表裏の「違法性阻却」
森本 晃次
第1話 バーの客
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
皆さんは、刑法において、
「違法性阻却の事由」
という言葉を聞いたことがあるだろうか?
曖昧な言葉に聞こえるが、要するに、
「通常は違法とされる行為について、その違法性を否定する事由」
のことをいうのである。
これは、刑法上のものと、民法上のものがあるが、基本的に考えられるものとしては、やはり刑法上のものといってもいいだろう。
つまりは、
「罪を犯しても、罰せられない」
ということを言っているのであって、
「本来であれば、有罪となるべきものなのだろうが、その場合においては、しょうがなかった」
という場合のことである。
「そんなことってあるか?」
と、被害者の側からいえば、その通りなのだろうが、実際の犯罪とは関係のない、部外者にとっては、
「それは、やっぱり仕方がないよな」
と思えることだろう。
なぜなら、
「明日は我が身」
一歩間違えれば、自分もそんな立場になってしまうかも知れないと感じる場合のことである。
その内容をいえば、ほとんどの人が、
「ああ、そうか、そうだよな」
と思うことだろう。
ますは、
「正当行為」
つまり、業務上、正当な行為をしている中で、、
「法秩序全体の中で許される行為」
とされるもののことである。
これは、刑法にしか存在しない。
次にあるのは、
「正当防衛」
と呼ばれるもの。
これは、
「自分または他人の、生命や権利を防衛するために、やむを得ず行う行為」
のことをいう。
この正当防衛というものには、刑法上のものと、民法上のものとが存在する。
次には、
「緊急避難」
というものであり、これは、
「自己または第三者に対する現在の危難を避けるため、侵害以外に対して行った避難行為」
ということである。
自分が、今にも死にそうな時、他人を助けてしまったり、他人が助かりたい一心で、自分の危険を脅かした時に行う、避難行為のことでもある。
これも、刑法上と、民法上で存在する。
次には、
「自救行為」
というものである。
これは、
「司法手段によらず、自力で権利回復を目指すもので、同意語として、自力救済というものである」
一種の汚名挽回を自分で果たすというもので、これは、実際には、刑罰としては、曖昧なものではないだろうか?
こちらは、民事上では、
「自力救済」
と呼び、刑事上では、
「自救行為」
呼ぶものである。
もう一つは、
「被害者の同意、承諾」
というものがある。
この場合は、刑法上でしか存在しない。
基本的に言われている、
「罪を犯しても、罪として、要件を要していない」
ということで、加害者が、精神異常であったりする場合に、罪とはならないというようなものとは、一線を画しているといってもいいだろう。
これらのことが、一種の、
「違法阻却の事由」
と呼ばれるもので、民法上と、刑法上にそれぞれ存在しているものも、
「それぞれの法律上の概念としては異なる」
ということになるのだ。
つまり、どちらにも存在する。
「正当防衛」
「緊急避難」
というものに対しての、概念が違っているということになるのだ。
一般的に争われるのは、やはり、刑法にも民法にも存在しているこの二つのことであろう。
そんな、
「違法清楚逆の事由」
であるが、ここに、串木野という男性がいるが、彼が、同僚と時々、仕事の帰りに一緒に酒を飲むことが多くなったのだが、この時も、どちらから誘うということなく、自然と一緒に帰ることになった。
元々二人は、最初から一緒に飲みに行くということはなかった。お互いに、
「酒が好きだ」
ということを知っていたわけではない。むしろ、お互いに、
「相手は酒が嫌いなんだ」
と思っていたほどだった。
しかし、ある日、スナックに呑みに行った時、偶然出くわした。
