第2話 北斗と一冊の本


七海楓。18歳。

「えっと、まだ高校生、ですか?」

「はい。ちょうど先週18になりました。」

 楓の口調は落ち着いている。一言目に発した言葉が聞き間違いに思えるくらい、自分の生い立ちや、なぜカルテラに訪れたのかを北斗へ向けて淡々と語った。

 その少女の冷静さにつられるかたちで北斗のペン先も安定してきた。楓は自身の話を続ける。


「わたし、わたしのこと育ててくれた人を亡くしました。つい最近です。もう生きている意味はないんです。だから、ここに来ました。ここなら死に方を教えてもらえるかなって思って。自分だけじゃ死ぬ勇気がもてないし、自殺したらみんなに迷惑かけちゃうし。」


 楓の瞳はどこに向けられているのか、北斗にはわからない。北斗もひどく動揺しているというわけではなかった。それでも、死を願う目の前の少女にかける言葉はひとつも見つからなかった。


「やっぱり、ここでも死ねないですか?」

言葉の出ない北斗に、楓は追い討ちをかける。その口ぶりから、楓はこれまでにカルテラ以外にも死に方を教えてくれそうな場所を訪れていたようだ。

北斗は頭の中で言葉を選び、間違えないように整理する。そうして、やっとのことで少女に返答する。

「ごめんなさい。ここは、重い病気にかかってしまった人や、高齢の方が『最期』をどんな風に過ごせるかを提案したりしてサポートするところなんです。だから、死に方を教えてあげることはできないの。」

「そうですか。」

北斗の言葉に楓は表情を変えずに返事をした。あっけない返事に、むしろ北斗が呆気に取られていた。

 しばらく2人が見つめ合う不思議な時間が流れていた。北斗は、次に言葉を発するなら自分だとは思っていたが、なんと言っていいか分からなかった。対して楓は、目の前で困り果てている女性の言葉を待っているのか、ただ何かを考えているのか、意図がまったく読み取れない表情をしている。

「あの〜、多分他のところに行っても、あなたが死ぬ方法を教えてくれるところはないと思います。七海さんも、まだまだ人生長く生きられますよ。」

そう言った瞬間に北斗は後悔した。無神経な事を言ってしまったのではないかと、そう思った。死に対する考え方や他人の選択に軽々と意見を言ってきた『北斗の嫌う北斗』で楓に接してしまったからだ。母の顔が一瞬思い出される。

「そうですか...。すみません。わたしもう行きますね。」

楓はそう言ってバッグを手に取り、席を立つ。表情はさほど大きく変わらないが、北斗には些細な変化がいっそう大きく見えた。

「あ、ちょっと待って七海さん!」

そう小さく呼びかけた時には、楓は扉を閉ざしていた。


「あぁ、『また』だ。」


 その日、一日を通して北斗の頭の中で少女の言葉がこだましていた。仕事に対する集中力を極端に欠いている彼女を心配した周囲の助言もあり、北斗は16時には退勤した。


「孝太くん、北斗ちゃんに理由聞かなかったんだ?」

北斗の様子に引っ張られて、オフィス内の雰囲気も少々ぎこちない。そんな空気を少しでも和らげるには、鈴子が孝太をいじるのが手っ取り早いようだ。

「いや、聞けないだろ。最近は元気だなと思ってたからびっくりしたけど。」

鈴子の言葉を冗談かもと疑ったが、この微妙な空気感でスベることを恐れた孝太は、一旦真面目に答えてみる。

「なんか、今朝1人で女子高生が訪ねてきたみたいですよ。その子の事ずっと考えちゃうって言ってました。」

キーボードの上で忙しなく両手を動かしたまま、事務作業中の小島が口を挟む。

「おーおー、小島。ナイスな情報。喜多見はちゃんとその子の事『カルテ』に書いてるのか?」

 孝太は来訪者スペースの後ろの戸棚を開ける。ガサゴソと探しているが、お目当てのものは見つからない。

「孝太くん、これ?」

鈴子がペラペラと紙を1枚揺らしている。

「おぉ、それか。ちょっと貸してくれ。」

「えいっ!」

「なにすんだよ。」

孝太が手を伸ばした瞬間に、鈴子はすっと自らの手を引く。2人の、その年には相応しくないいつものじゃれ合いはすぐに終わった。そして鈴子がその紙を確認していると、肩口から孝太がそっと覗き込んだ。

