第8話 楓と、ペンとノートと本と


「おばあちゃん。ちょっと出かけてくる。」

昼過ぎ、台所で洗い物をしている祖母に、少し遠くから楓が声をかける。

「どこに行くんだい。」

手を動かしたまま、祖母は尋ねる。

「ちょっとカフェで作業。」

「そうかい。行ってらっしゃい。」

「作業って何か聞かないんだ。」

「そんなの、あんたの自由だろう?」

「そうだね、行ってきます。」


 家を出て自転車を走らせ、最寄りのチェーン店のカフェを越えて、いつも通っているお店に入る。バイトの店員に会釈をして、一番奥の席をとった。

小さなバッグからペンケースとノートを取り出した。まだ何も買っていないことに気が付くと、スマホを持ってカウンターへと向かった。

「すみません、アイスコーヒーMで、店内で。あ、ストローください。」

会計を済ませると、すぐにコーヒーの入ったグラスを受け取り、席へと戻った。

 少しの間、外を眺めながらコーヒーを飲む。3分の1も飲んでいないくらいで、楓は大きく背伸びをした。ついでにあくびも出た。そしてノートを開き、ペンを動かしはじめた。


 楓が北斗の家を出てから、2週間ほどが経過した。彼女はほぼ毎日このカフェに来ては、ノートに何かを書き続けている。


“また今日も心が揺らいだ。私はそれを、顔にも声にも出さない。また『優しさ』で踏みにじられるから。

『揺らぐんならやめれば?』って、誰かが聞いたら言うと思う。私の中の誰かも、私の中の私の誰かもそう答える。でも、そういうことじゃない。”


 人間の、その時々の感情はそれら同士で比較検討することなどできない。もちろん他人との感情でもそうだが、同一人物の中でも同様だ。

 楓はかつて、『死にたい』と思った。その時の感情でそう思った。しかし今の彼女はどうだろう。初めて死にたいと願ってから今この瞬間まで、何人かの人に出会った。それはおおよそ他の同世代の少年少女と比較すると少ない人数で、少ないコミュニケーションしか存在しなかったのかもしれない。

その中でも特定の人との出会いは、確実に楓の感情に影響を与えていた。


 それでも、彼女の思い描く“短い”未来は変わらない。


 もう既に感情ではなく、決意となっているからだ。心は揺らぐ。何か他のことを願う。毎日少しずつ異なる何かを欲している。しかし、そんなものはもう、彼女の決意には何の影響も与えることができない。


 だから彼女は、今もこうして筆を進めている。


“確かに、優しい言葉が嬉しいこともあった。みんな言ってくれる。別に嘘だなんて思ったことはない。でも、嬉しいだけだった。

毎日、いろんな感情が湧く。それはパッと湧いては、泡のように次の日には消える。少し日持ちすることもあるけど。

でも、そんな感情とは別に、積み重なって消えない感情がある。しかもそれは、毎日全く同じもの。それが日々、私の心の容量を奪っていく。

少しずつ、人並みの感情が失われていく感覚がする。”


「私はもうすぐ、涙が出なくなる。」


 楓は筆を止め、ノートを閉じる。少しだけ残っていたコーヒーを飲み干し、帰る支度をした。





 北斗の日常は、元に戻った。孝太から、楓が実家に帰ったことを電話で聞いた。翌朝、楓の祖母から電話がかかってきた。とても礼儀正しくお礼を言われた北斗は、力が抜けてしまった。