「君とここで会うとは思ってもみなかったよ」
と串木野がいうと、相手も、
「ああ、それは俺も同じことさ」
といって笑っていた。
串木野は、この店を常連としているので、
「彼はきっと、たまたま入ってきたところで偶然出会ったん団だろうな」
と思っていたが、何かそれだけに運命的なものを感じた。
だが、面白いことに相手もまったく同じことを感じていたようで、その日、マスターは何も言わなかったが、数日後に、再度来店した時、
「お二人は知り合いだったんですね?」
とマスターがいうではないか。
それを聞いて、串木野は、
「それは、どういうことですか?」
と訊ねた。
マスターが言っていることは、
「私はお二人とも知っているんですよ」
といっているのと同じだったからだ。
「いえね。もう一人の方も、この店の常連さんなんですよ。だから、この間の会話を聞いていて、私は、吹き出しそうになるのを、必至で堪えていたというわけなんですよね」
という。
「えっ、じゃあ、彼も常連? 今まで遭遇しなかっただけということなんですか?」
というと、
「ええ、そういうことになりますね。相手の男性は、会社の同僚か何かになるんですか?」
とマスターは聴いた。
串木野も、
「そういえば、俺は、ここで、プライベートなこと、ほとんど話したことがないな。こういうバーのような場所では、プライベートなことを話すのは、なるべく控えていたのだった。話をするとすれば、スナックのようなところ、しかも、場末のスナックのようなところに限る」
と思っていたのだった。
「ええ、会社の同僚なんですが、彼も自分のことはあまり話しませんか?」
と聞くと、
「串木野さんもそうじゃありませんか。程度の具合にはよるんでしょうけど、同僚の方も、串木野さんよりも、寡黙な方だと思っていたんですよ。でも、この間のように、あんなに話す方だとは思っていなかったですね」
というので、
「そうですね。確かに会社では、彼はほとんど何も言いません。もろん、必要以上のことは、ということになるんでしょうけど、確かに彼は余計なことは言いませんね」
とマスターがいった。
「まぁ、こういう紳士的な店で、自分のプライベートなことを話すというのは、無粋に過ぎませんからね」
というと、マスターも言葉の意味が分かったのか、
「ありがとうございます」
と軽く流しているようにも思えた。
紳士的というのは、確かに皮肉であり、なぜなら、この店の客層は、お世辞にもいい人ばかりだとは言えないほどだった。
酒癖が悪いわけではないか、なぜか失恋などをしてこの店に来る客が多く、男女ともに、管を撒いている人は多いようだ。
「たまたま失恋した人が多いのか?」
それとも、失恋した人が来るような雰囲気の店なのか分からない。この店に来てから、失恋はしたことがなく、自分では、
「この店に来るようになったから、失恋しなくなったのでは?」
と勝手に思うようになったのだった。
とは言っても、この店にはいろいろな人がくる。失恋したという人も来ることだろう。
しかし、実際には、失恋した人の話をこの店では聴いたことがない。他にもバーという種類の店は聴いたことがあったが、この店とは、違っている。
店の雰囲気は、似たり寄ったりなのだが、何が違うといえば、、正直客層が違う。きっと、それはマスターの性格によるものではないだろうか?
マスターも、そんなに違うように見えないが、それはあくまでも、あのバーテンの服や髪型、そして、口元にちょっと生やしたちょび髭などが、
「いかにも、バーのマスター」
を思わせる。
しかも、シェイカーで、カクテルを作る姿を見てしまうと、
「どの店のマスターなのか、見分けがつかない」
と思うのは、串木野くらいだろうか?
だが、バーのマスターというもの、
「自分の店を持ちたい」
というくらいの気概を持っているのだから、
「人と同じではいけない」
という気持ちを結構持っているものではないだろうか?
