知れない。
他の動物が、
「恐怖を知らない」
ということはないと思うのだが、本能で動いていて、恐怖を感じているようにはどうしても見えない。
それでも、天敵に襲われると、必死で逃げようとしているところは見ることができるのである。
ただ、それも、
「本能で逃げている」
というのであれば、まさにその通りであろう。
そんな中において、人間のように、
「誰かを盾にして生き延びよう」
とか、その逆に、自分の子供を助けようとして、自分が犠牲になるというような、
「自己犠牲」
を強いることになるのだが、これは動物においても、同じことがある。
ということは、子供などに対しての自己犠牲というのは、人間であっても、動物であっても、変わりはないということであろう。
だが、人間からすれば、
「他の動物が、どうして怖いということを意識しないのだろう?」
ということが分からない。
「恐怖というのを感じないのだろうか?」
人間であっても、動物であっても、その遺伝子に変わりはないだろう。しかし、その性質は、それぞれの種族によって、違っているのだろう。
「人間と他の動物だけが違っている」
というわけではなく、
「人間と、トラが違う」
ということであれば、
「トラとライオンも違うだろう」
ということであれば、必然的に、
「人間とライオンも違っている」
というわけだが、その違いも、
「それぞれの、動物との違いも違っている」
といってもいいだろう。
動物と人間という括りには、若干の違和感を感じる。
というのは、何も、
「人間と、動物というだけではない」
例えば、
「特撮などにおける、地球人と宇宙人」
との違いに感じられるのではないだろうか?
あるテレビを見ていて、宇宙人と、正義のヒーローの話を思い出していた。
「我々地球人と一戦交える気か?」
ということを、地球人の姿になった正義のヒーローがいうと、
「何を気取っているんだ。君だって宇宙人じゃないか?」
という。
それを聞いた時、違和感があった。
「確かに、正義のヒーローは、宇宙からやってきている。だから、宇宙人なのだが、その宇宙人が、地球征服にやってくる宇宙人と戦う」
というのが、そもそものコンセプトである。
それは、いろいろな見方があるだろうが、
「地球という美しい星に住んでいる地球人は心がきれいだ」
という思いから、地球を救おうという気持ちになったのだろうが、どうやら、
「地球人の科学力や、戦闘能力には限界があって、宇宙からの侵略には耐えられない」
ということで、
「美しい地球を救うために、正義のヒーローとして、地球に留まる」
ということを選択したようだ。
しかし、本来は地球人でもないのに、地球人のために命を投げ出して戦うという正義のヒーロー。実に都合がよすぎないだろうか?
ただ、この宇宙人の本質が、
「ファイティングに長けた宇宙人で、どこかに敵を求めていないと生きていけない」
という
「真からの格闘系の宇宙人」
だということになれば、
「地球を救う」
という意味で、相手をやっつける口実ができたということで、それこそ、
「ウィンウィンの関係」
ということになるのではないだろうか。
ある意味、そっちの方が説得力があるだろう。
地球上に生きている生物による自然の摂理というのは、それで成り立っているのだ。
中には、天敵に食われてしまうという悲しい運命にある動物があるが、その動物も、結局、他の動物を食べて生きているということになる。
最後には、その動物も死んでしまうことになる。それは寿命なのかも知れないし、他の細菌によって、病気になるのかも知れない。
しかし、その時、動物は命が途切れはするが、死んだ動物は、
「土に帰る」
というではないか。
つまり、植物の肥料となり、植物が成長すれば、動物の餌になる。
そうやって、順々に巡っているのを、
「自然の摂理」
というのだ。
それは、宇宙においても同じことなのかも知れない。
「弱肉強食」
という言葉、地球上では、まさにその通りという言葉なのだが、宇宙においても言えることではないだろうか?
