北斗の遺業
賀来リョーマ
第1話 北斗と聡子
「北斗ちゃん、昨日言ってたあの頑固なお客さん、今日はなんだって?」
「え、あ!すみませんまだ連絡してないです...。でも昨日のあの調子じゃ、今日もまた断られるんじゃないかと思うんですが。」
「ま、それもそうねー。またご家族がいらっしゃる時に電話しましょうか。」
小ぢんまりとしたオフィスの中、やや脱力した2人の声が途切れ途切れに響く。仕事の話の時もあれば、雑談の時もある。というより、ほぼ雑談だ。
十人強の席があるようだが、オフィスには今、『喜多見北斗』と『阿久鈴子』の二人しかいない。他の職員は外出か或いは在宅勤務しているようだ。
「横山さん帰ってきませんね、横山さんとこの今日のお客さんも確か面倒だった気が...。って、阿久さんは一度話されたことある方でしたっけ?」
「ん?あたし?ないない、横山さんから話聞いてただけよ。横山さんお休みの時に、連絡きたらって感じだったけど結局は何もなかったわ。」
「あれ、そうだったんですねー。それは助かりましたね...。」
北斗のその言葉に反応するように、先輩である鈴子は得意げな顔を見せる。
「でもね、私意外と面倒なお客さんを攻略するの、結構好きみたい、ふふ。」
「あー...阿久さんはそういうの得意ですもんね。」
北斗は少し乾いた声で鈴子に答える。『私はごめんだ』と言わんばかりにその話を終わらせ、彼女らは互いに自分の仕事へと戻った。
喜多見北斗。彼女は株式会社『カルテラ』に入社してから3年目になる。従業員は30人ほどの小さな会社だ。北斗が勤務しているオフィスとは別に、徒歩圏内だが少し離れたところに別の部署がある。
日も落ち始め、彼女が今日の仕事を終え身支度をしていると、オフィスのドアが軋みながら開く音がした。
「お疲れぇ〜す。あれ、まだ2人?」
「そうですね、私はもう帰るので、また2人ですね。課長の机に今朝言ってた書類、置いときました。」
「おぉありがと。なに、喜多見もう帰るのか?」
課長は何かを思い出すように眉を上下に動かすと、すぐに納得した表情を見せた。
「あぁ、今日だったな、悪い。また明日な、お疲れさん。」
「孝太くん、そういうとこ気遣えないんだから。」
「思い出したからいいだろうがよぉぉお!」
孝太と鈴子が何やら言い争っている。同期同士のお家芸を尻目に、北斗は帰る準備を進めた。
「じゃ、私はこれで。明日は少し早めに来ます。」
「明日くらい休んでもいいんだぞ?無理すんなよー!」
彼女は孝太に軽く会釈して会社を後にした。
3階から1階に下りるエレベーターの短い時間で、母親へのメッセージを済ませる。
“今から行くね、30分あれば着くと思う。”
電車の中は微妙に席が空いていた。いつもならものすごい瞬発力と『人の間すり抜け力』で少ない席を獲得する北斗だったが、どうやら今日は落ち着かずに立っている。
頭の側面を電車のドアにつけ寄りかかりながら、彼女は眠くもないのに目を閉じ、時間と距離が縮まるのを待った。
特に乗り換えもなく目的地の最寄りへ到着すると、3番出口からものの3分ほどで着く病院へと向かった。足取りは重くもなく、軽くもない。それでも、普段の感覚とは異なっている。
病院に通い詰めているせいか、受付にいる看護師の全員が立ち上がり、彼女を案内する。北斗は少し気まずそうに会釈をして、いつもの病室へと向かった。
ドアの前で、短くて深い呼吸を一度だけした。スライド式のドアノブに手をかけ、彼女は病室へと入る、、、そんなイメージトレーニングを数回繰り返してから、一度呼吸を整えるために廊下にある近くの長椅子に腰掛けた。
「やば〜いもう、何やってんだ私っ。なに緊張してるのさ。」
北斗は小声で自らに喝を入れ、つま先に力を入れて立ち上がろうとする。
「北斗ちゃん!」
少しだけ慣れたその声に、力を込めたばかりの足先は元に戻る。
「瀬奈さん。今日は遅番ですか?」