「結局、私である必要ってなかったのかもしれません。いや、落ち込んでるとかではないですよ。」

「ん?」

文脈もなく口を開いた北斗に対し、美帆はキョトンとした表情をしている。数秒沈黙が続いたので、美帆は再び視線をディスプレイへと戻した。

 今日はほとんどの従業員が外出していて、オフィスには美帆と北斗しかいない。両者しばらく事務作業が続くようだ。

「横山さん、最近オフィス勤務が多いですよね。」

北斗は仕事の手を止め、一息つこうと立ち上がってはそう言った。

「あぁ、うん。ちょっとしばらくは誰の担当も受けないことになったんだよね。だから他の業務引き取ってる。」

「え、そうだったんですか。」

「うん。あでも、先週くらいからだよ。多分明日くらいには部長か課長から業務分担の話あると思う。」

「なるほど...。直近のお客さん、また一癖あったんですか?」

「あぁいや、違うよ!全然いい人だったし、何もお客さんとの間には問題なかったよ。」

「ほぅ、その先は聞かないでおきますね、一応。」

「あら、気遣いのできる女。」

「そういうことになっちゃいますかね〜。」

「ほっとかないぞ〜、男が。」

「その倒置法に含み持たせてるの、見逃すような私ではありません。」

「あらあら、気のせい気のせい。」

2人揃って声を出して笑った。ひとしきり笑った後に、北斗はオフィスを出て菓子を買いにコンビニへと向かった。


「お疲れ。あれ喜多見は?」

北斗が帰ってくるよりも先に、孝太が戻ってきた。

「あ、なんか買いに行きましたよ。コンビニだと思います。」

「おう、そうか。」

「ちょっと長いですけど。」

「おう、そうか...。」



 北斗にとっては、心の支えと心の重り(枷とも言い換えられるだろうか)を同時に失ったようなものだった。それは、結果的には彼女の精神に大きなプラスもマイナスも与えない。それでも、大きくて確かな質量をもった何かが、北斗の心から抜け落ちていることは事実であった。

楓が去って、北斗は、その少女が自分にとってどれほど大きな存在となっていたかをすぐに理解した。にもかかわらず、北斗は楓と連絡をとろうとはしなかった。

 いつの日か、孝太が北斗に尋ねた。

「喜多見。本当にいいのか?七海と話さなくて。」

孝太は自分の行動に罪悪感を感じていたのだろう。そのせいもあって、北斗と楓が再び会うことを望んだ。しかし、北斗の返事は否であった。

「はい。ちゃんと考えました。ちゃんと、感情と理性を頑張って分けて考えて、それでも曖昧な部分もちゃんと、ちゃんと考えました。私にとって楓ちゃんはとっても大切な人になったし、楓ちゃんにも、何でもいいから、何かを与えられたらなって思ってました。」

「じゃあ、なんで...。」

「楽だなって思っちゃったんです。楓ちゃんがいなくなって、悲しかったし、寂しかった。でも同時に重荷がおりたような気がして。そんなことを思う自分が許せないとか、そんな感情も湧きませんでした。」

「喜多見...」

「すみません、暗い話になっちゃって。つまり、今私は特にネガティブじゃないです。心にぽっかり穴が開いちゃってる感じですけど、また何かが、誰かが埋めてくれますよ、ね。ちょっと出かけてきます。」


「喜多見、それは重すぎる愛だ。」


孝太は、小さく、小さく呟いた。まるでどこかの誰かの愛を蔑むように、憎むように。



 

 何となく、いつものカフェの帰り道、楓は少し遠回りをして帰った。久しぶりに通る道も多く、知らない店が立ち並んでいた。

『本』と大きく書かれた看板が目に入る。

「あれ、こんなとこに本屋できたんだ。」

楓はその本屋に立ち寄ることにした。彼女はよく本を読んでいたが、それはほとんどが『先生』の家にあるものだった。自分の意思で外出することも少なかったので、本屋にはあまり入ったことがなかった。

「なんか、レコードショップみたい。」

仕草には出さないように努めていたが、楓は少し高揚した。特に何か本を手に取ることもせず、本棚の前を歩きながら店を一周した。

「あ、これ。」

一冊、見覚えのある本が目についた。


”『遺す言の葉』”


「これ、北斗さん家にあったやつだ。」

そう呟くと同時に、楓はその本に手を伸ばした。


”私は、疑問を持つのである。現代の『行き過ぎた』個人の自由が認められる社会に。それは、個人の自由を否定することと同義ではない。”