果てしない宇宙には、いろいろな動物がいる。
人間よりも、進んだ生物がいないとも限らない。
そんな生物が存在しているという前提で、特撮番組は作られているのだ。
その番組の中で、その当時であったり、過去の、
「歴史上の過ち」
を戒めるようなものが結構あった。
特に、昭和の時代に多かったのは、米ソにおける、
「東西冷戦」
の構図である。
しかも、その構図としては、
「代理戦争」
という構図と、
「核戦争」
というものであった。
しかし、この二つは結びついていて、
「代理戦争の形になってしまうのは、核戦争の恐怖が、そこに潜在しているからだ」
ということである。
核戦争というのを、ある人が表現したことに、
「二匹のサソリをケースに入れた状態」
ということであった。
というのは、
「それぞれに、相手を殺すことはできるが、それは逆に、自分も殺されるということを意味している」
ということであった。
この場合は、
「一匹だけ生き残る」
ということはできない。
必ず、どちらかが生き残るということはできないというのだ。
だから、二匹とも様子を伺って、動くことができない。気を許してしまうと、相手に付け込まれることになるからだ。
と言えるだろう。
こういう場合の
「まったく動くことのできない状況において、自分だけが助かるということはできないものだろうか?」
ということであった。
一つできるとすれば、それは、
「三すくみ」
の関係である、
たとえば、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
の関係である。
それぞれに、天敵であるということが、サイクルになっているのが、三すくみということになるのだが、
「ヘビはカエルを食べ、カエルはナメクジを食べる。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
ということで、それぞれの三匹を先ほどの、
「二匹のサソリ」
と同じような状況にしたとしよう。
すると、三匹は、それぞれにけん制し合って、身動きすることはできないだおう。
例えば、
「ヘビがカエルを飲み込もうとすると、これ幸いと、ナメクジが、ヘビを溶かしに来る」
「カエルが最初に動けば、今度は、ヘビの餌食になる」
というように、順繰りになっていることで、身動きが取れないのだ。
このような三すくみの場合は、基本的に、
「最初に動いた方が、負け」
ということになるのだ。
「もしヘビが先に動いて、カエルを食べれば、ナメクジは天敵であるカエルがいなくなったおかげで、心置きなく、ヘビを食べることができる」
要するに、
「ナメクジの一人勝ちだ」
と言えるだろう、
しかし、実際には、この檻に入れられた時点で、遅かれ早かれ、この三匹は終わりなのだ。
どういうことなのかというと、
「ナメクジは、ヘビを食べた時点で、自分だけになってしまう。これはどういうことを意味しているかというと、餓死するのを待っているだけだ」
と言えるだろう。
そう、それぞれに一食分しか、餌がないのだ。
「先に食うか、食われるか?」
という違いだけで、世の中では、生き残るために、十分な食料がなければ、しょせんは餓死するということになるのだ。
だから、この三すくみの状態では、
「優劣の関係にはない」
と言えるだろう。
それぞれに天敵はあるが、食べてしまうと、こちらがやられるというだけで、生き残りはできないのだ。
しかし、人間は、他の動物と違い、文明を作れるだけの力がある。だから、まるで地球人が、地球の代表のようになっているが、果たしてそうなのだろうか?
宇宙人の中には、
「人間には、圧倒的に強いが、他の動物に関しては、まったく相手にならない」
というほど弱いこともある。
ということであると、宇宙人からすれば、人間など相手にするよりも、天敵をどうしようか?
ということになるだろう。
特撮番組で、宇宙人が地球人を怖がっているわけではなく、地球に来ている、
「正義のヒーロー」
というものを怖がっているということであろうが、実際に、人間を怖がっていないが、地球上にある何かを怖がっているということもあるだろう。
三すくみではないが、宇宙人が、地球人を怖がっていないというのは、基本的なことのようで、そうでないと、
「正義のヒーロー」
というものの、
「存在意義がない」
と言えるだろう。
それを考えると、地球人が、弱い存在という設定を、その人間が作るというのは、実に滑稽で、
「何が目的なのか?」
ということになる。
やはり、人間の強くない部分を補ってくれる存在が、不可欠であり、それが、自衛のための兵器であったり、兵力であるということでの、
「当時の再軍備」
という考え方を担っているのではないだろうか?