「ううん、早番だからもうあがり。北斗ちゃん来てるかなって思って、見つけたから声かけちゃった。ごめんね、タイミング間違えちゃったかも。」
瀬奈は、北斗が病院で知り合った看護師の中でも、最も近くで話を聞いてくれた人物だった。
北斗は横に首を振る。
「いえ!そんな。私も、急に勇気が出なくなっちゃって。精神統一、してました。」
北斗は努めて決意に満ちたような顔をする。瀬奈にとっては、何度も見てきた北斗の『無理した顔』だ。北斗自身も、無理していることがバレているとは分かっている。
「そっかそっか。じゃあちゃんと精神統一してから入ってね。私はもう行くから。」
「はい。あの、瀬奈さんと話して、ちょっと落ち着けて助かりました。お疲れ様でした。」
もう帰ろうと背中を向け始めていたが、北斗の言葉尻が少し寂しそうだったことをすかさず感じ取った瀬奈は、目の前でそっと屈んで北斗の頬に右手を添える。
「明日以降も、来ていいんだからね。別に病院でじゃなくたっていいんだよ。いつでも連絡して。」
北斗は浮かぶ涙が流れるのを何とか堪えて、代わりに大きく3度頷いた。
瀬奈が廊下の角を曲がるところまで小さく手を振り続け、彼女が見えなくなってから今度は足に大して力も入れず立ち上がった。スムーズにドアノブに手をかけ、部屋の中へと入る。
《喜多見聡子》
「あら、遅かったじゃない。まぁ何となく聞こえていたけれど。」
「あらそうですか。瀬奈さん、今日は早番なんだって。3人で一緒に話したかったな。」
「贅沢ね、まぁ私は明日最後に会えるけれど。」
「うん。」
少しの間、静かだった。北斗は下を向き、ベッドにいる女性に目を向けようとしない。
「北斗、随分と元気ないじゃない。」
「むしろ、お母さんのその余裕は何なのさ。」
北斗は少しいじけてみせた。まるで母親と小さな子供との『幸せな喧嘩』のようだった。
「先のことって不安でしょう?私には、もう明日しかないから。だから、この余裕ってわけ。」
「何それ、意味わかんない。」
「意味が分からないなら、それが一番だわ。」
「そうだね、今後も理解できないことを願うよ。」
北斗はそっけない返事をしながらも、視線は段々と母親の方を向いていった。
「ねぇ、お母さん?」
急に柔らかな『娘』の声で呼びかける。
「なぁに?」
温かな『母』の声。
「今日お父さんは?」
北斗の椅子の横を握る手の力が少し強くなる。それに気づいた彼女は、その力を意図的に緩めた。
「今朝、来てくれたよ。泣いてくれたわ、見たこともない顔でね、ふふふ。」
「そっか。」
「ねぇ北斗。」
「なに?お母さん。」
母の両手が、北斗の顔へと近づく。それに応えるように、北斗は前のめりになり母へと近づく。その両手が、たった1人の娘の頬を包み込んだ。
「あんたも、泣いてるんだよ。」
「お母さんだって、泣いてるじゃん。」
娘の泣き声が響く微かな間に、母のすすり泣く音が聞こえていた。
2時間くらい経った後だろうか、北斗は母親との最期の会話を終えて病室を出た。
北斗が最後に見た母親の表情はすっきりしていた。全ての後悔が涙とともに流れたかのように。それでも、病室を出た後には聞いたこともないくらい大きな、ただ確かにさっきまで耳に心地よく響いていたはずの声が部屋の外の北斗にまで届いていた。北斗は一瞬足を止めたが、引き返す勇気が起きることはなく、そのまま病院を後にした。
自宅へと向かう電車で、今度は座席の一番端で座っていた。
「はぁ、疲れた。」
疲れていたし眠かったが、それでも何で今こんな言葉が出てくるんだろう、と北斗は思った。眠気の割には寝られず、ただ最期の『声』だけが彼女の脳裏に焼き付いていた。
【翌日】
「あ、横山さんおはようございます。」
「お、キタちゃんおはよう!よくぞ来てくれた!」
「ん〜まぁ、日常を送るのが一番の薬?的な?皆さんにいつも通り会うのが、一番落ち着きます。」
北斗の言葉を聞いた孝太がすかさず会話に入ってくる。
「それは嬉しいな!よし、今日は飲み行くか!どうだ喜多見?」
「あぁいいですよ。阿久さんも来れますか?」