そんなことを考えていると、このお店でも、なるほど、マスターだけを見ていると、まったく他の店とは違うこともなかってくるし、店を見ていると、
「マスターの性格が出てるんだな」
ということも分かってくるものだと感じた。
しかし、それも、
「意識して見ていれば分かる」
ということであり、そうも細かく見ることもないだろう。
そもそも、癒しを求めてやってきているのだから、そんな細かいところまで見ようとは思わない。
「しかも、そんなことを感じたりすれば、失礼ではないか?」
と感じてしまう。
「こういう店では、他人のプライバシーには、自分から関わるということをしないものだ。もちろん、相手が晒してくるのであれば、その限りではないが、もしそうであったとしても、なるべく、人のプライバシーと関わるようなことはしたくない」
と思うのだった。
確かに、人のプライバシーに踏み込んでしまうと、今までもそうだったが、ロクなことはないではないか。
そのことを思い出していると、
「あまり、話をする必要のないバーによくくるようになった」
というのも、分かり切ったことであった。
「だが、いつもいつも酒を飲むのに、一人で行くというのも、何か寂しい。それに、バーの料理はおいしいし、リーズナブルでもあるが、たまに、日本人なのだから、ビールや日本酒に焼き鳥などというのが落ち着くと思うこともある」
ということであった。
「それも、きっと、この俺が、のんべぇだからではないだろうか?」
基本的に、酒は日本酒が好きだった。
熱燗でチビチビやりながら、焼き鳥を食べるというのが、自分の、
「お酒のスタイルだ」
と思っていたくらいだった。
確かに、ワインやカクテルもたまにはいいが、
「やはり日本人なら、ビールに日本酒」
しかし、
「仕事の後の一杯として。ビールほどいいものはない」
というのも事実で、しかし、串木野は、どちらかというと、炭酸系は苦手だった。
しかも、おいしいのは、最初の一杯だけ。そう思うと、ビールを半分くらい飲んで、もったいないと思うかも知れないが、おいしく飲みたいので、ここから先は、日本酒にまわるのだ。
日本酒であれば、少々はいけると思っていた。
しかし、実際には、もっともっと飲める人がいるので、自分には、まったく歯が立たない。完全に、
「井の中の蛙 大海を知らず」
ということであろう。
そんな酒好きの串木野が、このバーに来るようになったのは、あくまでも偶然のはずだった。
偶然というのは都合のいい言葉で、自分の中で、
「偶然だ」
と思えば、偶然になるのだ。
まわりが、どう思おうとも、偶然は成立し、それが最近の、
「プライバシー保護」
というものと結びついて、発想が深くなってくることもある、
だから、串木野という男は、
「必然という言葉は、偶然というものの中にも含まれる」
と感じるようになり、
「偶然の中に潜んでいる必然というものを、いかに見抜くか?」
ということを、無意識に考えていたりしているものだった。
今回の、同僚との出会いも、
「今まで、ずっと会っていなかったというのは、本当に偶然なんだ」
とも思えるが、逆に、
「ここまでくれば、偶然という言葉で片付けられるものではないに違いない」
と言えるのではないだろうか?
それを考えていると、実際に、そのことを最初から分かっていた。つまりは、
「二人とも、この店の常連ではあるが、同僚だとは思っていなかったマスターも、この偶然と必然と考える方ではないだろうか?」
と思っていた。
しかし、同僚に関してはどうだろう?
「彼は性格的に、偶然としてしか思っていないような気がするな」
と思っていた。
偶然というものと、必然を見分けるのが難しいのは、
「言わずと知れた、必然というものが、偶然の中に含まれる」
ということが頭の中にあるからだ。
しかし、同僚は、そんな発想はまったくないような気がする。
それは、
「表に出ている分かりやすいことだけを、正しいと思い込む」
ということからではない。
串木野は、自分のことを、
「人と同じでは嫌だ」
と思っているから、裏も表も見えているので、その感覚から、
「表裏というものが、まったく正反対というものではない」
ということが分かっていた。
いったん、裏にひっくり返しておいて、再度表に戻すと、戻ってきた表は、最初の表であるとは限らない。
そのことを、
「おかしなことだ」
という発想にならないのだ。
それが、裏と表をどちらも見ているという発想で、人によっては、
「表裏は一体でしかない」
という、一見、当たり前に見えることを、それ以外の何物でもないという、凝り固まったというか、物事を素直にしか見ない人もいるのだ。