「何これ、ほとんど書いていないじゃない。」

「ほんとだな。名前と年齢と...電話番号だけ書いてあるな。」

「北斗ちゃんにしては珍しいわね。よっぽどこの子の言っていることが解りづらかったのかしら。」

「でも、それであんなに悩むか?」

「う〜ん。」「うーん。」

2人は息を揃えて考え込む。その様子を横目で見ていた小島は、Enterキーに向かっていた手を止めて何かを言いかけたが、仲良く右手を顎に添えている2人を見て、開いた口を閉じた。

「まぁ、ひとまずは明日良い感じのタイミングに喜多見に聞いてみるかな。横山が。」

「ちょっと孝太くん、ほんと頼りないわね。」

「より効果的な方法を選ぶだけさ!はっはっは。」

引き攣った笑いは段々と音量を落としていき、少し残念そうな背中を見せて孝太は自席へと戻った。



 早上がりした帰り道、北斗は気分転換もかねて自宅の最寄りの本屋へ立ち寄った。特に何か買いたい本があるわけでもない。というより北斗はほとんど本を読まないが、無性に活字に触れることで心と身体を整理したい気分になる時が稀にある。かといって今日はそんな気分でもないが、なんとなく本屋をぼーっと見て回る。

一昔前までは、この本屋は入ってすぐに雑誌があり、小説コーナーがあった。しかし最近は変わったもので、漫画やライトノベルが特集され、堂々と表紙をこちらに向け並べられている。北斗はそこまで漫画には興味がなかったのか、タイトルだけざっと見ながら漫画コーナーを通り過ぎようとする。

 

 たった1冊、異質な表紙が北斗の目に留まった。


 北斗はその本を手に取り、一応店内を一周した。その他の本には特に触れることもなく、彼女は会計を済ませて店を後にした。


 本屋を出た北斗が腕時計を確認すると、まだ定時を回っていなかった。

「せっかくだし、時間は上手く使いたいな。」

そう呟くと、家とは反対方向に歩き出した。会社から出た時よりなぜか足取りは軽くなっていった。


 

「あの〜、すみません。山脇さんって今日出勤されてますか?」

「あら喜多見さん!山脇さんね、出勤してるわよ。今は手空いてるはずだけど、ちょっと待ってね。」

北斗は申し訳なさそうにお辞儀を小さく3回する。

 5分ほどベンチでスマホもいじらず待っていると、元気で綺麗で完璧な女性が明るく手を振って、小走りで北斗のもとへ向かってくる。

「北斗ちゃん!」

その女性は北斗を強く抱きしめる。北斗より少し背の高い彼女は、しつこいくらいに北斗の頭を優しく撫で続けた。

「瀬奈さん、お久しぶりです。また会いにきちゃいました。」

「遅いくらいだよ、いつでも来てって言ったじゃん。」

互いに涙は流していない。しかし、その言葉の震えから2人が号泣の一歩手前で耐えていることは明らかだった。

どちらも分かっていた。涙を流したい。ここで流してしまいたい。それでも、ここで流すべきではないと。その雫は、今この場にいる互いに向けるべきものではないから、と。


「今日は、どうして来てくれたの?」

患者と家族が触れ合う庭のベンチで、少し距離を開けて座った2人が話し始める。

「うーん、なんでですかね。なんか、『今』って思いました。なんとなく。へへへ。」

いつもより少し子供になったような笑みが北斗から溢れている。瀬奈はそんな北斗の笑顔を見て、ホッとしたような表情をしている。

「そっか。良かった。」

瀬奈の返事は短い。彼女からすれば、北斗は何かを話したくて自分に会いに来てくれたのだと思うのは当然だろう。だがそんな瀬奈の考えとは裏腹に、北斗は何かを話し出しそうには見えない。そんな時、北斗が手に持っているビニール袋の中身が少しだけ透けて見えた。