「もちろんもちろん!旦那には言っとくわ。孝太くんと2人なんて危なっかしくてねぇ。」
「キタちゃん、私も行くよー!他にも声かけときますね、いいですよね課長?」
「あ、あぁもちろん...。」
調子に乗っていた孝太が分かりやすくテンションを落としたところを見て、鈴子と横山真帆は目を合わせ肩で笑う。
昼休みを迎えるタイミングで、オフィスにいるのはすでに3人だけだった。
「キタちゃん、お昼持ってきた?」
「いえ!今日は朝時間なくって。」
「お!ちょうどいいね!外いこ外!」
調子の良い軽快な動きで、彼女は両手の人差し指で窓の外を差した。
横山美帆は北斗の3つ年上の先輩であるが、入社したのは北斗と同じタイミングだった。前職から営業だったこともあり、とにかくコミュニケーション力が高い。
2人はオフィスから少し歩いたところにある洋食屋に行った。オフィスが面している大通り沿いから少し小道に入ったあたりの目立たない立地だが、正午近くになると短めの列ができるくらいには人気の店だ。
「ありゃ、混んでるね〜やっぱり。」
「横山さん午後イチで何か予定ありますか?私は特に無いので全然並べますよ。」
「うん!私もなかった、、、はず。ちょっと待ってね。」
美帆は手持ちの小さなバッグから会社ケータイを取り出す。どうやら午後の予定を確認しているようだ。
「あ、うん無い無い!問題ない!」
「お、じゃあ並びましょう!」
列の最後尾についてから10分くらいで店の中に入れたが、店内でもレジ横の椅子に座って10分ほど待機した。
店員が笑顔で席を案内する。やっとのことで席についた2人は、ほっと安堵のため息をついた。
「いや〜久しぶりにこんな並んだわ。」
「横山さんここよく来るんですか?」
「いや、初めてだよ。でも来たいとは思ってたんだ〜。」
「そうなんですね!私一回だけ来たことあります。」
2人が会話しているうちに、水とおしぼり、メニューがくる。それぞれ別のランチメニューを頼み、またほっと一息つく。
「森嶋課長も、もうちょい仕事以外での人との接し方とか、工夫したほうがいいよねぇ。」
美帆は唐突に、さも話題の途中かのように話し始める。
「課長ですか?」
「うん、あれ。今朝のだってキタちゃんと2人で行こうとしてたの、気付かなかった?」
「あ、いえ、気付いてましたよ。」
北斗は当然のように答えた。
「でしょ?タイミングとか、考えないんだよあの人は。」
「まぁ課長らしくていいんじゃないですか。単純ですし。」
北斗は少し笑ってから水を口に入れる。美帆は少し驚いたような顔をする。
「キタちゃん嫌じゃないの?課長のアプローチ受けてるの。」
「あ〜まぁ、そうですね。すっごい嫌とかはないです。」
美帆はわざとらしく口を両手で覆う。
「それ、課長に伝わったら加速するから気をつけなよ!まぁキタちゃんがいいならいいけど。ねぇそういえばさ、」
美帆が何かを言いかけた時、タイミング悪く料理が出てくる。ハンバーグにグリルチキン、セットのサラダ、スープ、特製チップスみたいな何か。
「ごゆっくりどうぞ〜!」
2人はとびっきり笑顔の店員に軽く会釈をして、ひとまずいただきますをする。
両者は一口ずつ頬張るが、一口が大きすぎたのか咀嚼に時間がかかる。まるで大食いかのように水の力を借りてやっとのことで飲み込んだ。そんなお互いの様子を見て、2人は思わず吹き出す。
「横山さん、そういえば、そういえばって言ってましたよね。なんですか?」
「え〜あぁ、何だっけな。」
美帆は必死で喉から出かけた話題を思い出そうとするが、なかなか思い出せない。彼女が考えているうちに、北斗は次々とチキンを食べ進める。
「思い出せなかったら全然いいですよ、忘れちゃうくらいのことなんじゃないですか?」
北斗は口の周りを拭き取りながら言った。
「うん。あ、そうだそうだ。長谷川さんいるでしょ?私が担当のお客さん。」
「あー、あの少し癖のある方ですか?長谷川さんっていうんですね。」
