第7話 楓と誰か


 北斗は、すぐにその言葉の意味を理解した。


 "楓が誰に見えているか"


 乗客の少ない電車の中で、仲睦まじい父と息子の姿が視界に入る。少し右に視線を移すと、母親と思われる女性が優しそうに微笑みながら2人の様子を見守っている。

目の前には、1人の女性が座っている。彼女の表情は暗く、深い。北斗には彼女のことがよく理解できた。


 北斗が家に戻ると、既に部屋着姿になった楓が寝転がっているのが見えた。

「ただいま。楓ちゃん、もうお風呂入ったの?」

「はい。すみませんお先です。」

「あぁうん、いいの、今日は早いなと思って。」

楓は、不自然なくらいに合わない視線を不思議に思った。

「楓ちゃん明日はどうするの?どっか出かける?」

「あ、いや、家にいようと思ってます。」

「そっか。」

「あの、北斗さん、」

「ごめんね、明日早くて。お風呂すぐ入っちゃいたいから、その後でもいい?」

「はい、全然。大したことじゃないので。」


 シャワーの音が絶えず流れ続けている。楓は大きなリュックからノートとペンを取り出した。その比較的新しいノートを開き、勝手に閉じないようにしっかりと折り目をつけて押さえる。


"ーーー『先生が好きだった歌』ーーー"


小さな声で鼻歌を口ずさみながら、時に考えこみ、筆を進める。少し笑顔になった直後は、決まって目に涙が浮かんでいた。

 シャワーの音が止んだ。それと同時に楓はノートを閉じ、ティッシュで目と頬を拭った。もともと入っていたリュックにノートとペンを再度しまうと、またスマホをいじりはじめた。北斗の風呂上がりのルーティンが終わるまでの時間潰しだ。スマホに目を向けながらも、頭の中では言いたいことを忘れないように反復していた。

 楓は『祭囃子』を口ずさんでいた。無意識だったのかもしれない。サビに進んだあたりで、歌うのをやめた。

「懐かしい歌、歌ってるね。」

鏡を見ながら顔に何かを塗るのに集中している北斗だったが、楓の歌声には反応した。

「え、知ってるんですか。北斗さん。」

「いやいや、こっちのセリフ!だって私の親世代の曲だよ?それ。」

「えっ、そんな昔の曲だったんだ。」

「そうそう、てことは知らないで歌ってたんだね。」

「はい。誰の歌かも知らなかったので。」

「ふーん。」

北斗は再び鏡へ向かい集中モードに入った。

換気のために少しだけ開けた窓の隙間から吹く風で、楓は少しだけ身体を震わせた。

「北斗さん、窓閉めてもいいですか?」

「あーうん、ごめんごめん、いいよ〜。」

楓はベッドの上に乗り、手を伸ばして窓を閉める。

そうしているうちに、北斗のルーティンが終わった。

「私のお母さんもね、その歌好きだったんだ。」

今度は確かに、北斗の視線は楓を捉えていた。

「え、あ、そうなんですね。」

 そっけない返事のようだったが、声の調子から、楓が何かを察し、それでも返答が浮かばなかったように聞こえた。

北斗は次の言葉を口にするか迷っている。実際に北斗の口から出る言葉がなんであれ、楓はその表情から北斗の人生の一部を推し量ったに違いない。


「私のお母さんは、死んじゃったの。」


2人の表情は変わらない。楓も驚いてはいない。少し肌寒い風が楓の顔に当たった。どうやら窓が閉まりきっていなかったらしい。楓は再びベッドを経由し窓を閉めて、鍵をかけた。そうしてまた元の位置に戻る。北斗はありがとうと軽く声をかけた。

北斗は、話を続ける。

「お母さんはね、自分で死ぬことを選んだの。病気ではあったんだけどね。でも、まだ生きられた。保証なんてないけど、私から見ればまだまだ元気だった。」

「そうだったんですね...。」

楓の表情が少し変化した。感情の変化と見てとれるほどではない。それでも、北斗にとっては大きな変化に見えた。

「私は、お母さんのために今の会社に入ったの。余命宣告されてたから。残りの時間をなるべく良い時間にしてもらいたくって、そんなヒントが得られる会社だと思ったから、この仕事を選んだの。最初は、死んでしまうまでにどれだけお母さんを幸せにできるか。それだけを考えてた。」

北斗の視界から、次第に楓の姿が消えていった。彼女は、言葉を止めない。

「いつの間にか、私の考えが、行動が変わっていった。どうにかして母の頭から『死』を忘れさせたい。そうしているうちに、私の頭の中から抜け落ちていたことに気づいたの。」