「のこすことのは?って読むの?それ。」

「あ、そうです。今日さっき買って。まだ読んでないです。」

「そっか。不思議なタイトルだね。」

「ですね、自分もなんで買ったかよく分かってないです。ははは。」

 また少し沈黙が流れる。聡子が生きている間に会ったときには絶えず喋っていたこともあり、今の沈黙にそれぞれが違和感を覚えていた。

 だが、何も話す気もなくただ瀬奈に会いにくるほど北斗は子供でもなかった。


「あの、今日瀬奈さんに会いに来た理由は、あんまり良い気持ちから来るものじゃないんです。」

瀬奈はその言葉に少し驚いた様子だったが、本題ともとれる話を始めてくれたことに安堵しているようにも見えた。

「良い気持ちじゃないって、どういうこと?」

「私、ここに思い出しに来ちゃったんだと思います。お母さんが死んだときの気持ち。」

「どうして、思い出すの?」

瀬奈は、努めて優しく問いかけた。この問いかけが、自分を頼ってくれる彼女を問い詰めているように、瀬奈自身にも感じられたからだ。

「お母さんが死んだとき、私、もう他人の人生を踏みにじりたくないって、本気で思ったんです。でも今日、また人の選択を、真っ直ぐな目で死を願う女の子の想いを、踏みにじりました。」

北斗は、膝の上で両方の拳を握りしめている。悔しさや歯痒さが、今の彼女の心を埋め尽くしている。

「その女の子は、なんて?」

「そうですか、って言って帰ってしまいました。」

「そっか...。」

 瀬奈はもちろんどういう女の子が訪ねてきて、なぜ死を願っているのか、詳しくは聞いていない。それでも、どうして北斗が落ち込み、どんな答えを探しているのか、瀬奈は知っている。

 瀬名は大きく息を吸い込み、北斗へと近づく。

「多分、北斗ちゃんはその子の想いを踏みにじってなんかいないと思う。でも、あなたがそう感じてしまったら、あなたにとって実際はどうかなんて問題じゃなくなるよね。なら、もがいてみなきゃ。」

「もがく、ですか?」

北斗は瀬奈の言葉がいまいち理解できていないようだ。

「そ、もがく。まだ挽回できるでしょ。だってその子はまだ生きてる、そうでしょ?」

「そっか、生きてるんだ。」

「うん。」

北斗は瀬奈の言葉を噛み締めるように、何度も何度もゆっくりと頷く。


 少しの間2人は雑談をした。仕事の話も、プライベートの話も。またいつものように途切れることなく会話は続いた。

「じゃあ、私は仕事に戻るね。また課長の話の続き、聞かせて!」

「はい!あ、すみません長々と。また助けられちゃいました、ありがとうございます。」

「確かに、楽しくて長くなっちゃった。先輩に怒られちゃうかも!」

「あ〜ほんとすみません!」

北斗は両手を合わせて瀬奈に謝る。それを見て瀬奈は嬉しそうに笑っている。

「冗談冗談!みんなも北斗ちゃんが元気なこと知ったら喜ぶよ。」

「だと良いんですけど...。でも、また来ます。」

「うん、またね。」

「はい、また。」

 瀬奈が持ち場に戻ったあと、北斗は少し院内をふらふらしてから家に帰った。



 帰宅する頃には、すっかり陽が落ちて暗くなっていた。

「あ〜なんか疲れたな。早上がりしたけど、良い疲れかも。」

玄関で独り言を吐きながら靴を脱ぐ。一気に靴下まで脱ごうとした時に北斗はバランスを崩し、咄嗟に壁を使って手で身体を支えた。片手に持っていたビニール袋が落ちた。

「あ、そういえばこれ読まなきゃだった。」


 北斗は風呂上がりに大きなクッションに腰を落とし、今日買った本を開く。



ーーー『遺す言の葉』ーーー



 北斗はそのタイトルに興味が湧いた。遺書ではなく、『遺す言の葉』。その言葉の違いは、ただかっこよく、文学っぽく言い換えただけなのかもしれない。しかし北斗にとっては、その言葉の違いが、『意味』の違いだけでなく『想い』の違いに感じられた。著者の意図を汲んだのではなく、彼女自身の感情をタイトルに込めようとしたのである。