「そうそう。あの人ね、終活に対してかなり抵抗あるの。本人は頑なに拒否するんだよね。」
美帆の言葉に、北斗は目を丸くする。
「あれ、その方ってそういう感じだったんですか。中身に色々ネチネチ言ってくるタイプだと勝手に思ってました。ご本人は反対されてるのになんでずっとやり取りされてるんですか?うちの会社はそんなしつこく勧誘するとこじゃないのに。」
「ご家族がどうしてもって、譲らないみたい。どちらかというと、私たちに対して文句を言うというより、ずっと親子で喧嘩してる感じなの。まぁその過程で長谷川さんにはウチのビジネスをボロクソに言われちゃうんだけどね。」
美帆は話すのに夢中になっているからか、既にフォークもナイフも置いて完全にお話しモードに入っている。北斗はポテトを刺したフォークを持ったまま返事をする。
「あぁ、なるほど。うん、なんとなく、長谷川さんの気持ち分かります。」
「そっか。」
美帆は北斗の気持ちを察したうえで、続けて北斗が話すための相槌を送る。
「自分がこの仕事をやっててなに言ってるんだ、って感じですけど、やっぱり死ぬことを考えるのは悲しいですよ。それが自分のものでも、誰か大切な人のものであっても。」
北斗は水を一口飲み、また話し始める。
「確かに、人生の最後を良いものにしたいって願いがあるのは分かってますし、それをお手伝いできるのは素晴らしいことだと思います。でも、やっぱり長谷川さんみたいに気分を害してしまう人だったり、何か周囲から死に追いやられている感覚が生まれたりしてしまう人もいると思うんです。私自身、この仕事をやってきて、時々思っちゃうことがあるんです。」
「思っちゃう?」
美帆が少し心配そうな視線を北斗に向ける。
「はい。私達が、お客さんを『殺している』んじゃないかって。そんなことないの、分かってるんですけどね。」
北斗は引き攣った笑顔を見せる。さすがの美帆もどう反応したら良いか分からない微妙な表情を浮かべた。
「すみません、こんな話をして。おんなじ仕事をしてる先輩なのに。」
「ううん、大丈夫。何でも吐いたっていいの。そのために今日ランチ誘ったんだから。」
「ありがとうございます。ちょっとなんか、こっから数日はこんな感じかもです、すみません。」
繰り返し謝る北斗に対して、美帆はゆっくりと首を横に振る。
「ううん。謝らなくたっていいよ。いつでも何でも言って。」
2人は店を出てオフィスに戻った。北斗は、思っていることを誰かに言えたことで少しは気が楽になったようだった。だが、それでもまだ母のこと、自分がしていることについて思い悩み続けていた。
美帆は昼休みが明けてから外出までの間、しばらく仕事が手につかなかった。その間、ずっと北斗の言葉について考えていたのだ。彼女が自分で気づいているかすらも分からないくらい小さく震える手を見た美帆にとっては、明るく仕事をこなしてきた自らの考え方までも揺らぐような言葉だった。
「それじゃ、いってきまーす!あ、課長、お店6人で抑えときましたんで、後で場所と時間チャットしますね。」
そう言いながら美帆はドアノブに手をかけ居室を後にする。
「お!オッケーありがとう!さすがは横山、仕事が早い。」
孝太が返事する頃には美帆が勢いよく閉めたドアの音が鳴り響いていた。
オフィスの最寄り駅へと歩く時間。いつもならイヤフォンをつけ好きな音楽を聞いている時間だ。今日も最初は昨日リリースされたばかりの曲を流していた。しかし、その曲の音や歌詞がすんなりと入ってこず、美帆はイヤフォンを外した。
「難しいこと言うな〜、キタちゃんも。私が元気づけてあげようと思ったのに、逆に考えさせられちゃった。」
そう呟いてすぐに駅につき、地下鉄へ続く階段を下っていった。
「喜多見、ちょっといいか。」
孝太が自席で作業をしている北斗を手招きする。彼女はちょうど打ち終わったメールの内容をざっと確認して『送信』ボタンを押すと、すぐに立ち上がって課長のデスクの前まで小走りで向かった。
「はい、なんですか?」
