第2話 果てしない

「メビウスの輪」

 というのは、短冊になったような紙を使って、

「一か所捻じれた輪」

 というものを作り、そのどちらかの面の真ん中部分に鉛筆などで点を打ち、そこから、短冊に平行に線を引いていくと、本来であれば、一周すると、線を最初に引っ張った場所に戻ってくるはずなのに、永遠に、交わることがないのだ。つまりは、

「反対の面を通っている」

 ということになるのであった。

 この感覚を、

「何とも不思議な線だ」

 とは思ったが、どうにも話を聴いただけでは、ピンとこない。

 ということで、ネットなどで検索し、

「どういうものなのか?」

 ということを調べてみると、

「ああ、こういうことか?」

 と思うのだが、それでも、ピンとくるものではない。

 しかし、

「何かに似ているような気がするな」

 と感じるのだが、そう思うと、それが何かというのに気づくまでに時間が掛からなかった。

 串木野は、その輪を、頭の中で思い浮べ、思い浮べたことを、言葉にしてノートに書いてみると、

「ああ、こういうことか」

 という納得めいたことが頭に浮かぶのだ。

「これって、交わることのない平行線と同じではないか?」

 ということである。

「平行線というのは、交わることがない」

 と言われている。

 そして、

「交わることがないのが、平行線なんだ」

 と思うと、この二つは絶対的なものであり、

「1:1」

 ということになる。

 逆にいうと、

「交わることのないのが、一つだけあって、それが平行線だ」

 そして、

「平行線は、交わることのないものであり、それ以外にはありえない」

 ということだ。

「交わることのないもの、それらすべての表現を平行線というのだ」

 ということであれば、平行線の定義が自ずと見えてくる。

「地球は丸いのだから、直線でないものは、必ずどこかで交差する可能性がある。曲線であっても、交わらないように作りさえすれば、交わらないのだが、そのためには、相手との距離を一定に保とうとするだろう。これは無意識だから、できるのかも知れない」

 ただ、この発想は、あくまでも、

「それぞれに都合のいいことを考えるからできることであって、都合のいいことを考えると、その先に見えてくるのは、相手に悟られたくないと思うのだ。そうなると、相手に悟られないようにするには、無関心を装って、相手に気付かせないことだ」

 ということになるだろう。

 相手に悟られないようにするには、いわゆる、

「気配を消す」

 ということである。

 意識をしてしまった時点で、気付かれたくない相手に気付かれるものだ。

 これは相手にとっては都合のいいことで、気付かれたくないと思っている方からすれば、これほど都合の悪いことはない。

「無意識に、気配を消す方法」

 忍者でもない限り、無理であろう。

 では、忍者はどうして、気配を消すことができるのか?

 ということを考えると、身近に、

「そばにあっても、視界に入っていても、まったく意識することのないものが、人間には共通に、気配を消されてしまっている存在がある」

 と言える。

 それを指摘されると、

「ああ、そうじゃないか」

 と初めて気づくはずなのに、

「まるで、前から分かっていたような気がする」

 と、感じる人と、このことに関しては、賛否両論ではないかと思うのだった。

 それは何かというと、道端に落ちている、

「石ころ」

 である。

 石ころというと、確かに目の前にあっても、その存在を意識することはない。

 いや、意識するしないというよりも、見えているのに、あろうがなかろうが、意識はしない。

 目の前にあっても、普通にまたぐだけで、

「石ころがあったからまたいだんだ」

 ということになるのだ。

 この感覚、実は以前に、同僚と話をした中で、出てきたような気がする。

 同僚は、こういう話は好きなようで、結構、いろいろな引き出しを持っているようだ。今回は、この石ころという感覚に、少し難しい話を織り交ぜてしてくれた。ただ、同僚の話し方がうまいので、違和感がなく聞けたのだ。