 表紙を見た時、北斗は小説だと思って手に取ったつもりだったが、中を覗いてみるとどうやらそれはエッセイであった。その本には、筆者の考える遺書のあるべき姿や、『死』に対する捉え方が綴られていた。


 北斗は夢中になって読み進めた。


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 ”私は、疑問を持つのである。現代の『行き過ぎた』個人の自由が認められる社会に。それは、個人の自由を否定することと同義ではない。

 選択の自由があることで、より人間は人間らしく生きられるようになると考えられているかもしれない。だが、どうだろう。自由と不自由のバランス、いや、アンバランスと云うべきだろうか。そんな曖昧で完璧でない存在こそ人間だと、私は考えてしまうのである。

 すまない。私はそんな大層な哲学者のような話をするつもりなどない。私が読者に訴えかけたかったのは、『死』が『選択』として捉えられていることに対する疑問である。具体的にいえば、『安楽死』や『終活』といった類のものである。

 先にことわっておく。私は現代の流れを否定するつもりなどない。ただ、疑問を持っているのである。”反”安楽死の立場をとって議論などできない。有識者や弁論者に勝る知識や素養もなければ、確固たる思想も執念も持ち合わせてはいない。


 私は今まで、仕事がら多くの死や死を目の前にした人間と触れ合ってきた。私の顧客となる人々は、誰だって家族で真剣に話し合うのだ。


『いつ』死ぬか。『どのように』死を迎えるか。死んだ後は『どうするか』。


 そんなことを私は提案し、彼ら彼女らは真剣に考えるのだ。

 もう一度ことわっておく。否定はしない。私も真剣にその仕事に取り組んでいた。疑問は持っていたが、自分のしていることが間違いだと結論づけたことは一度たりともない。それでも、私は思ってしまうのだ。


 『死』は、選びとるものとなるべきではない、と。


 望まなくとも訪れてしまうものだ。抗い続けても最後に行き着いてしまうものだ。死ぬということは、誰にとっても悲しいことだ。

 私は、仕事を通して『死』に関する選択肢を提示し続けてきた。だがそれは、『死に方』を選べるだけだ。『生』を選択肢として与えることができない。そんなことができるのは、心理カウンセラーか医者くらいだ。私の仕事は、ちっぽけに思えた。”


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「あぁ、この感覚だ。お母さんに何も与えることができなかった自分が、本当に小さく思えた。だから、この仕事に疑問を持った。自分にできなかった原因を、自分以外のものに押し付けたんだ。」

 

 その本には、筆者の葛藤が多く綴られていた。理性と感情が混在した文章は、まさに今の北斗自身に重なった。文章の中に、結論は見当たらなかった。起承転結もなく、行ったり来たり。だがそれが人生であり、筆者の言う曖昧な『人間』であるのかもと、北斗は感じ取ったようだった。


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 ”私には、持病がある。決して治ることのない病だ。十数年前に私は病気だと分かった。余命は分からない。身体は問題なく動く。いずれ死に至る病と言われている。常に死を目の前にしている気分のまま十数年が経ったが、まだその時ではないようだ。

 病にかかってすぐに、私は思った。『死に方』を選ぶべき立場になったのだと。ただ足掻いて生き延びて死ぬか、美しく最期の瞬間を決めて死ぬか、自分が死んだ後に向けてあらゆる準備をするか。

 しかし、私は選んだ。今一度、人が死ぬとはどういうことかを知りたい。私の頭の中で考えるのではなく、人の想いに触れ、考え、自分の中での結論を導き出す。

 

 人が死んだらどうなるのかなど、誰も知ることができない。だが、私は余生をかけて、人の最期に遺す『言の葉』から、人間とは何かを知りたいのだ。”


======================

 

 北斗はそっと本を閉じた。まだ半分も読んでいなかったが、彼女にしては大分ハイペースで読み進めた方だった。しかし、今日はかなり歩いて疲れたこともあってか、眠気には勝てず寝る準備をする。

 うたた寝と歯磨きを幾度も繰り返している。顎から垂れかけた歯磨き粉を含んだヨダレをタオルで拭い、歯ブラシのスピードを早める。寝る支度を終えると、今日は早上がりしたからだろうか、いつもより早めの時間にアラームをセットし布団に入る。