北斗はいつもより少しだけ大きな息を吐く。


 ”「『母が死ぬということ』。私が、私自身に母の死を忘れさせていたこと。」”


 そう言って、いつの間にか下を向いていた顔を上げ、目の前の少女を真っ直ぐと見つめる。楓の目には、涙が浮かんでいた。

自身の頬を流れる水に気づいた楓は、すぐに涙を拭うと、勢いよく立ち上がって部屋を出ていった。北斗は、その様子をただ見ていることしかできなかった。

「あぁ、言っちゃった...。」

小さな声が、一人暮らす部屋に響き渡った。


 街灯の少ない道の中、楓は全速力で走った。もうこのまま事故に遭っても構わないと、本気でそう思っていた。だがその心に反して、すぐに息が切れた。

「んあぁ!」

乖離する心と身体と、何かに苛つきを覚えた。涙も汗も、自分の気持ちも行動も、何もかもわからなくなっていた。この数分で心身ともに疲弊したためか身体が少しふらついていた。そして、偶然視界に入ったバス停のベンチに腰を下ろした。

 あの日、あの瞬間が楓の頭をよぎる。初めて周囲の人間たちが彼女に興味を示した日。人を哀れんでいるあの瞳を思い出して、寒気がした。

ほんの一瞬だけ、楓には北斗の視線が『あの瞳』に見えた。その思考を認識した時、吐き気を催した。


 楓の人生であんなにも名前を呼ばれたのは初めてだった。しかし、彼女にとっては決して快いことではなかった。自分の名前を聞くたびに不快に感じていた。

「ああいう目は、自分より下の人間にしか向けないんだ。」


====================


 カルテラで北斗のもとに辿り着く前の話だ。

楓が『先生』のもとから帰ってきてから最初の方は、祖父母は楓が勝手に出かけると厳しく注意をしていた。しかし18歳が近くなってくると、孫がどこで何をしていようが何も言わなくなった。

 ある日、楓は冗談混じり(に聞こえるように)祖母に相談してみた。

「ねぇ、おばあちゃん。」

「なに?」

「私、死にたいんだけど。」

「ちょっとやめておくれ。誰も幸せになりゃしない。」

祖母は表情を変えずに答えた。テレビには高校野球中継が映っている。

「じゃあ、みんなに迷惑が掛からないように死んでみる。」

「はぁ...。勝手にしておくれ。」

危ない足取りで祖母は自室へと戻っていった。



「あの、どうにかして、みんなに迷惑が掛からないように死にたいんですけど、どうすればいいですか?」

目の前の女性スタッフは困惑している。楓が初めて死に方を探していると相談した施設だ。カルテラと同種の会社だと言われているが、厳密には少し異なるらしい。

「えっと、今日は誰かと一緒かな?一人?辛いことがあったのなら、私にお話を聞かせて。」

楓は淡々とそこに来た理由を話した。

「それは大変だったのね。おそらく、私には到底理解できないことなんだと思う。私がどんな言葉をかけても軽く聞こえてしまうかもしれないけど、やっぱり死んでしまうなんて、もったいないわ。」

応対していた女性は柔らかい表情で楓に語りかけた。

その女性スタッフの対応は、間違っていただろうか。無責任だっただろうか。

楓は冷たい言葉を言い残し、すぐにその場を去った。そんなことが、何回かあった。初めて北斗のもとに訪れたときも含めてだ。


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 汗も引いてきて、少し肌寒くなってきた。すぐに家に戻る気もなかったが、立ち上がってひとまずは家の方に向かうことにした。

 思いの外遠くまで走ってきたこともあり、道に迷ってしまった。図らずも家に着くまでに時間がかかったが、20分くらい彷徨った後に、やっとのことでアパートの前まで辿り着いた。静かに鍵の開いたままのドアを開け、無言のまま部屋に入った。

北斗は何やらパソコンの画面に目を向けているが、何を見ているかまでは分からない。当然、楓が帰ってきたことにも気づいているが、何も言わない。まるで喧嘩した後の姉妹のような空気が部屋中に漂っている。