「あのさ、大丈夫か?喜多見次第だけど、業務分担、少し変えられるぞ。」
孝太は額を軽く引っ掻きながら、少し気まずそうに言った。北斗は少し驚いた表情で1、2秒固まったが、すぐに表情を和らげると、
「いえ、このままで大丈夫です。周囲からの接し方とか変えられたりしちゃうと、余計感じちゃいますから。仕事くらいは、変わらずやらせてください。」
その言葉に孝太は少し安心したのか、今度は落ち着いた表情で頷いた。
「そうか、分かった。なら、今日もこれからもいつも通り頑張ってくれ。あ、でも今日の飲み代は払わなくていいからな、これは譲らん。」
「ふふっ。はい、分かりました。」
北斗は小さく吹き出して笑った。
「孝太くん、北斗ちゃん気遣うのもいいけど周りに聞こえるところで話すことじゃないんじゃな〜い?」
鈴子が嫌味たっぷりの顔と声で口を挟んだ。孝太はそれにすぐに応戦した。
「うるさいなぁ!聞こえないとこで喜多見と2人で話したら話したで文句言うだろうがよお。」
「はいはい、もういいですから。私は仕事戻りますね。」
半分呆れながら、半分面白がっている北斗は自分の席へと戻った。
北斗は、自分の軸にあった何かが揺らいでいるのを感じていた。それが何かはハッキリと分からなかったが、母親の死が関係していることだけは分かっていた。それでもいつも通り仕事をしていたのは、感情の揺らぎに気付かぬフリをするため。そんなフリをしていることは、北斗自身も重々承知だった。
15時をまわった。母親がいつ息を引き取ったのか、娘には知らされていない。北斗が知っているのは、『それ』が今日ということだけ。
もうすぐ定時というタイミングで、美帆が帰ってきた。
「ただいま帰りました!」
「おぉ、だいぶ遅かったな。オフィス組はもう出るぞ。」
孝太がジャケットを羽織りながら答える。
「すみません課長、ちょっと今日話長引いちゃって。」
「あぁ、長谷川さんとこか。まぁしょうがないな。」
「あはは...。そういえば、駅で侑芽さんと小島くん見たので、2人ももうすぐ帰ってくるはずです。」
「オッケー。喜多見、2人に直店でいいってチャットしといてくれ。」
「は〜い。あれ、今日は部長来ないんでしたっけ。」
「あぁ、今週は向こうのオフィスに出ずっぱりだな。なんかややこしいことに巻き込まれているらしい、ってのは聞いてる。」
部長の話をしているうちに美帆が準備を終え、出発しましょと北斗にアイコンタクトをする。それに笑顔で応えた北斗が先導して、予約した店へと向かった。
「かんぱ〜〜い!!」
6人の中でも、孝太の声は一際大きかった。新人の小島優斗は1人だけウーロン茶だが、その他のメンバーは全員ビールの入ったジョッキを掲げる。
「そういえば、これって何の会ですか?」
優斗が枝豆に手を伸ばしながら呟く。
「あれ、私言ってなかったっけ?」
美帆はわざとらしく人差し指を額に当て、思い出すフリをする。
「何も聞いてないよ〜私たちは。でも、大体分かってる。」
美帆の4つ上の先輩である神谷侑芽は、落ち着いた口調で答える。
「察し良いな、さすが神谷。」
「課長、私が分かってるって言ってる意味分かってます?」
「え?どういうこと?」
「いや、なんでもないです。」
呆れた表情の侑芽を見て、北斗と美帆が苦笑する。
北斗が飲み会中に笑顔を絶やすことはなかった。気の知れた関係でコミュニケーションをとりつづけることで、彼女の溢れ出そうな感情に必死に蓋をしていた。
株式会社カルテラは、『終活』をはじめとした人生サポートを主な事業としている。『死』の捉え方が多様化する現代において、自分の人生の終わりをより良くするための活動をサポートする仕事だ。
北斗の母親である聡子は、北斗が大学4年生の時から原因不明の重病にかかっていた。余命は3年ほどと告げられ、息を引き取るまでの大半の時間を病院の中で過ごした。既に別の企業へと就職が決まっていた北斗だったが、母親の病気を知り、せめて最後は笑って暮らせるようにとカルテラに入社することを決意した。
