第5話 楓と心と言葉遊び



「七海...さん...?」

楓は、北斗の前で沈黙している。先ほどまでも暗い様子で話していたものの、話を止めることはなかった。

「少し、休憩しましょうか。」

見かねた北斗が、コーヒーの入ったカップを手にとり、楓にもそうするように手振りで促した。

「あ、ごめんなさい。黙っちゃって。ケーキ補充します。」

「うん、ぜひそうしてね。」

「あの...。」

楓のフォークがチーズケーキに触れようとした手が止まり、目線が北斗へと向かう。

「何?どうしたんですか?」

「その変な敬語やめてください。混ざってるので、気持ち悪いです。」

北斗は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。

「え、ごめん、なさい。ん?どっちにすればいいですか?」

「多分、最初私がお客さんだったから敬語にしようとして、でも高校生だからつい敬語が抜けちゃうんですよね。なら最初から全部敬語じゃなくていいです。」

「うっ。図星すぎるぅ。」

北斗はわざとらしく胸に手を当て、泣きそうな顔をする。

「じゃあ敬語やめるね。楓ちゃん。」

「え、名前呼びになるんですか...。」

「あ、ごめん!嫌ならやめる!」

「別にいいですけど...。」


 2人はなぜかそれぞれ黙々とケーキを食べ始めた。完食するまで一言も発することなく、なぜか同時に食べ終え、同時に手をあわせた。

これが2人の距離が縮まったことを表しているのかは定かではないが、互いに距離を縮めようとしていることは確かだった。


 そして楓は、また淡々と話を再開した。

「私、先生の家族に依存しているんです。先生が『いなくなった』今も。」

「今も?」

「私って、冷静じゃないですか?」

「うん、そう見えるけど...。」

北斗は自分が聞き返した言葉に対する返答がこなかったことに困惑しつつも、率直な返事をした。

「自分で言うのもなんですけど、私、感情と理性をちゃんと分けて考えることができるんです。明確に線引きができるんです。」

「う、うん。」

北斗にとっては憧れるほどの才能で、楓を羨む発言をしそうになったが、そんなタイミングではないと思い、軽く喉を抑えて出かけた言葉を止める。

「だから、わかるんです。先生のいない世界で、私は生きられない、生きたくないって本気で思ってる。私、『死ねる』んです。」

楓の目は、澄んでいた。覚悟を決めた表情とも違う。何かに怯えているわけでも、怒っているわけでもない。喜怒哀楽のどの感情でもないのに、強い意思が、感情があるように感じられる。北斗は、その目に見覚えがあった。