そう、小学生低学年で最初に算数で習う、
「一足す一は二」
という、
「当たり前のこと」
として、覚えこまされたあの公式を、素直に受け入れられるかどうかの違いだといってもいいだろう。
「きっと、同僚は簡単に受け入れた口なんだろうな」
と感じ、実際に、串木野は、
「俺は、きっと最後の方まで、なぜなのか?」
ということで、抗ってきたんだろう。
それを思い出していたのだった。
串木野は、同僚と、このバーで会ってから、意気投合した。このバーでは、基本一人でいることが多いので、話をするのも、他の店でが多かった。彼は、どうやらスナックが好きなようで、いつもその店に行っている。
理由は、もちろん、気に入っている女の子がいるからで、そのお店に行かない時というのは、その子が休みの時であり、ある意味、
「わかりやすいやつだ」
ということであった。
実際に、そのスナックにも、彼は連れていってくれた。そして、彼は、
「俺、彼女を気に入っているんだ」
と、大っぴらに公言している。
これも、彼の性格であり、彼女が嫌っているわけではなく、むしろ、ちょっと嬉しそうだった。
実際に好き嫌いというのは、営業的なものなのか、それとも、彼女の性格によるものなのか分からないが、少なくとも、客をその気にさせるのだから、それだけ性格的には、悪い性格ではないだろう。
そういう人を見ていると、
「小悪魔」
と称されることが多いのだろうが、そういう雰囲気というよりも、
「ほのぼの系」
といってもいいような、それこそ、口数の少ないタイプで、話をするとなると、いつも、少し、おどおどした雰囲気を醸し出している。
それが、
「俺が、何とかしてやろう」
という男の中の気概のようなものに、火をつけるのではないだろうか?
実際に。串木野も、彼女の雰囲気を見ていて、
「ずっと、前から知り合いだったような気がする」
と感じ、そして、それを直接口で伝えたくなるのだ。
そう、彼女には、
「こちらから、名言したくなる」
というような、不思議な力が備わっていて、そのおかげで、自分の中で、ストレスを溜めることはないのだった。
溜めることがないストレスは、発散させることができるからだというのは、当たり前のことであり、しかも、その当たり前のことを、感じさせないような感覚は、マヒしているわけではなく、分かっていることを、最初から何か暖かい空気に包まれていることで、意識させないのだろう。
まるで、最初は、熱いと思う熱湯風呂に浸かっていても、そのうちに、身体が慣れてきて、熱さを感じなくなるのと似ている。
熱さの感覚がマヒしてくるわけではなく、自分が、温まってくることで、熱さを感じなくなる。
彼女の中には、
「相手を無意識に近づける」
という、魔法の力があるのかも知れない。
そう、そんなことができるのは、魔法であって、人間業ではない。
「人間が人間を扱うことができる」
というのは、おこがましいものであり、それができるのは、
「魔法の力を持っているからだ」
と言えるのではないだろうか?
自分が、誰かを好きになったとすれば、それは、こちらを引き寄せる大きな力が備わっていて、その力を使える人が、本当はたくさんいるのだが、そのためには、資格のようなものが必要で、それが、
「意識して何でもできる」
ということが必要だと分かっていることである。
相手が、無意識なのだから、その時に、相手の気持ちに入り込めるだけの力が備わっている必要があるといってもいいはずである。
「無意識と意識を持っていることで、人間は結界を作り、そして、あからさまに、優劣冠を感じるものだ」
と串木野は感じていた。
「意識して何かをしようとすると、そこに、悪意なのか善意なのかのどちらかを選択する必要がある」
と感じる。つまりは、
「意識するということは、善悪が分かっていなければ、意識することはできない」
ということであり、逆に、
「無意識な人は、無意識なことが善であり、意識してしまうと、悪になる」
ということを考えるから、必死になって無意識を装おうとする。
そう思ってしまうと、なかなかそうも簡単に無意識になれるものではないのだろうが、世の中には、簡単に無意識になれる人がいる。
そうなると、
「無意識でいることを、意識しているという、何か捻じれのような感覚が生まれてきて。そこに、まるで、
「メビウスの輪」
のような、不可思議な感覚になってくるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます