詩経・楚辞 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典

文献情報


・Author

 牧角 悦子

・ISO Code

 ISBN-13 978-4044072278


感想


 詩経には人生の大切なことが全部詰まっているんだ。


 少し大仰な表現だし、こんなミームが流行した時期も最近にあった気がする。しかし、こんなことは今から紀元前から言われている。孔子に曰く、「どうして詩を学ばないのか。詩は心の強さも、観察力も、社会性も、その他あらゆる必要なことを教えてくれる」(論語 陽貨篇, 9より意訳)とのことである。


 要するに、儒教やるなら詩を読めという話なのだが、ここで言う詩とは当然「詩経」のことだと言われている。言い切らないのは詩経の成立年代がしっかり解っていないことと、私達が現在読める詩経が編纂された時期に諸説ある「毛詩」というちょっとアヤシイ=ヤツであるためだ(一説には孔子が編纂したとも)。しかも、毛詩にさらに構成の人物が解説を書き加えていったものがよく知られている(教科書としての)詩経である。なので、孔子が言っている詩経とどの程度一致しているかというのはよくわからないのだが、十割入れ替わっているということもないだろうから少なくとも大切なことの何割かは詰まっていそうである。


 さて、おおよそ孔子の時代の文書であるから、当然著作権は切れていて、パブリックドメインとしてWEB上で詩経が読める時代である(例えばhttps://zh.wikisource.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%B6%93)。さらには、ここでは引かないが書き下しや翻訳、解説までWEB上に充実している。そのため、本来ならば本を買わなくても詩経に母国語で触れられる良い時代なのだ。では、何故わざわざ本を持ってきて紹介したのかといえば、ISBNが欲しかったからである。というのも多少はあるが、一番は詩経が詩「経」として読まれた時代が長かったからだ。


 例えば、上で挙げたサイトから一部を引いてみよう。


 關關雎鳩、在河之洲。

 窈窕淑女、君子好逑。


 參差荇菜、左右流之。

 窈窕淑女、寤寐求之。

 求之不得、寤寐思服。

 悠哉悠哉、輾轉反側。


 參差荇菜、左右采之。

 窈窕淑女、琴瑟友之。

 參差荇菜、左右芼之。

 窈窕淑女、鐘鼓樂之。


 これは詩経の關雎という詩なのだが、直訳すると(おそらく)ざっとこんな感じだ。


 恋を歌うツグミ、河の州にいるのか。

(そのように)しとやかな美女こそ、君子の憧れ。


 長短の水草、左に右に探し求めよう。

 しとやかな美女、(そのように)寝ても覚めても求めてしまう。

 求めても得られないものだ、寝ても覚めても思っているというのに。

 何とも遥か何とも遥か、寝返りを打つ。


 長短の水草、左に右に選び取ろう。

 しとやかな美女、(そのように譜を見分けながら)琴と笛を友とする(のだろうか)。

 長短の水草、左に右に摘み取ろう。

 しとやかな美女、(そのような軽やかな勢いで)鐘と鼓を楽しげに奏で(ておくれ)。


 解釈のしかたである程度表現は変わると思うし、私も白文に親しんでいるわけではないので、良い解釈はもっとあるとは思うのだが、大筋はだいたいこんな感じである。つまり、身も蓋もない言い方をすると「美人で気立ての良い彼女が欲しくてたまらないぜ」という詩である。そんな感情がこうも雅に歌い上げられているのだがら凄まじいものだが、内容としては今の私達と対して変わらない。


 ところが、孔子が猛プッシュしたのもあってかは知らないが、後世の人間たちはこの詩に書かれていること以上のものを見出し、注釈をつけ始めた。そのあたりの話はWEB上を探せばそこそこ出てくるのだが、例えば毛詩に曰く

「《關雎》,后妃之德也,風之始也,所以風天下而正夫婦也,故用之郷人焉,用之邦國焉、……」(一部字体を変更)

 とのこと。つまり、

「《關雎》は后妃の徳であり、(国)風の始まりでもあり、天下に吹く(国)風によって夫婦のあり方を正す、このようにして郷の者たちも正しく、これが国全体が正しくなっていく、……」

 らしい。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、儒教の考えに則って解釈すると、どうもこういうことになるらしい。このような解釈を付けられていった結果、詩経は儒教のテキストとしての地位を確立したわけである。