「そっか、あなたもそう思うんだね。」

「私も?」

意味深げな北斗の言葉に、楓は言葉を繰り返す。だが楓は、さっきまで自分の目を見て喋っていたはずの女性が、一瞬だけ異なる誰かに話しかけているように感じた。

「ねぇ楓ちゃん、聞かせて。先生が『いなくなってしまった』って、どういうこと?亡くなったの?」


 彼女は、小さく首を横に振った。




【楓の記憶】


 ある日、私は先生の家に遊びに行ったまま帰らなかった。祖父母には何も言わずに家を出てきたから、もちろん泊まるなんて知らなかったはず。


 でも、おじいちゃんもおばあちゃんも全く連絡してこなかった。


 私はまだ心のどこかで期待していた。『かつての家族』は実は私を愛してくれていたんじゃないかって。帰らぬ孫を心配してくれるんじゃないかって。

もう家に帰るのが怖くなった。いつの間にか、私は香奈の部屋に1人で引き篭もるようになっていた。


「楓ちゃん、ご飯食べる?」

「うん、食べる。」


 先生の奥さんの表情は、だんだんと私がきたばかりの頃に戻っていった。夜に耳を澄ますと、彼女の不安げな声が聞こえてきた。

「ねぇあなた。このまま楓ちゃんをうちに置いておいて大丈夫なのかしら?これって良くないことじゃない?香奈も学校に行くようになったんだし。」

「美奈の気持ちも分かる。でも、どこかに七海の居場所がないと、彼女にとっては辛いだろう。」

「でも...。」

「すまない美奈。もう少し我慢してくれ、何か方法を考えるから。」


 私はまた邪魔者になった。


 この家に初めて来た時には分かっていたはずだった。自分は部外者で、家族という関係に割って入ることなど不可能だと。


 私は知っていたはずだ。


 本当は誰も私のことを必要としていない、と。自分で自分に騙されていたんだ。騙されていることにも気づいていたんだ。



 ある日、先生は私を外に連れ出した。私の知らない場所に、知らない家があった。

「七海、ここが七海の新しい家だ。」

先生はそう言った。


 1ヶ月後、先生は突然『家』に来なくなった。私を置いたまま、どこかへ行ってしまった。


 私は“また”’捨てられた。






「楓ちゃん?」

北斗の呼びかけに、楓の目は再び現実を捉える。

「先生は死んでいません。でも、私の『家族』は死にました。1人残らずいなくなりました。だから、私は死にたがっているんです。」

「そっか...。」

「それから祖父母の家に戻りました。前より、ご飯の量は減っていました。」

「今は、おじいさんおばあさんのお家で暮らしているの?」

「そうです。今日で出てきましたけど。」

「そっか。死のうと思っているのに、なんで荷物をいっぱい持っているのかな?」

北斗は少しずつ、努めて優しい口調で質問を続けた。

「北斗さんに会えば、死に方を選べると思ってここに来たので。死に方は自分で選びたかったから。」

「そう...。」

少しずつ北斗の返事は短くなっていく。次の質問も出てこない。頭にはいくつも疑問が浮かんでいたが、楓の表情を見て口に出すのを躊躇った。

「北斗さん...。」

数秒の沈黙を破ったのは意外にも楓だった。

「何?楓ちゃん。」

「私、どうすればいいですか?」

ほんの一滴だったように見えた。少なくとも北斗にはそう見えていた。


 その一滴に詰まっていた。


「楓ちゃん、お店出よっか。」

「えっ。」

突然、北斗は楓の手をとり立ち上がった。その大荷物の半分を持ち、手を引きながらレジへと向かう。

楓が声をかける間もなくお会計を済ませると、2人は店の外へと出た。

「あら、もう止んでるんじゃない?雨。」

そう北斗が言った割には、まだ小雨が降っていた。

「あの、北斗さん。」

「なに?」

「どこへ行くんですか?私が帰る場所はどこにもないです。」

「う〜ん。ひとまず、うちに泊まっていきなさい。」

「えっ。」

再び北斗は楓の手を引き歩き出す。困惑している楓だったが、少し進んだところで立ち止まる。

「楓ちゃん、どうしたの?」

「もう、嫌なんです。」

「なにが嫌なの?」

楓にとっては、心を抉られるような質問に感じた。北斗も発した後にそう感じただろう。しかし北斗の目は、後悔しているようには見えなかった。

「もう『家族』を増やしたくない。どうせ失うから、どうせ私の前からいなくなるから。」

 北斗が、楓の前で少しだけ屈んだ。傘をおき、重い荷物を背負いながらも両手で少女の手を包み込む。


「私は、あなたの家族じゃないよ。家族には、なれないもの。だから安心して。」

言葉通り受け取れば、他人を安心させるために吐く台詞には到底聞こえない。北斗はまた言葉を続ける。

「あとね、私は死ぬなって言ってるわけじゃないよ。でも、急がなくて良いんじゃないかな、今日くらいはサボろうよ。」

「うん。」

小さくて短い返事だけでも、涙ぐんでいるのが分かる。そんな少女を北斗は優しく抱きしめた。

北斗の背中はずぶ濡れになっていた。




【その日の夜】


「北斗さん、私もシャワーいいですか?」

「あ、うん。入って!私だけお先にごめんね。」

「あ、いえ。北斗さんずぶ濡れだったので。」


楓がシャワーを浴びている間、北斗はスマホを持って玄関を出た。

「あ!課長!もしもし、お疲れ様です。」

「おぅ、どうしたんだ、喜多見。そっちから連絡くれるなんて珍しいじゃないか。」

「すみません、急で悪いんですが、一つ頼まれて下さると助かります...。」

「なんだその日本語。まぁいいか。でも中身によるな。なんか嫌な予感するし。」

「あー、うん、その。ちょっと...。」


 楓はシャワーを浴びながら考え事をしていた。彼女にとって死ぬことは既に決定したことだった。今もそれは変わっていない。それでも、北斗の言葉にほんの少しだけ心を動かされたのは事実だ。