緊急避難というものが、
「曖昧なこと」
ということなので、特撮でも、いい加減になってしまうということだろう。
だから、
「却って、難しい」
といってもいいだろう。
たとえば、プロの作家が、編集部から言われることとして、
「テーマは自由で、とにかく面白いもの」
という注文の場合、普通の人なら、
「なんだ、簡単ではないか?」
と言われるかも知れない。
しかし、
「何でもいい」
というのは、却って難しいというものだ。
というも、
「何でもいい」
ということを言われているので、面白くなければ、
「それは、作家の責任」
ということで、言い訳は許されないということ。
つまり、面白くなければ、それは、作家の責任ということで、下手をすれば、次からは、
「依頼が来ない」
ということになっても仕方がないといえるだろう。
アマチュアであれば、
「そんなことが分からない」
というわけではない。
なぜなら、
「素人であろうと、プロであろうと、作品に向かう姿勢に変わりはない」
といえるだろう。
そういう意味で、
「文章を書いたりするのに、プロもアマチュアも関係ない」
と言われている。
小説家が、
「人間を書く」
とすれば、特に注文がないとすれば、
「地球上で一番優秀で偉い動物であり、しかも、一番弱い立場だということを書くのだった」
つまりは、
「両極端」
という方が、ドラマを書く上で、書きやすいだろうし、見る方も、
「いかにも、人間らしい」
ということで、自分に照らし合わせて見ることであろう。
つまり、人間らしさというのは、この
「両極端」
というのは、
「逃れることのできないもの」
ということで、性格的に合場広く描かれることであろう。
もっといえば、
「ジキルとハイド」
のような、
「二重人格」
というものが、人間の本能として潜んでいるとすれば、これは、
「他の動物にはないものだ」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「人間がこれだけ弱いものだということを、いかに補うかと考えれば。そこに、多重人格性というものが、孕んでいるといってもいいだろう。
それが、人間の本能というものであり、
「動物的な勘」
というほどの本能でなくとも、人間として、弱さを出しながらも、生きていけるということであろう。
しかし、この緊急避難というのも、同僚に言わせると、
「いろいろな理由はあるが、そんな緊急に避難しなければいい場所に行かあければいいだっけど、船に乗って行こうとするから、船が沈没するんじゃないか?」
というような言い方をした。
これは、
「どうしても、それに乗らなければいけない人がいて、その人が、遭難して、人間として当たり前の、助かりたいという意思を完全に蔑ろにしたもので、これ以上失礼千万なことはない」
と思うのだった。
普段は、こんな失礼なことをいうやつではなかったはずだ。少なくとも、同じような考え方を普段からする男で、そうでなえれば、いくら馴染みのお店で一緒になったという偶然だけで、こんなに仲良くなるということもないはずだ。
確かに、人によっては、
「いきなり、想像を絶するようなとんでもない話を、ぶつけてくる人だっている」
という話は聴いたことがあるし、同僚でも、部下でもなく。上司にそんな人がいるということで、しばらく、悩んだこともあった。
今では、
「どうせ、いつもそんな戯言を言っているわけではないので、自分の中で、時々のことだということで、無視していればいいんだ」
ということを、自分に言い聞かせていたのだ。
確かにその通りなのだが、ほんの少しだといって割り切っていても、どうしても自分で処理できそうもない時があるというものだ。
それは、相手が急に怒り出すには相手の事情があるように、
「聞いているこっちにだって、精神的な事情というのがある」
というものだった。
それは、精神的なものだけではなく、肉体的な疲れから襲ってくるものもあるだろう。
そんな時は、普段なら、
「またくだらないことを言っている」
といって割り切れるようなことであっても、体調が悪いばっかりに、まったく許せないという気持ちが強くなることだってあるのだ。
例えば、風俗遊びのことであるが、これこそ、人それぞれ、感じ方もあれば、モチベーションもあるということで、
「すべての人に当て嵌まる」
ということはあり得ないことであるっが、串木野の中で、まず最初に、モチベーションがた落ちするのが、
「部屋が暗かった時」
であった。
その瞬間、お部屋に入るまでのモチベーションを100とすれば、一気に50くらいまでに下がるといってもいいだろう。最初の瞬間に、一気に下がってしまっては、そこから持ち上げるのは、
「ほぼ無理だ」
といってもいい。
なぜかというと、下げたモチベーションくらいにしか、自分が期待していたプレイのほとんどをしてくれない。そもそも、こっちも下がったモチベーションでは、自分から、
「責める」
ということは積極的にはできない。
少なくとも、相手に下げられたモチベーションは、
「相手によって、復活させることができなければ、自分でモチベーションを挙げたとしても、それは、自分による力であり、癒しを求めてやってきたはずなんだ」
という思いに追いつくことはできない。
そもそも、相手によって下げられたモチベーション。最初から最後まで、ほとんどが同じペースなのだ。
それだけのサービスしかできないのか、よほどその日がそういう感じなのか、さすがに店を出る時、スタッフから協力を依頼されたアンケート用紙に、いいことばかり書けないということは分かっているが、さすがに服を着て、帰りがけのことなので、自分の留飲も下がりかけている。
点数を付けるとすれば、50点なのだが、さすがにそれも気の毒だということで、70点という、しかし、その時に、
「70以下なら、赤点」
という言葉を一言付け加える。
どう、70と69では、大きな違いだ。つまり、
「ギリギリ合格点であり、その点数は最低だ」
ということを言っているのだ。
何事も許せる許せないというのは、相手との微妙な距離感がある。しかも、この話は、
「人の生き死に」
といういわゆる、
「生殺与奪の権利」
というのが、絡んできているではないか。
生殺与奪というのは、読んで字のごとしで、
「他人の命の生死というものを、任された権利」
のことを言う。
今の時代であれば、普通はありえないが、古代の、
「奴隷制度」
を認めた国家元首であったり、国家元首が認めた役人などには、奴隷を、生かすも殺すも自由という権利があったのだ。
それだけ、元首の力が強いということであり、
「国をまとめていく」
という意味では、ある程度必要だったことなのかも知れないが、
「本当に許されるのかどうか?」
ということは、
「倫理的、道徳的」
には許されることではない。
これを恒久的に許してしまうと、いずれ、支配される階級から、反乱がおきて。内側から、崩壊するということになってしまうだろう。
ただ、この生殺与奪の権利といっていいものか、果たして、
「人民や兵士が自ら死を選ぶということまで、国家元首による、生殺与奪の権利と言えるのだろうか?」
ということである。
例えば、大日本帝国軍による、
「カミカゼ特攻隊」
というもの、さらには、
「玉砕作戦」
というものは、これこそ、国家ぐるみの、
「生殺与奪の権利」
ということではないだろうか?
確かに、教育によって、
「日本という国は、天皇陛下のものであり、自分たちは、天皇陛下の子供である。だから親兄弟などの肉親を大切に思うように、愛国心は、そのまま、天皇陛下への忠誠心につながる」
と、言い回しに微妙な違いはあるかも知れないが、大まかなところでは、このような言い方であろう。
ということであった。
普段の平時においては、親兄弟を大切にする生活でいいが、いざ、戦争などの有事になると、国民は、その権利を一部制限され、国家の勝利のためを最優先として、生きていくというのが、国民のことを、
「臣民」
と呼ぶことになるのだった。
大日本帝国というのは、主権はあくまで天皇であり、国家体制というのは、今の、
「アメリカに押し付けられた民主主義」
というものではなく、
「憲法に基づいた、主権を天皇とする、いわゆる、立憲君主個々だ」
というものである。
「君主国家である以上、軍を持ち、国防体制と自らで行っていた国家だったからこそ、臣民である国民は、天皇陛下のためには、死をも恐れない」
という教育を受け、その通りだと思い込まされているのだった。
それはいい悪いの問題ではなく。
「日本という国は、まわりの国から狙われていて、さらに、不平等条約を結ばされたことで、ずっと劣等感を持ち、いずれ、世界と対等に渡り合える国を目指すということでやってきた、アジアをリードする国、ということで、かの大東亜戦争の、大東亜共栄圏というものが生まれたのだ」
ということになるのであろう。
こんな、
「生殺与奪の権利」
という言葉で、
「権利」
というものがあるが、これは、裏を返せば、
「義務」
というのも、発生するということであろうか?