「なにこれ、難しそう。北斗さんこんなの読んでたんだ。」

楓はすぐに読む気をなくした。しかし、同じページの後ろの方に気になる単語が見えた。

彼女はその本をそっと抱え、レジへと向かった。


「ただいま。」

「おかえり。今日は遅かったじゃない。」

「本屋、寄ってた。」

「そう。」

「ごめん、1冊買っちゃった。」

「どうして謝るんだい。」

「だって、カフェの分のお小遣いしかもらってないのに。」

「足りたのなら別にいいじゃない。」

「そ、ありがと。」

「ご飯テーブルに置いてあるから、風呂入ってからチンして食べな。あたしは寝るよ。」

祖母はゆっくりと立ち上がり、寝室へと向かった。


 1人の夕食を終え、ダラダラモードへと移行する。ソファに寝転がり、クッションを抱えながらスマホをいじる。別に誰かから連絡が来ているというわけでもない。

楓はソファの上から懸命に手を伸ばし、今日買った本を取り出した。

 彼女にとっては、とても難しい言葉が多く出てくる本だった。それは、小説ではない。楓の知っている世界の話でもない。ましてやどこかの誰かの仕事の話なんて、知ったことではない。こんなつまらない本、すぐに飽きてやめてしまうのが普通だ。

楓からすれば、赤の他人の体験談ひとつで、自分の意思を揺らがせるどころか、触れることもできないくらいの気持ちだった。


「そうか、だから北斗さんは。」


「でも、私はそうじゃないんですよ。」


「だって...もう無理じゃないですか。」


「"全部"分かってるから、もう引き返せないし、引き返さないんです。」


「そうですよね、道後さん。」


 楓が眠りについた時、時刻はすでに深夜2時を回っていた。



==================


「なぁ、七海。先生は、七海にはどう見える?」

「ん?どういうこと?あんまりよく分かんない。」

「七海にとって、先生はどういう存在?みたいな話だ。さっきと言ってること大して変わっていなくてすまないが。」

「あー、うーん、それでも難しい...。私の、全部?は言い過ぎだけど、それに近いくらい!」

「そうか、ははは。それは確かに言い過ぎだよ。これからは、どんどん七海に対する先生の割合が下がっていくといいな。」

「え、どういうこと?先生どっか行っちゃうの?」


 “彼”は楓にそっと歩み寄る。


「ちがうよ。七海もこれから大切な人に出会うってことだ。そうすれば、自然と先生の割合は下がっていくだろ?そういうことだ。」

「割合とか、よくわかんない。」

「大丈夫だ。今は分からなくても、いずれ分かるようになるさ。じゃあ、先生は行くから。」

「うん、いってらっしゃい。」


==================


「あれ、枕濡れてる...。はぁ。」





「喜多見さん、あの...」

「は、はい!すみません。」

別の何かに気を取られていた北斗は、裏返った声と共に現実に戻った。

「あ、で、うちの主人ですが、さっき話したような病気でして。」

「分かりました、私たちが全力でサポートいたしますね。ご病気の具合の方はこちらでも医師と連絡とりながらになりますが、一旦は先ほどご紹介したプランで良いかと思っております。では、また来週のー、水曜日の14時ですね。お伺いしますので、よろしくお願いいたします。」