「なんで、ここでシャワー浴びてんだろ。」

水の音で呟いた声も全てかき消された。バスタオルで身体を拭き、北斗から借りた部屋着を着ようとすると、綺麗に畳まれたその服の横に置いてある化粧水に目がいく。

「あれ、これ使っていいのかな。」

化粧水のキャップを開け、傾けながらポタポタと中身を手にとる。楓はふと思った。

「肌なんか気にして、私どうすんだ。」

そんなことを思いながらも、結局はふんだんに化粧水を使った。


「北斗さん、あがりました。ってあれ、いない。」

楓がそう言った直後、玄関のドアが開く音がした。

「あぁ、ごめんごめん、あがってたのね。ちょっと外で電話してた。」

「あ、全然、今上がったので。部屋着、お借りします。」

「うん、気にしないで〜。」

立ったままモジモジしている楓をみて、北斗はテーブル横の特大クッションを指差す。

「あ、楓ちゃんそれ使っていいよ、『人をダメにするクッション』ね。」

「あ、ありがとうございます。」


 しばらく各々が自分の時間を過ごし、22時を回ろうとしていた。

「あの、北斗さん。」

「ん?なに?」

話しかけられる直前まで眠そうだった北斗だったが、楓の一声で目が冴える。

「私、北斗さんと話せて良かったですし、感謝もしてます。でも、死にたいって気持ちは変わらないです。」

「うん。」

「うん、って。北斗さん、どうにか私を死なせないようにしてるんじゃないんですか?だから私をここに連れてきたんだと思ってました。」

「うん、そうかもね。」

北斗の曖昧な返事は、楓に少しの苛立ちを覚えさせた。

「そうかもね、って。北斗さんは私をどうしたいんですか!」

珍しく大きな声を出した楓に、北斗は驚いている。しかしすぐに表情は元に戻った。

「分からないんだよ、本当に。私は楓ちゃんにどうして欲しいのか。私はどうしたいのか。答えが分からない。」

「じゃあなんで...。」

 楓にとっては、自分の決意に対して、北斗の曖昧な考えで振り回されているのが許せなかった。そして何より、理由も分からず付いてきた自分自身に嫌気がさしていた。

「楓ちゃん、言ってたよね。」

「はい...?」

「『感情と理性の線引きが明確にできる』って。だから、冷静に『死にたい』って感情を考えて、覆らないその感情に気付いたから、こうして私や誰かに死に方を求めてる。でも、本当に明確な線引きなんて人に出来るのかな?」

 楓は、自分の考えを批判してくれる人間と『対話』した事がなかった。これまで話したどの人間も、彼女のことを対等に見ていない。あの『先生』でさえも。

 北斗は話を続けた。

「もちろん、事実として感情と理性ははっきり分かれてるかもしれない。科学的根拠なんて何にも知らないけどさ。でもね、同じ人間が両方をおんなじ身体に持っている以上、お互いに影響しないなんてことは無いと思うの。楓ちゃんの考えてる『死にたい』って、それって本当に感情からくるもの?私は、逆の可能性だってあると思ってるよ。」

「逆...ですか?」

そのあとの北斗の言葉は、楓にも察しがついた。ただ、自分が信じてきた考えを否定される恐怖のようなものが、彼女の声を小さくし、震えさせた。

「うん、逆。あなたは、」



 ーーーー本当は『生きたい』と願っている。



「そんな、私は。」

「ごめんね楓ちゃん、断言しているわけではないの。あくまで可能性の話、私があなたとほんの少しだけ会話して受けた印象の話。もちろん楓ちゃん自身のことは楓ちゃんが一番よく知ってるはず。」

「じゃあ私が死のうとしているのは何でなんですか?」

「それは...。」

北斗の言葉はすぐには続かない。楓からすれば、答えられないから黙っているように見えただろう。でも実際は違った。北斗は、答えるべきかを迷っていた。今更ながらに目の前の少女の言葉を否定するような言動に重みを感じていた。たった半日もないくらい一緒にいただけの人間に、壮絶な人生を歩んできた少女の気持ちなんて分かるはずがない、北斗はそう思った。

しかし、そうやって自己防衛に近い気遣いを繰り返しされてきたから、楓はこれまで孤独であったのだ。誰もが楓に深く興味を持つことを恐れていた。『自分には分かるはずがない』と勝手に少女との間に壁を作り、『気遣い』という免罪符を壁中に貼り付けることで、自らを正当化してきた。