 彼の話として、その時なぜ、この話題になったのか、後から思い出すことができない。

 いきなり、何かの話をしていたところから、急に同僚は、

「ロボット工学」

 の話を始めたのだ。

 同僚が、

「理系だったのか?」

 ということは分からないが、どうもこういう話は好きらしい。

「酒の肴」

 として話すのだから、あくまでも、雑学としての、ロボットの話だと思えば、

「却って、専門分野を、ひけらかすようなことはしない」

 と思えるのだった。

「ロボットというのは、昔から、タイムマシンなどと一緒に、未来の発明ということで、言われてきたが、何か、まるで、三種の神器のようだな」

 と同僚がいうので、

「2つしかないじゃないか?」

 と皮肉を込めていうと、

「いやいや、ロボットにしてもタイムマシンにしても、それぞれの謎が解明されるうちに、もう一つは出てくるものさ。何も最初から三つ揃っていなければならないなどということはないのさ」

 というのであった。

 彼がいう、

「ロボット工学」

 として、開発に対しての結界のようなものには二つあるという。

 一つは知っていた。

 これは、マンガなどで、よく話題になるものなのだが、もう一つは正直、聴いたことはなかった。

 しかし、それでも、すぐに理解できたのは、

「人間には、それを理解できるすべというものが分かっていた」

 ということなのか、

「人間の中でも、分かる人と分からない人に別れていて、俺はわかる方に入っていたのだろう。分からない人であっても、ずっと分からないわけではなく、話せばわかる人だ。しかし、もっといえば、まったく分からない人も存在する。その人は永遠に分かることはない。死んでも分からない」

 といってもいいのではないだろうか?

 ということであった。

 まずは、自分が聞いたことがある方であったが、これがいわゆる、

「ロボット工学三原則」

 というものであった。

 これの元々の基本は、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものである。

 つまり、

「理想の人間をつくるとして、間違って、怪物を作ってしまった」

 というフランケンシュタイン博士のことで、博士が、

「怪物を作ってしまった」

 というのは、本当に間違ってなのか、それとも、出来上がったものが、悪になってしまったというものなのか?

 ということである。

 フランケンシュタイン博士でなくとも、

「人間の役に立つ。つまりは、人間が行うには、困難なことであっても、その創造物にとっては、簡単にできることであれば、その創造物にやらせればいい」

 という発想は、誰にでもあるはずである。

 ただ、

「楽をしたい」

 というだけではなく、

「人間には、限界がある」

 ということで、

「限界とはどういうものか?」

 それを知ることで、限界のないものを作り上げたいと思うことは、当たり前のことである。

 と考えられないだろうか?

 ただ、限界のないということは、

「一度火がついてしまうと、歯止めが効かない」

 ということであり、その教訓が、この、

「フランケンシュタイン」

 という物語なのではないだろうか?

 これは、一体何が主人公なのであろう?

 そもそも、怪物は存在もしていないのだ。その怪物を作り上げたのは、人間だった。

 それは、

「自分たちにできないこと、できるが大変なことを、彼らにやらせればいい」

 という、あくまでも、

「意思のないものが相手であれば、何をしてもかまわない」

 という考えである。

 これは、まるで、ギリシャ神話における、

「オリンポスの神々」

 というものが、いかに人間をその意思を無視して自分たちの都合よく扱っているかということを示したものだ。

 これは、人間が、ほとんどの下等動物を、まるで、自分のものであるかのように誤認して、それこそ

「生殺与奪の自由」

 というものを、持っているということになるのではないだろうか?

「生殺与奪の自由というのは、生物の生き死にを自由に扱うことができる権利のようなものだ」

 ということである。

 基本的には、人間に対してということで使われるものであり、この自由は、相手が人間であれば、与えられるものはないのだが、逆にいえば、人間以外のいかなる動物に対してでは、そのすべてにいえることである。

 ということである。

 これは、宗教的には、

「おこがましいこと」

 になるのではないだろうか?

 というのは、宗教において、

「人間を始めとした生命のそのすべては、神が作った」

 ということになっている。

 これは、あくまでも、神というものを創造することで、

「人間がすべてのことにおいて、優位であり、偉いわけではない」

 ということの戒めなのかも知れない。

 人間という動物は、欲を持っていて、その欲を叶えれば、そこで終わりではなく、ずっとさらにその奥を目指していくものだ。

 その欲を満たすまでには、きっと、人生と呼ばれる、百年前後では、決して満たされるものではない。

 それは、当たり前のことで、

「欲には果てがないからだ」

 と言えるだろう。

 かつての、古来から残っている物語の中で、たとえば、中国の西遊記の話などで、妖怪や化け物の類が出てくるが、彼らは、基本的に、人間よりも、はるかに長寿で、数万年も生きているという話も多い。