 だが待ってほしい。国家のあり様を考えるというのもたしかに重要だが、それはそれとして美しい詩に酔いしれるのもまた重要ではないだろうか。この關雎を読み上げサービスなどで聞いてみればわかるのだが、リズムと音韻が非常に心地よく詩「集」の一番手にふさわしい「ストレート級のジャブ」だ。しかも、実態は「彼女欲しい」なのにいちいち洒落た表現をするせいで、例えば「朧気に夢見た運命の人を夢現に幻視しては懊悩する切なさ」のような有りもしない幻想が脳裏に浮かぶ。重ねていうが、内容自体は「恋してぇ」である。


 要するに、単純に読み物として面白いのである。ところが、儒教は長い間流行った(流行っている)ので、一昔前までの訳書や解説書を見るとどうしても「国家の……」やら「君子の徳……」という話になっていく。そういう解釈も時代背景や思想として面白いのだが、そこには立ち入らない鑑賞対象としての詩経もまた良いものなのだ。それもあってか、最近の解説書は(詩経に限らず)比較的「鑑賞」的な解説をするものが増えてきた。この本もそんな解説書の一つである。


 鑑賞として詩経を読むというのはWEB上でもそれなりにある話なのだが、この本は詩につけられたコラムの量と質が嬉しい一冊だ。一首に一つコラムがつき、そのコラムも儒教的なものではなく詩が詠まれたと思われる当時のちょっとしたトピックのようなものだ。そのため、詩の美しさとともに立ち上がってくるリアリティの補強が心強い。もちろん書き下しや、現代日本語訳も付いているので白文がソラで読めない(私のような)人間でも安心だ。


 実は私には十に満たないような歳の頃、図書室に並べられていた詩経の解説本(どこの出版だったかは記憶が定かでない)を読んで感動したものの、難解さのあまり百首も読めずに匙を投げた苦い記憶がある。当時にこのような「鑑賞」本があったならばと自分の若さに忸怩たる思いはあるが、それ以上にこのような本が現れ始めたことを喜ばしく思う。惜しむらくはあくまでビギナー向けなので一部の抜粋にとどまる点だが、それを差し引いても読んで楽しい本であることに間違いはないだろう。ちなみに、このシリーズは他にも論語や史記など21冊(2024年5月時点)出ているのだが、私はこれらをまとめ買いセールにて衝動買いしてしまったことを付記しておく。


 詩経は大きく分けて3つに区分され、それぞれ民間に歌われた詩である「風」、朝廷に用いられた「雅」、祖霊への祭祀に用いられた「頌」と呼ばれる。これらの中でさらに細かい区分があるのだが、そのあたりは後々知っていくとして、とにかく当時の「詩」が様々に集められたものだと言うことだけ知っていれば良いだろう。バリエーション自体は多いのだが、風流な文化というか、恋や婚姻に関する詩がかなり多いのも特徴である。ロマンチックでなんともよろしいことだが、「うるさい蝿のようにまとわりつくイエスマンは害悪だ」(青蠅)のような過激な詩もまた歌われている所を見るに、愛も恨みも当時からあまり進歩していないらしい。そこがまた面白い所だ。


 とはいえ、鑑賞するならばやはり白文で読めたほうが良いだろうし、儒教的解釈もそれはそれで面白いので解説書はいくつか読んでみてもよいだろう。白文の読み方は私もちまちまと勉強中なのでこれが良いなどとは言えないのだが、古典だけあって詩経(毛詩)に出てくる文字は(おそらく比較的)種類が少ないため、白文の入門にも適しているだろう。読み方や意味がわからない文字はWEB上のパブリック版からコピペして調べればよいので、その意味でも楽である。


 ちなみに、この本に併記してある「楚辞」とは詩経みたいなものである。と言うと怒られそうなのでもう少し詳しく触れておくと、詩経と同様に詩を集めたものである。ただし、詩経は北、楚辞は南の詩を集めたものであり、詩経は人の営みをよく詠むのに対し、楚辞は超自然的な荒々しさをよく詠む……気がする。少なくとも、地域別の詩集と思っておけば間違ってはいない。


 確かに詩、特に漢詩は風刺となっているものや道を説いたものも多い。しかし、それを表すための文の美しさを、ただそれとして楽しむのも良いのではないだろうか。最後に、幼かった私に衝撃を与え、私の文章観の基礎の一つとなった毛詩大序(まえがきのようなもの)から一部を引用しておこう。「詩者、志之所之也、在心為志、發言為詩」つまり「詩とは、志の向く所であり、志とは心に在るものであり、言葉として発せられると詩となる」


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