 そうして楓は壁に囲まれて生きてきたのである。


「楓ちゃん、本当は生きたいのに、自分が死ぬべきだって考えてる。多分理性で。初めて会った時、私に言ったよね?『自殺したらみんなに迷惑かけちゃう』って。ちゃんと冷静に自分の行動を考えられてる。そんな楓ちゃんだからこそ、今までのあなたの経験から『私は死ぬべきだ』って結論に至った。」

「私は生きたいなんて...。」

「でもそんな『生きたい』って感情があるから、楓ちゃんは私たちのところに来たんじゃないの?」

楓の言葉を喰らうように北斗は話し続けた。高圧的にも聞こえる話しっぷりに、北斗自身も胸が苦しかった。それでも、北斗は壁中に貼られている免罪符をむしり取り続け、どこかに隠れているかもしれないドアノブを探していた。

「でもね、」

突然柔らかくなった声に、俯いていた楓が顔をあげた。北斗は楓に近寄り、両手でそっと少女の膝に触れる。

「それでも、楓ちゃんは間違ってないと思う。私は、あなたの目を『知ってる』。」

「じゃあ...。」

楓は自分の拳を強く握る。

「じゃあ私は、間違ってないならどうすればいいんですか!生きたいし死にたい私はこれからどうするのが正解なんですか...!」

楓は呼吸を荒げて泣いた。北斗は大量のティッシュを渡し、受け取った楓は目と鼻を拭う。そしてすぐまた声を出して泣き続けた。



 ベッドに楓が、客人用の布団に北斗が入った。互いに多少気持ちも落ち着き、眠りにつこうとしている。

「あの、北斗さん。」

「ん?」

「私の遺書、作ってくれませんか?」

「え、遺書?それは昔あった仕事ではあるけど...。」

「でも、いいなって思ってるって言ってたじゃないですか。」

「うん、まぁそうだけど、その仕事は昔色々あってね。今はなかなかできないの。」

「でも北斗さん、思ってますよね。」

「ん?何を?」

何かが吹っ切れたのだろうか。さっきまでの涙が嘘のように、楓は仕返しの如く圧のかかる口調で北斗を問い詰める。

「いやだから、遺書作成の仕事、やりたいって思ってますよね。」

「あぁ、いやぁまぁ...。思ってはいる...けど...。」

北斗の声量は次第に小さくなる。形勢逆転だ。あまりに突然だったので、心なしか北斗が小さく見える。

カフェからの帰り道、北斗は楓に遺書部があったときの話をした。重い部分を伝えたわけではなく、仕事の内容と、問題があって部が無くなった事しか話していない。もちろん、その問題の原因については全く触れていない。当然、桂雄一郎のことも。

「私、死ぬつもりですよ。北斗さんには悪いですけど、たった1人の人間に諭されて変わるような決意で家を出てきてないですから。」

真っ暗な部屋の中、互いにとって長く感じる間があいた。

「分かった。」

短くて単純な北斗の返事が静かな空間に響きわたる。

「じゃあ...」

「でも、一個だけ。」

楓の言葉に被せるように、北斗は言葉を続ける。

「一個だけ、約束して。」

「約束...ですか?」

「うん、約束。」

北斗はベッドの方へと少しだけ身を寄せる。

「私と一緒に遺書を書き終えるまで、絶対に死なないこと。」

「それはもちろん、分かってます。」

「そ、良かった。じゃあ決まり。今日はもう寝よう。」


 2人は互いに背を向けて、眠りについた。





 ”昨日未明、強制わいせつ等を目的とした未成年者誘拐罪の疑いで、東京都新宿区在住の38歳男性、『桶田一成』が逮捕されました。

桶田容疑者は、公立中学の教員であり、自らが担任として受け持っていたクラスの女子生徒を誘拐した疑いが持たれています。

警察によりますと、桶田容疑者は容疑を認めており、今日から明日にかけてさらに詳しい取り調べが予定されているとのことです。”



”「楓ちゃん、怖くなかった?」”

”「七海さん、大丈夫?」”

”「酷い目にあったね、怖かったろうに。」”

”「楓!良かった〜ずっと学校来ないから心配だったんだよ!」”



 ”「楓、よく帰ってきたね。」”



 私は、あの目、あの言葉、あの瞬間を忘れない。今まで私を全く”見て”こなかった連中が、初めて私に”興味”を示したあの瞬間を。


 


 私は、『可哀想な人』として、初めて人間になった。





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