「ちょっとだけ、もがいてみるかな。」


 そう北斗は呟き、布団を深く被ってすぐさま眠りについた。



 

「おーはようございまーす。」

少し気だるそうな、それでもリラックスした北斗の声が響き渡る。

「おはよう、早いな。まだ俺しかいないぞ。」

孝太が少し驚いた表情で北斗に答え、バッグから取り出しかけていたタバコを元に戻す。

「あ、課長タバコですか。全然気にせず行ってきてください。」

「いやぁでも、喜多見がこんな早く来たのになぁ。」

「私、そんな子供ですか?」

「いや、そういう意味じゃ...。」

「冗談です。」

北斗は意地悪な笑みを孝太へ向ける。孝太は鼻の下が伸びるのを手で必死に隠す。それに気付いた彼女はいっそう笑顔になる。

「じゃあ、まぁ行ってくるわ。多分阿久がそろそろ来るからこれ渡しといてくれ。頼む。」

そう言って孝太は北斗に一つの書類を渡した。

「なんですか?これ。」

パッと目に入った資料に違和感を覚えた北斗が孝太に尋ねる。

「あぁ、近々こっちのみんなにも知らせるよ。別に口外禁止でもないし、社外持ち出さなきゃ先読んどいてもいいぞ。じゃ、俺は行ってくるわ。」

「は〜い。」

半ば空返事を孝太へ返すと、すぐにその資料をめくろうとした。

「まぁでも、すぐ分かるし今はいっか。阿久さん向けの資料みたいだし。」


 北斗が自席についてパソコンを立ち上げると、すぐにドアが開いた。

「おはようございま〜す!って北斗ちゃん早いね、どしたの?」

美帆が勢いよく北斗のもとへと寄ってくる。

「いや、昨日早上がりしたんで、今日は早く来ようかな、と。」

「そっかそっか〜!うん、いいね。今日小島くんいないから隣空いてるよね?席借りちゃおっかな〜。」

満面の笑みの美帆に若干引き気味の表情を浮かべながらも、北斗は内心喜んでいた。


 その直後に鈴子をはじめ続々とメンバーが出社してきたが、それから1時間もしないうちに半数以上が外出となった。昼休みに入ったときには、オフィスには孝太と北斗と侑芽の3人だけだった。

北斗は、昨日買った本を机に置いてペラペラめくりながら、コンビニで買ってきたおにぎりを片手に読み進める。


「喜多見、今日は白銀さんのとこだっけ?」

「はい、そうです。午後イチに会社出ます。」

「そうか、気をつけてな。って、それ『遺す言の葉』か?」

孝太は北斗が微かに持ち上げた時の表紙で気付いたのか、それとも最初から気付いていて話しかけるタイミングを伺っていたのかは分からない。それはともかく、孝太は彼女が夢中になっている本を知っているようだ。

「あ、それ最近ちょっと話題になったよね。」

侑芽が珍しく話に入ってくる。

「課長も神谷さんもご存じなんですか?私特に知らなかったんですけど、昨日パッと目に入ったので買っちゃいました。」

「あたしも詳しくは知らないんだけどね。別に周りに読んでいる人がいるってわけでもないし。実際に持ってる人を見たのは北斗ちゃんが初めてだわ。」

「ヘ〜結構有名なんですね、これ。まぁでも、書店で表紙前にして売られてるくらいだから、人気なのか。桂雄一郎...。」

そう言って北斗は本の表紙をまじまじと見つめる。

「喜多見は知らないと思うが、その本の著者、うちの会社勤めてたぞ。」

「えっ!そうなんですか!」

孝太の言葉に、北斗は両手を机について立ち上がった。

「おぉ、そうだが...。」

「ふふふ。」

北斗の勢いに戸惑う孝太を見て、侑芽は吹き出してしまう。

「なんだよ、神谷。何がおかしい?」

「いや、北斗ちゃん入社してから今の今まで、課長に興味示した瞬間見たことなかったから面白くって。」

「神谷お前なぁ。あまり年長者を馬鹿にするのも良くないぞ?」

「あんまり変わらないじゃないですか、年。」

「いいや、俺にとっては大きな差だ。」

そんな2人の会話のそばで、自分がしたい話題の番がくるのを今か今かと待っている女性がいた。

「あの、課長。その、さっきの話、詳しく聞かせてもらってもいいですか?」

「あぁ。まぁ、俺も完璧に話せる自信はないんだがな、」



 『遺す言の葉』の著者である『桂雄一郎』は、かつてはカルテラの従業員であった。

 

