第2話

 ある朝を迎えた。私が住んでいる水槽に灯りが灯るのは主が起きてすぐである。主は出勤時間がまばらなので起きる時間は決まっていないが、早番の時に限って言えば午前5時・午前6時・午前7時と三度アラームを鳴らす。まったくもって心配性なのだ。だから私の一日の始まりは午前7時を過ぎたあたりからだ。寝ぼけ眼の主は私には一切の関心を示さず、洗面を済ませ、下の階へと降りていく。食パンがあればそれを、それがなければ茶碗一杯の白米を昆布などを添えて食べている。私の食事も固形フードで変わり映えしないが、人間の食べ物も普段は餌に近い物を食べているようだ。食事を終えた主はまた部屋へと上がって、今度は制服に着替える。何事につけても心配性な性格の主は時間についてもそうであって、30分で着く職場に1時間30分前に家を出る。余った時間は職場手前のSAで潰しているようだ。誰も居なくなった部屋で私の世界は静かに時を刻む・・・


 主の父親は誠実で寡黙な人だった。町工場の職人として45年に渡り勤めあげた。冗談などを言う父ではなかった。仕事を終えて家に帰ると母がつくった漬け物や冷奴でコップ一杯の酒を飲んだ。贔屓の球団のテレビ中継があるとそれをツマミにもした。敗戦が濃厚になるといつもよりも早く眠気が訪れて、母と一言二言喋り、「そろそろ寝る」とだけ言って二階の寝室へと上がった。そんな父に確かな愛情を感じ、そして幸せだった母がいた。父と母が見合いで結婚したのが二十歳過ぎの頃だった。ほとんど冗談やユーモアはなかったが、それを引き算しても余りある好人物だということを母は出会って一瞬で見抜いたのだった。

 主が生まれたのは昭和47年8月の暑い夏の日だった。両親にとって最初の子供で兄弟はその後もつくらなかった。主が三つの頃、贔屓のプロ野球球団が初優勝して、それを観ていた父が酒の入ったグラスを持った手を震わせながら涙していたのを三つの主は覚えていた。主が幼稚園を卒園する頃、母はパートの仕事に出る事にした。近所の青果市場の問屋での仕事だった。父が寡黙だった分、母は明るく社交的な所があったので職場にはすぐに馴染めたようだった。母は夕方に仕事を終えるとその足でスーパーに寄り、夕食のおかずを一つ二つ買い帰宅した。母の作る料理で主は好物と言ってもよいものがあった。それはカレーライスだ。ジャガイモ・人参・たまねぎ・牛肉、特に変わった具材が入っていたわけではなかったが、コクがあり、スパイスの効いた辛さの程良いものだった。そのカレーには主の知らない隠し味が一つだけあった・・・

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