もちろん、生殺を与奪する方には、権利があるのだから、与奪される方は、
「有無も言わさず」
ということなので、そこには、義務が発生するだろう。
しかし、
「逆に与奪する方に、義務は発生しないのか?」
ということであるが、それも難しい話である。
「本来であれば」
というか、
「民主主義の考え方であれば」
そこに存在するのは、
「与奪されたことによる、
「残された家族による保証」
ということではないだろうか?
ただ、これは、民主主義においてのみの発想であり、民主主義においても、他の主義においても、相手が、奴隷などというものであれば、保証ということも考えられなくもないが、基本、
「人の命を勝手に奪う」
というのは、
「命を奪われるに等しいほどの、罪悪を犯したからではないか」
ということである。
つまり、
「死刑」
という刑罰ということになると、民主主義であれば、確かに、家族は保護されるということになるのだろうが、昔の封建制度などであれば、武士なら、切腹、それ以外であれば、斬首などということになるだろう。
特に、封建制度の時代などであれば、
「敵対勢力の首領」
ということになり、
「将来に遺恨を残さないようにしないといけない」
ということからか、下手をすれば、家族もろとも処刑ということも普通にあったのであった。
それを思うと、民主主義の中では、
「権利というものがあれば、その裏には、その一人の人間には、義務というものが備わっている」
と言えるだろう。
しかし、それは、民主主義において言えることであり、上下関係のしっかりしていて、
「ご恩と奉公」
などのように、上下関係の中の秩序こそ、法律に匹敵するほどの考え方である封建主義に、
「権利と義務」
という考え方は、一人の人間に存在しているというよりも、上下関係において、
「ご恩と奉公」
というような、一方通行の考え方しかないといえるのではないだろうか。
それを考えると、
「封建制度」
というものには存在している、
「権利」
というものは、現在の民主主義の中で言われている。
「義務を伴う権利」
とは、同じ権利でもその種類が違うものではないかということになるのであろう。
それを考えると、
「今の民主主義に、生殺与奪はあっても、それは、権利ではない」
といえる。
なぜなら、理論上は、
「死刑になった人間の家族が、キチンと守られるかどうか」
というのは、その保証が本当にされているかどうか分からない。
民主主義というのは、基本的には、
「自由主義」
でもあり、人の考え方や、思想などを、制限することはできない。
それをしてしまうと、民主主義ではなくなってしまうからであろう。
だから、今の民主主義において、
「死刑」
という判決であっても、それを決定するのは、
「権利」
というわけではない。
司法において、キチンと下裁判が行われ、その間において、キチンとした証拠固めや証言の収拾が行われ、
「裁判員裁判」
という司法の専門家以外の人も入っての、民主主義として、
「公平な裁判」
が行われることで、
「死刑」
というものが宣告されるのだ。
これは、
「他人によって、受けた判決」
ということであり、本当に死刑になるべき相手に容赦を掛けてしまうと、
「死刑になるべき案件でも、死刑にすることはできない」
という前例を、判例として作ってしまい、それが定着してしまい、
「法秩序が守られない」
ということになってしまうのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「生殺与奪」
というものは、
「封建制とであっても、民主主義であっても存在する」
ということであるが、
「その性質は、かなり異なる」
ということになるであろう。
そう考えると、
「民主主義においては、生殺与奪は存在しても、それを権利として解釈してはいけないのではないか?」
と思うのだった。
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