「何も言わないんですね。急に出ていったこと。」

楓が沈黙を破った。

「うん。私が悪いからね。」

「じゃあなんで、」

「ひとまず、もう一回お風呂入ってきな。お湯溜めといたよ。」

北斗は楓の言葉を遮る。楓は言いかけた言葉を続けようとしたが、その瞬間にくしゃみが出た。

「ほら、風邪ひいちゃうよ。早く早く。」

パソコンから視線を外さずにそう言った北斗に対して、楓は言葉では反応せず脱衣所へと向かった。

 腹立たしさからか、いつもは弱めのシャワーの水圧が強い。少し汗を流した程度でシャワーを止め、湯船に浸かる。一度頭が隠れるまで潜り、すぐに顔だけを水面から出した。

大きな息を吐く。楓にとって今日で二度目のはずのお風呂の天井は、急にどこか知らないホテルのそれに見えた。


「上がりました。」

「うん。」

「北斗さん、少しお話しましょう。」

「そうだね、まずは私の話の続きから?それとも、楓ちゃんの話を先に聞いた方が良いかしら?」

北斗は慣れない語尾と身振りで楓にソファに座るように促した。

「北斗さんの話を、考えを聞かせてください。今の私には、ここが『家』なのか分からなくなってしまいました。」

「そう...。」

「北斗さんのお母さんの話...でしたよね。」

「うん。ごめん、やっぱ少し考えさせて。もっと整理してから伝えたい。」

さっきまでの言葉とは一転して、北斗は対話を拒否した。また窓が少し空いている。楓が出かけている間に、北斗が開けたのだろうか。

「はぁ、そうですか。じゃあ今日はどっか泊まりますね。」

「ごめんね...。」

楓は静かに身支度をして、家を出た。


 北斗にとっては、久しぶりの一人の夜だった。ただただ、頭を悩ませ続けている夜だ。自分の言葉と、声色と表情と、そして気持ちも。何ひとつ一致しないまま楓に言葉をかけ続けた。簡単な穴に、容易く落ちた。それに気づいた時、『正直に伝えること』を何の思考のフィルターもなく『正』とした。自分が楽になるために。またそれに気づいた時、正も負も自分では判断がつかなくなった。逆立ちで生きているような、後ろ向きに走っているような。気づけば北斗はそんな夢を見ていた。

「ほんと何してるんだろう...。」

夢か寝言か、いずれにせよその言葉は誰にも聞こえなかった。



「え!?今から泊まりにくる?俺の家の場所知ってんのか?というか何で俺の番号知ってんのさ。」

自宅で缶ビールを片手に電話に出た孝太が口に含んでいたものを吹いた。

「北斗さんに教えてもらっていました。何かあったら課長に連絡しろって。」

「あいつ...。」

孝太は小声で恨み節を吐いたが、少しばかり口角が上がっていた。

「あの、行っても良いですか?」

「あ、あぁすまん。まず何があったか教えてくれ。一応成人しているとはいえ、高校生を泊めるんだ。俺がちゃんと言い訳できないと困る。」

「話すと、長くなります。あと、今少し肌寒いです。」

「はぁ...。なんかそういうとこ喜多見と似てるんだな。まぁ泊めるかはおいておいて、ひとまずうちで話を聞くよ。土御坂駅まで来たら電話してくれ。迎えに行くから。」


 楓はすぐに駅に向かい電車に乗った。4駅ほど先の駅で乗り換えて、そこからまた同じくらいの時間が経ち、言われた通りの駅に着いた。楓はスマホを取り出し、電話をかける。

「あ、課長。駅着きました。」

「もしもし。おう、了解。あとその課長ってのやめてくれ。孝太でいいから。」

「はい、わかりました。孝太さん。」

「おう、今家出たから5分くらい待っててくれ。」

 そう言って孝太は早足で最寄駅へと向かった。七海楓を迎えに行く最中、頭に浮かぶのは別の顔であった。彼女と何かあったのだろうか、と。週明けにかける言葉を思い浮かべては没にしているうちに、駅周辺の商店街へと入った。ポケットからスマホを取り出す。