 しかし、それでも、彼らは、

「徳の高い坊主の肉を食うと、不老不死が得られる」

 ということで、三蔵法師を狙い、その肉を食らおうとして、孫悟空に懲らしめられるというのが、話の概要であった。

 あの話は、それなりに教訓めいたことが結構あったりする。

 時に、

「妖怪のように、数万年も生きているにも関わらず、まだこれ以上の命が欲しいというのか?」

 というような、果てしない命というものを求めている。

 しかし、妖怪によっては、

「死ぬことができないことへの苦悩」

 というものがあったりする。

 確かに、生き続けるというのは、実につらいことで、人間の中には、

「今、まだここで死にたくない」

 と思っているのに、死ななければいけない人がいるかと思えば、妖怪のように、数万年も生きていて、

「いい加減に死にたい」

 と思ってる妖怪もいるというのは皮肉なものだ。

 妖怪からすれば、

「生き続けるということも苦しいことだ」

 というが、まさにそうだろう。

 人間百年であっても、生き続けることがつらいと思い、

「自ら死を選ぼうとする人だっている」

 それだって、

「人間には、生殺与奪の自由は有していない」

 ということを考えれば、

「自殺というのも、許されることではない」

 といえるだろう。

「生き続けること」

 そこに苦しみがあるのであれば、

「死を選ぶ方が楽だ」

 と思うのであれば、死なせるのが、人情ではないか?

 というのが、武士道のようなものではないだろうか?

 そもそも、寿命というのを100と考えるのは、人間も妖怪も同じであって、同じ時を同じように過ごしているのだから、感覚が違うとすれば、それぞれに時間に対しての考え方が違うということであろう。