「私は、お母さんのために仕事してきたってこと、途中から感覚として無くなってきちゃったんですよ。」
「キタちゃん?」
2次会まであった飲み会が終わったが、北斗は終電を逃してしまったため、家の近い美帆の家に泊まることになった。酔いが覚めてきた2人は、電気のほぼついていない住宅街を歩いている。
「お母さんは、自分が死ぬことを受け入れて、自分自身で死を迎えにいったんです。私は、たくさんお母さんと話しました。これやってみたらどう?とか、こんなのもあるよ!とか、私が会社で学んだこと、たくさんお母さんの役に立ってくれないかなって。でも...。」
北斗の言葉が途切れる。美帆はすぐ隣で下を向く彼女の肩にそっと触れる。彼女にかける言葉は出てこない。というより、何も言うべきではないと思っているのだろう。北斗はその優しい手に安心したのか、さっきまで我慢していた涙の栓が抜かれ、溢れ出した。
「何を言っても、『大丈夫』って。自分の最期くらい自分で決めるって。別にそう言われるのが嫌なわけじゃなかったんです。ただ、ただ悲しかったんです。人の感情や人生の価値を踏みにじっているような気がしたんです、一番大切な人の人生を。」
「キタちゃん!」
美帆は、今度は強く北斗を抱きしめた。2人は言葉を交わさない。深夜0時を回った狭い道の真ん中で、声も出せないくらい荒い息で彼女たちは号泣し続けた。言葉通り、涙が枯れるまで。
美帆の家もすぐそこというところまで歩いてきたタイミングで、美帆が北斗に尋ねる。
「お母さんは、いつもキタちゃんの話を聞いてる時どんな感じだった?」
「え、いつも笑ってました。私の持ってくる終活の話をいつも馬鹿にしてましたね。」
質問の意図を汲み取れなかったのか、北斗は不思議そうな表情を浮かべつつも率直に答えた。
「そっか。じゃあ、キタちゃんは人の人生を踏みにじってなんかないよ。少なくともお母さんの人生は。」
「どうしてですか?」
北斗は、美帆の言葉がまだ腑に落ちない様子だ。
「だって、『自分で最期を決める』って言ってたお母さんが、キタちゃんと笑って話すことを選んだんだから。」
美帆が口にした言葉は、確かに北斗を元気づけるための言葉だった。しかし同時に、その時の美帆の表情は少し暗いように感じられた。
「横山さん、ありがとうございます。なんか色々喋っちゃってすみません。すごく楽になりました。またすぐ病んじゃうかもですけど。」
「またいつでも話してね。お相手します!あれ、うち泊まってかないの?」
「やっぱりタクシーで帰ることにします。ちょっと1人で考えたくなったので。」
「そっか。分かった。考え込みすぎないようにね。」
「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした。また来週。」
「うん、お疲れ様、またね。」
北斗は、母親の死から少しずつ立ち直り、前向きに生きるようになっていった。しかし、それでもまだ彼女は現在の仕事に対する違和感を拭い去ることができず、モヤモヤした日々を過ごしていた。
日々、高齢者向けの習い事を紹介したり、身体が不自由な状態でも可能な趣味や勉強、親族に遺す資産の効果的な運用、多様化する葬儀の紹介など、ありとあらゆる『死を迎えるための準備』をバッグに詰め込んで都内を巡っていた。
ある日、珍しく外出がなくオフィスで溜まっていた雑務をしていた時、窓口に1人の女子高生が尋ねてきた。全てを失ってしまったような表情をした彼女を見た北斗は、かつて母親を失った自分を思い出した。そのタイミングでオフィスにいたのが北斗だけだったため、その少女に仕方なく応対する。
「あの、すみません。死にたいんですけど、どうすればいいですか?」
北斗のメモを取ろうとするペンが、一筆目から止まった。
「北斗と聡子」ー完。
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