「あぁ、もしもし。もう着くけど、どこの出口にいる?」

「えっと、港南口です。目の前にコンビニある方。」

「はいはい、おっけ。じゃあ近い方だ。あ、いた。」

孝太は電話を切って、駆け足で少女のもとに向かった。

「おっす。じゃあ行くか。コンビニでなんか買ってこうか?」

「あ、お茶だけ良いですか。」

 コンビニの会計を済ませ、2人で孝太の家に向かった。当然2人で会うのは初めてだったため、家に着くまで沈黙の時間がほとんどだった。

幸い駅近のアパートだったことで、沈黙に耐えられるくらいで玄関のドアが開いた。

「すみません、お邪魔します。」

「おう、あ、洗面所は手前のドアな。」

「はい、ありがとうございます。」

楓が手を洗っている隙に、孝太はテーブルの上のものを片付けた。

「シャワー入るか?」

「あ、いえ。今日はもう入ってきたので大丈夫です。2回も入ったので。」

「2回?珍しいな。まぁ...いいか。」

ローテーブルに一本だけ飲みかけの缶が置いてあるが、物の少ない部屋だ。

「孝太さん、結構綺麗好きなんですね。」

「おー、そうか?あんま物がないだけだよ、趣味とかもない。」

「ふ〜ん。」

楓は感心したような様子でそのままソファへと向かった。申し訳程度の会釈をしてから腰掛けると、疲労からか大きな溜め息を吐いた。

「で?何があった?言える範囲でいいけど、少しくらいは聞かせてくれよ。」

「北斗さんと喧嘩しました。」

「それくらいは分かるぞ。説明になってない。」

「あ、でも、喧嘩とは違うかもです。」

「それも分かってる。説明になってない。」

孝太は残りのビールを一気に飲み切った。楓がその様子を見つめている。

「なんか要るか?酒じゃないぞ。」

「分かってますよ。何か飲みたいです。」

「あーでもさっきお茶買ってやったよな。」

楓の返事は無い。

「分かったよ、ちょっと待っててくれ。」

孝太は台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。ちょうどオレンジジュースがあったので、それでいいかを楓に尋ねた。彼女が頷いたので、コップに注いでまた部屋へと戻った。


「私が悪いんです。勘違いしていただけでした。北斗さんが自分のことを理解してくれてるって信じちゃってたんです。根拠もないのに。」

話を切り出した楓は、ジュースを一気に飲み干した。

「私が勝手に、『この人は他の人とは違うかも』って期待しちゃいました。『私の死』についてちゃんと考えてくれる人だって。」

「ほー。」

「あの、ちゃんと聞いてますか?」

「聞いてる聞いてる。なるほどな。でも、喜多見は喜多見であんたの死を肯定していたわけじゃないだろ?」

「それはまぁ、そうですけど。でも、死のうとする私の道を閉ざさず一緒に考えてくれていました。」

孝太は驚いた。北斗から楓への接し方が認識と異なっていたからだろうか。

「へぇ、そうだったのか。」

「さっきから『ほ〜』とか『へぇ』とか。そんなのばっかですね。」

「あぁすまん。」

「話せって言ったの、孝太さんですよね?」

「あぁもちろん。家にあげてるんだしな。」

「じゃあもうちょっと興味持ってくださいよ。」

そう言って楓は立ち上がり、今度は自分で冷蔵庫へ向かう。お目当てのものを見つけてすぐにソファに帰ってきた。孝太は小さく溜め息を吐いた。

「俺は別に相談にのるとは言ってないぞ、事情を知りたいだけだ。」

「冷たいんですね。北斗さんも苦労するわけだ...。」

「喜多見は関係ないだろう!」

孝太の声はそこまで大きくはなかったが、わざとらしく楓は両手で耳を塞いでみせた。

「すまん、で?話の続きは?」

「喧嘩の理由はそれだけです。あとは北斗さんことで私のことではないので、言えません。」

「あんたのこともまだちゃんと聞いてない。」

「あんたって、やめてください。」

「分かった。七海のことを聞かせてくれ。」

楓は、揺らしていた両脚の動きを止めた。


”「私のこと、ちゃんと『聞け』ますか?」”


孝太は黙るしかなかった。もしかしたら、楓は今までもこんなふうに他人に覚悟を迫っていたのかもしれない。

止まっていた脚が動き始める。

「大丈夫です。みんなそうです、普通です。みんなが普通で、私が異常。だから、孝太さんは何にも悪くないんです。北斗さんだって...。」

「七海、お前は...。」

「私、そろそろ寝ますね、外を走り回ったので疲れちゃいました。洗面所借りてもいいですか?」

「あぁ...。」

楓は歯磨きを済ませた後、普段は孝太が使っているベッドで寝た。


 最後に孝太が言いかけていた言葉に、続きはない。つまり、言いかけていた言葉ではない。楓はそれを分かっていた。彼女は、何人もの同じ表情、同じ言葉、同じ仕草を見てきた。それはもう慣れたもので、着実に、冷静な彼女の『死の決意』を固めていった。

 翌朝、孝太が目を覚ましソファから起き上がると、テーブルに置き手紙があった。


”一晩お世話になりました。先に帰ります。ちょっと寄り道してから実家に戻るだけなので、心配いらないです。北斗さんのことは、孝太さんが励ましてあげてくださいね。”


孝太は頭を抱えた。彼は一体どうすれば良かったのだろうか。

「バカだ俺...。」

彼は苛立ちと後悔を拳に込めて立ち上がり、仕事の支度という日常へと無理やり戻っていった。

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