「寿命というものは、死んでみなければわからない」

 というが、まさにその通りであり、

「死ぬということがどういうことなのか?」

 考えさせられるというものだ。

 孫悟空を映像化した中で、一つ印象に残ったシーンがあった。

 それは、孫悟空とお釈迦様とのやり取りの件であったが、それは、

「孫悟空の驕り」

 と言えばいいのか、それを、

「お釈迦様が戒める」

 というところであった。

 お釈迦様が、

「天竺に三蔵と一緒に赴いて、そこでありがたいお教をいただいてくるのだ」

 ということを言い渡すのだが、孫悟空は、

「そんな歩いてなど面倒臭いことをせずとも、この俺の?斗雲、一飛びすれば、天竺などあっという間に行って戻ってこれるさ」

 というのだ。

「では、それが本当かどうか、試してみればいい」

 というので、孫悟空は、

「いつも、自分たちの上にいて、今でいう、マウントを取っているお釈迦様を見返すチャンスだ」

 ということで、孫悟空は、雲を走らせた。

 実際に、雲の上を、自分の雲で、どんどん行くのだが、さすがに、果てしない。

「今までこんなに飛んできたことはないな」

 ということで、さすがに、その果てしなさにビックリしていたが、そのうちに、目の前に、光るものが見えたのだ。

「おお、あれが目指す天竺」

 ということで一気に飛んでいくと、そこには、五本の柱が立っているではないか。

 それを見て、孫悟空は、

「これが、世界の果てというものか?」

 ということで、そんな、最長不倒距離を飛んできたのは、

「この俺が初めてだろう」

 ということで、何か記念になるものをということで、その柱に自分の名前を記し、サインをしたのだった。

 そして、今きた道を一気に戻り、お釈迦様に報告してやろうと、意気揚々と戻ってきたのだ。

 それを待ちかねていたお釈迦様は、

「どうであった。悟空よ」

 と、こちらも、まったく態度を変えずにいうのだった。

 する悟空は、

「俺は、ついに行ってきたぞ」

 というので、

「天竺まで行ってきたというのか?」

 と言われた悟空は、さらに、有頂天になり、

「いやいや、天竺などという生ぬるいものではなく、世界の果てまで行ってきましたよ」

 と意気揚々というえはないか。

 それを聞いたお釈迦様は、無表情で、

「ほう、世界の果てとな?」

 というので、

「そら、来た」

 と思った孫悟空は、

「おお、俺はそこに、自分が来たという証拠を残してきた」

 というので、お釈迦様も、さらに、

「どういう証拠なのかな?」

 というので、

「孫悟空と名前を記してきたのさ」

 と、ここが俺の真骨頂とばかりに、叫ぶように言った。

 するとお釈迦様がここで初めて笑顔になったのだが、その笑顔は、戒めとも、慈悲にも見える複雑な笑顔になった。

「どんなって、俺の名前だよ」

 と少し不安そうに孫悟空がいうと、それを見透かしたかのように、お釈迦様の後光がみえた。

 それまでもあったはずなのに、そのことを忘れていたかのような雰囲気だ。

「それは、これのことかな?」

 とお釈迦様が指を出すと、何とお釈迦様の指の中の一本に、

「孫悟空」

 という見覚えのあるサインがあるではないか?

「どういうことなんだ?」

 と孫悟空は考える。

 さっきまでの勢いは明らかにない。ハッキリと分かっていることは、自分が、

「お釈迦様に負けた」

 ということであった。

 そこで、お釈迦様はいう。

「どうだ。お前ができると言った、雲に乗れば、天竺だろうがどこだろうがいけると言ったものは、しょせんは、私の手の上のことなんだぞ」

 と言わんばかりの勢いを感じるが、それは、まったく動じない雰囲気に、まるで、大きな山を感じたのだ。

「お釈迦様というのは、何と気高いものなのか?」

 ということであり、さすがの孫悟空も、低頭するしかなかった。

「よいか、悟空よ。ありがたいお教というのは、楽をして手に入れられるものではない。徳を身に着けることで、人を救うことができるのだ」

 というのだった。

 孫悟空は、思っていたかも知れない。

「お釈迦様には、人間にはない力がおありになるんだから、人間が可愛そうだと思って行動しているのであれば、なぜ、自分のその手でやらないのか?」

 ということである。

 別に、三蔵法師や自分たちを使わなくとも、いつでもどこにでも現れることができるお釈迦様であれば、自分でやればいいのに、

 ということである。

 確かに、自分でやればいいのだろうが、三蔵がたまに言っていたのかは分からないが、

「お釈迦様には、我々にはないお考えがおありなのだ。だから、如来として君臨できるのだ」

 ということであった。

 孫悟空は、思っていたのかも知れないが、

「弥勒菩薩様は、人間の姿で、我々に指示をしてくださるが、お釈迦様は、あれが本当の姿なのかは分からないが、雲の上で、巨大な身体で、さらに、金ピカで、まるで、相手を威圧するかのようなお姿をされているのにも、何か意味があるのだろう」