 彼は、自身に病があることが判明し、数ヶ月の入院生活から退院したのち、驚くことに仕事に復帰した。彼の病気は未だ解明されていない点がほとんどだったが、身体への影響に個人差があることで有名だった。余命は分からず、かといっていつ悪化してもおかしくない状況だった。しかし、身体的・精神的ストレス面を考えても、仕事をして日常を送った方がいいという医師の判断もあり、桂は仕事に復帰した。


===================


 ”私は、自らの意思で『遺書部』という部署を新たに作り上げた。もちろん私1人だけの部署だ。私は社長でもなければ、部長でも、課長ですらなかった。だが、当時の社長、私に職場復帰を勧めてくれた社長が、私の好きなように仕事をさせてくれたのだ。

 私自身にブレーキをかける意味でも、言っておく。あまり深く会社の情報を書き綴ることは良くないだろうから、ここでは、私個人としてどのような仕事をしてきたのかを語ろう。正確にいうと、仕事”を通して”どのような人々の想いに触れてきたのか、だ。”


===================


「今の『総合サポート部』ってあるだろ?そこの『公正文書チーム』は、昔は『遺言書チーム』って名前だった。」

「遺言書?遺書じゃなくてですか?」

北斗が不思議そうに尋ねる。

「遺言書はな、法的な効力があるんだよ。まぁ遺産相続とかそういう関係のことを書いたりするんじゃないかな、基本。遺書は、単純に手紙みたいなもんだ。まぁ明確な線引きは俺も専門外だ。多分遺言書にも遺書と似たようなことは書ける。」

「なるほど...。」


===================


 "最初の顧客は、私の知人だった。私がこの仕事を始めたと聞いて、すぐに連絡をくれた。その知人、以後はAと呼ぶが、Aの父親は既に90歳を超え、入院生活が続いていた。病に病が重なるかたちで、ここ数日のうちに息を引き取ってもおかしくない状況だった。容態からして、酸素マスクを外すことは難しく、喋ることもままならなかった。

 それでも、Aは父親の最期の声をかたちにしたいと私に告げた。身も蓋もない話だが、父親の最期の言葉を綴るのが私で良いのか、とAに尋ねた。しかしAは、こう言った。

「俺は親父と昔、大喧嘩したんだ。それ以来互いに心を開いて会話したことがない。俺じゃ親父の言葉を『聴けない』んだ。」

私はAの手を強く握りしめ、父親の最期の言葉をこの世界に遺すことを約束した。”


===================


「最期の言葉を遺す仕事、か。」

北斗にとっては、かなり思うところがあったようだった。今まで自分が仕事としてやってきたことと、感じてきた違和感。かつて母親に対して覚えた罪悪感。今まさに抱いている『七海楓』に対するやるせない気持ち。


 北斗は、自分のやりたいことがなんとなく見えた気がした。


「あの、課長。今は桂雄一郎がいないから、遺書部はないんですよね?もし、もしですけど、その部を復活させたいってなったら、可能なものなんですか?」

真剣な表情で尋ねる北斗に対し、孝太は少し目を逸らしながら苦い表情をしている。

「うーん。それは、厳しいと思う。」

「なんでですか?」

どう答えるか悩む孝太を見かねてか、侑芽が口を開く。

「そういえば、うちの会社、昔なんか問題になりましたよね。そんな大きなニュースとかにはなってないから、北斗ちゃんは知らないかもだけど。」

孝太は侑芽に視線で合図を送っている。自分が言いづらいことを彼女に任せるつもりだ。

「問題って、なんですか?」


「えっとね、許可されていない安楽死、というかほぼ自殺かな、それに与したって言われてるの。その問題になった人が、多分、桂雄一郎。」




 ”私は、会社をクビになった。それでも、後悔はしていないのである。その決意を目の前にして、止めることなど許されないのだから。”



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