「はい、どうも。またお願いします。」

「ではまた。前日にも一応お電話とメールでご連絡致しますので、よろしくお願いします。」

北斗は挨拶をして、一緒に来ていた小島と共に担当している客の家を出た。


「喜多見さん、大丈夫ですか?」

「ん?なにが?」

オフィスへと戻る車の中で、運転席の小島が北斗に話しかける。

「なんか、らしくないですよ最近。」

「あー、ぼーっとしたり?ごめんね、自覚してるんだけど、どうすればいいかまだちゃんと答え出てなくて。」

「そうですか。あのすみません、ウザかったら申し訳ないんですけど...」

「ん?どうしたの?」

「あ、いや、やっぱやめときます。すみません。」

「ううん、いいの。」

それからは沈黙のまま、オフィスへと向かった。


 車から降りた北斗は、飲み物を買いにコンビニへと向かった。

「小島くん、私コーヒー買ってくるから先に戻ってていいよ。小島くんも何かいる?」

「あ、いえ。自分は大丈夫です。」

「そっか。あ、報告は戻ったら私がするから気にしなくていいよ。」

「あ、はい、ありがとうございます。承知しました。」

 コンビニに入った北斗は、いつも買っているコーヒーより少し良いものを買って帰ることにした。

「あ〜、小島くんにも気遣われちゃってるのか。しっかりしなきゃな...。と思いつつどうにもできないんだけど。仕方ない仕方ない。」

心の声をほんの少しだけ音に出して、自分を慰める。北斗は気持ちを切り替えるために頬に両手をやり、首を振ってからオフィスへと入った。



「え、なんで。」


 相変わらず建て付けの悪いドアが開かれる。北斗はドアノブを握ったまま小さく、そう声に出した。

視界には何人かの人がいる。

美帆は、心配そうに北斗を見つめている。

小島は、少し何かを悔いた表情をしているのだろうか、北斗とは目が合わない。

鈴子は、状況が読み込めていない様子で困惑している。

孝太は、額を手で覆っている。


そして、北斗が少しだけ横に目をやると、もう一人。


「北斗さん、お久しぶりです。」


楓が真っ直ぐに北斗を見つめていた。


「久しぶり、楓ちゃん。」


「それだけ、ですか?」


「だって、なんて言えばいいか分からないよ。どんな言葉をかけるべきか、何も出てこない。」


「そうですか。私は北斗さんと話したいこと、ありますよ。」


「そう...。でも、私も楓ちゃんと話したいのは同じ。ずっと話したかった。」


「なら、どうして連絡してこなかったんですか?うちのおばあちゃんの電話知ってますよね。」


「話したかったけど、話したくなかったの。そういう気持ちってあるでしょ?」


「確かに、あるかもしれませんね。」


楓が笑みをこぼす。その場にいる他の人間が背景となってしまうくらい、北斗と楓、二人だけの世界だった。

「ひとまず、話すなら後でいいな?一旦みんな仕事に戻ってくれ。」

孝太が隙をみて割って入る。その言葉で、それぞれが自席へと戻り仕事を再開した。

北斗はさっと楓に駆け寄り、耳打ちする。

「今日、うち来れる?」

楓は小さく頷いた。そのまま彼女は立ち上がると、孝太のもとへ向かった。

「すみません、お騒がせしました。事情は、さっき話した通りです。私は外で暇つぶしときます。」

「おう、気をつけてな。」


 当然、北斗は仕事に手がつかない。他の従業員も心配しているが、だからといって声をかけることはしなかった。周囲からすれば、今の北斗がどんな心境なのかは全く想像できない。なぜなら、彼女自身が把握できていないからだ。

「あの、課長。」

北斗は自席から立ち上がり、孝太に呼びかける。

「なんだ、喜多見。」

「楓ちゃん...七海さんとお話ししてきてもいいですか?時間休暇になって構わないので。」

「ダメじゃないが、個人的には待ってほしいな。定時くらいまでは。」

孝太はパソコンに目を向けたまま答える。

「どうしてですか?」

他のメンバーは仕事に集中しているフリをしながら、二人の会話に耳を傾けている。

「今日、七海が来たのは喜多見だけが目的じゃない。俺たちにとっても大事な話だ。みんなにも聞いてもらいたいからな。少し俺の仕事が落ち着くまで待ってくれ。」

「それってどういう...。」

「キタちゃん、後で分かるからさ、キタちゃんの気持ちはもちろん分かるけど、ね。」

「横山さん...。はい、今は我慢します。」

「悪いな、喜多見。」

「いえ、私が身勝手でした。自重します。」

「そんな重く捉えないでくれな。何も説明してないこっちも悪い。」


 なだめられるようなかたちで仕事に戻った北斗だったが、集中力が戻ったわけではなかった。ひたすら頭に過ぎるのは仕事以外のことで、楓や、時々母親のことが思い出される。

 北斗が母親である聡子と喧嘩したのはたった一度だけだった。それでも喧嘩した次の日は、何もなかったかのように優しい母親に戻っていた。

そんなことを思い出したのは、今日があの日に似ていると感じたからなのだろうか。先ほど楓が見せた表情は、聡子のそれを想起させた。


 ドアが開く音がした。

「おう来たか、七海。」

「ごめんなさい、ちょっと早かったですか?」

「いや、そうでもない。」

楓の姿を見て、各々が作業を中断して楓の方に身体を向けた。

孝太はわざとらしい咳払いをして、皆の注意を引く。

「えーっとだな。その...。」

話しながら、横目で北斗の表情を確認している。よほど彼女の反応が気になるのだろう。


「私、ここで働かせてもらうことになりました。」


「えーっと、ん?」


北斗は、何一つ状況をのみこむことができなかった。

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北斗の遺業 賀来リョーマ @eunieRyoma

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