 ということである。

 釈迦に遭う前は、ほとんど何も考えることなく、ただ天界を自分で支配して、自分の天下を握り、そこに君臨したいという、

「征服欲」

 に塗れた、ただの

「欲の塊」

 でしかなかったのだが、釈迦の前に出ると、まるで、

「ヘビに睨まれたカエル」

 であるかのような雰囲気に包まれるのであった。

 菩薩と如来とでは、明らかに違う。

 菩薩というのは、

「悟りを開くために、今は修行の身で、数億年という天文学的数字の未来に、世界を救うために地上に降りてこられる」

 と信じられているもので、

「いまだ修行僧だ」

 ということである。

 しかし、如来というのは、釈迦を代表として、

「すでに悟りを開いたものであり、仏像の世界では、頂点に立っている存在のことをいうのである」

 ということだ。

 そんな釈迦を相手に、孫悟空のような、天界での暴れ者が叶うわけはない。

 人間への戒めという意味で、孫悟空というものを作ったのだとすれば、仏教文化というのは、西遊記における、

「動物の化身とともに旅をする」

 というのは、妖怪なども、動物の化身として考えるからなのか、人間世界が、一番呪わしいということを暗示しているかなのだろう。

 とにかく釈迦は、別格で、仏の世界でも、最高の地位を維持しているということになるのだろう。

 そんな

「果てしない」

 といy発想が、ロボット工学というものに対して、

「ロボット工学三原則」

 とは別に、もう一つ考えられることとして、

「フレーム問題」

 というものがある。

 この、フレーム問題というのは、

「次の瞬間に、広がっている可能性」

 という発想である。

 ロボットは何かを命令された時、そのことを達成させようといて、いろいろ考えることだろう。

 だから、命令には絶対であるし、それに従おうとして、人工知能を使って考える。

 命令されたことのために行動しようとするのだが、次の瞬間に動かなくなってしまう。

 それは、次の瞬間に発生することを予想しようとして、機能がマヒしてしまうのだ。

 とういうことなのかというと、

 例えば洞窟の中にある、何かのものを取ってきてもらうという命令を出したとしよう。するとロボットは、洞窟の入り口までくると、迷うのだ。

「壁が崩れてきたら、どうしよう?」

「中から、何か出てきたら、どうしよう?」

 このあたりまではあり得ることであるが、

「壁の色が白く変わったらどうしよう?」

 と考えるのだ。

 最後の、

「壁が白く変わるわけはない」

 というのは、人間であれば、

「色が変わるわけはない。しかも、変わったとしても、状況にまったく関係のないことである」

 ということが分かっている。

 しかし。ロボットには、そのことが分からない。無限の可能性があるのだから、考えるのは当たり前だ。

 ということなのだ。

 だとすればどうすればいいかということであるが、

「じゃあ、可能性を絞るように、

「それぞれ考えられることを、パターン化してはどうだろうか?」

 ということである。

 そうすれば、少しでも、絞ることができる、

 ということなのだが、実際に、絞り込みをしようとしても、すぐに、

「これはダメだ」

 ということに気付くのだ。

 というのはどういうことかというと、

「元々の可能性というのは、無限なのである。果てしないといってもいい。つまり、ここから先は、単純な算数の問題だ」

 ということである。

 要するに、

「無限を割る」

 ということになるのだ。

 算数でどのように習ったか?

 そう、

「無限は、何で割っても無限である」

 ということだ。割るものが無限なのだから、何で割っても無限しか出てこない。その時点で、割り算という考え、つまり、パターンを嵌めるという、フレームとしての考え方は成立しないことになるのだ。

 そこまではいいとして、一つここで疑問が生じてくる。

「どうして人間や、動物は、考える時、このフレーム問題にぶち当たらないのだろうか?」

 ということである。

 動物というものは、

「本能によって、それができている」

 ということであろう。

 考えられることとして、動物も人間も、太古の昔から、種族として続いてきたことで、子孫が生まれ、その子孫が、どんどん血をつないでくることで、

「種の保存」

 ということが成り立っているのだ。

 その中に存在している、

「遺伝子」

 というものが、ただ、親からの遺伝というものだけをつかさどっているわけではなく、フレーム問題というものを解決するだけの、頭脳となるものを受け持っているのだとすれば、これまでの、人間として生きてきて、遺伝子で繋がっているものが、時間とともに積み重ねられていき、フレーム問題を解決しているのではないか?

 ということになる。

 ということは、人間や動物の中にある遺伝子を研究し、それをロボットに応用すればいいのでは?

 ということになり、そうなると、

「人間の脳を移植するしかないのではないか?」

 ということになってくるだろう。

 そうなってくると、ロボットというよりも、アンドロイドというものではないか?

 完全なロボットではなく、人間の頭脳を移植できるロボット。ただ、そうなると、今であれば、

「生きている頭脳でなければいけなくなり、生きている頭脳を試食するということは、本当であれば、死んでしまっているはずの脳を移植することになるのであればいいのだが、生きた脳ということは、元々の人の意識もそのままに移植するということになる」

 つまりは、倫理的に、問題があるということである。

 ロボットとして、死んだはずの人の意識が入り込んでいるのだから、そのロボットは、

「自分は人間だ」

 という意識があるはずだ。

 となると、

「人間から命令されても、感情がないのだから、命令通りに動くというロボットのはずなのに、身体はロボットでも脳は人間なのだから、同じ人間に命令されながら生き続けなければいけないことを、どう感じるというのか?」

 しかも、世間的には、

「人間としての自分は死んでしまっている」

 いくら、ロボットの中で生き続けられるとはいえ、人権もなければ、権利も義務もない。下手をすれば、

「自分はロボットの脳になっているが、実は人間なんだ」

 ということを言ってしまうと、今の理論で考えれば、倫理上アウトだといえるのではないだろうか?

 そうなると、大きな社会問題になるのは必至である。


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