プリニウス

文献情報


・Author

 ヤマザキマリ, とり・みき

・ISO Code

 ISBN-13 978-4107717573


感想


 信じられないことであるが、このことは本当である。


 そんな一文が書き添えられた辞典がある。古ローマはネロ帝の時代に書き上げられた、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの「博物誌」だ。この博物誌、とにかく「ものすごい」らしい。


 まず乗っているトピックが広範囲で、宇宙論から始まり、地理、人間論、動物、……さらには、農業、薬品、花、植物の利用法、……そして、鉱物、金属と彫刻、絵画、……現代の百科事典でももう少し節操がある。さらには、内容も「ものすごい」らしい。澁澤龍彦氏の「私のプリニウス」(ISBN-13: 9784309412887)によれば、こんな記述がある。

『エティオピアのハイエナと雌ライオンとが交尾して、コロコッタが生まれる。この獣は人間や家畜の声をまねる。いつも目をあけていて、歯茎のない上下の顎には連続した一本の歯がつらなっており、上下の歯は互いにはまりこむようになっているから、ぶつかり合って磨滅したりするようなことはない。ユバ王の報告によると、エティオピアのマンティコラスも人間のことばをまねるという』

 はて、なにかおかしい。そう気がついた方もいるのではないだろうか。犬とライオンで果たして子供はできるのだろうか。いやさ、仮にできたとして、マンティコラスとはなにか。ファンタジーに馴染みのある読者ならばご存知かもしれないが、マンティコラス(マンティコア)とはサソリの尻尾を持った、人の顔のライオン(もちろん肉食)である。もうお気づきだろう。このプリニウスというおっさんは、とんだホラ吹きジジイなのだ。


 澁澤氏の同著作によれば、「頭部のないブレミエス族」だの「足がヘビのようなヒマトポデス族」だのがいたり、「水晶は雪から生じる」だののとんでも解説が目白押しのようである(ただし、水晶雪起源説は産地も相まって、十七世紀ごろまで信じられていたようだ)。一方で、ふとした所で鋭い観察眼を発揮もするようだ。ローマ人にも関わらず、ダチョウやカメレオンについての詳しい記述があったり、水晶の結晶が六角柱であることに言及したりと、鋭い指摘もまた目白押しということだ。


 ところで、なぜここまでの解説がすべて伝聞の形なのかといえば、私は博物誌(の訳本すらも)を読んだことがないからだ。読みたいと思ってはいるのだが、訳本が一冊一万円と少しの六冊構成なので、気軽に買おうとも買えない。近場の図書館を探しても、案の定見つからない。古ローマを扱った作品ではまれに名前が出てくる「博物誌」だが、どうにも本体には縁がなくここまで来てしまった。そもそも、この話で取り上げるはずがまだ一言も触れていないヤマザキマリ氏の「プリニウス」に収められた対談によれば、このご時世に読んでいる人もいないような本ということだから、読まなくても良いのかもしれない。けれども、単純に好奇心として読んでみたいのだ。


 さて、なんとも「博物誌的」に脇道の話をしてしまったが、ヤマザキマリ氏のプリニウスの話を始めよう。風呂漫画の「テルマエ・ロマエ」の著者でもあるヤマザキマリ氏はこの漫画の一巻に収録された対談によると、テルマエを描いている時分からお笑いでない古代ローマを描きたかったらしい。古代ローマは時代の幅も広い上に、文化がひっきりなしに出入りしていたのも手伝ってか、十年分ざっと有名人を掬ってみると二、三人は伝記で一冊書けそうな人物が混じっているぐらいなのだが、興味がない人でも知っていそうな古代ローマの作家といえば「ガリア戦記」のカエサルや弁舌集で有名なキケローあたりだろうか。しかし、ヤマザキマリ氏はそのあたりの「大スター」ではなくプリニウスを選んでその半生を描いた。


 先に見たように、プリニウスの証言は学術的には全く当てにならないし、それらしいことも言っているがあきらかにそうでもないことも言っている。そもそも、古代ローマをカエサルとクレオパトラぐらいしか知らない層にウケるような人物だろうか。ウケるような人物なのである。プリニウスの生涯についてはあまり良くわかっていないらしく、史料は彼の甥の証言といくつかの手紙ぐらいのもの、そもそも彼の著作もまともに残っているのは博物誌ぐらいらしい。しかし、博物誌の内容を見てみれば(と言っても私は澁澤氏の著作経由の内容しか知らないのだが、それでも)彼の無節操な好奇心と「おおらかすぎる几帳面さ」とでも言うべき偏屈さが見て取れる。しかも、彼の甥の証言によれば最期は「火砕流が見たいから噴火した火山の麓に近づいたら窒息した」という変人っぷりだ。この変人があのネロ帝の治世下に「しらみに食われて死んだ神学者」を大真面目に記録している様子、これを考えただけで面白そうである。しかも、史料が残っていない分どんなプリニウスがいても良い。そんな期待に十分以上に答えてくれるのがこのヤマザキマリ氏らの「プリニウス」だ。


 この漫画はベスビオ火山が噴火するシーンから始まる。まずは街の様子が描かれ、その後一人の男が噴火する山を眺めるシーンへと移り、その男が呟く。『ウェスウィウスもエトナに等しく…』『燃える山であった…』(原文ママ)そして、その言葉を筆記係が書き留めるのだが、男はやがてこんなセリフを呟く。『これは間もなく…』『怪物キマイラが…』『我々の前に姿を表す予兆なのである』(原文ママ)。これにはおもわず筆記係も心中でツッコミを入れるのだが、もうお解りだろう。この火山を眺める男がプリニウスである。そして、筆記係の不安を和らげようとするのだが、「キマイラが現れるなんてわくわくする」と、どこかズレたことを言う。そして、唐突に風呂に入りだす。何を言ってるんだと思うかもしれないが、本当に唐突に風呂に入り、風呂から上がると食事を始める。もちろん、火山は噴火の真っ最中だ。


 この漫画を読んだことがない人は、第一話だから少し大げさな表現をしているのだろうと思うかもしれない。だが、安心してほしい。全編通して徹頭徹尾こんな感じであるし、なんなら第一話の変人っぷりは気持ち控えめだ。もちろん、ネロも登場する(ヤマザキマリ氏は描写に苦労したそうだが)し、当時のローマ人の知識や風俗についてもセリフに絵に漫画にと描かれる。


 最後に、漫画ということで作画にも触れておこう。この漫画はヤマザキマリ氏ととり・みき氏の合作であるが、大雑把に「人物」担当のヤマザキマリ氏と「背景」担当のとり・みき氏という方式らしい。申し訳ないが、わたしはとり・みき氏をこの漫画で初めて知ったため詳しいことは書けないのだが、この漫画を見る限り緻密な背景描写が真に迫った古代ローマを表現している。さらに、漫画ならではの表現も散見され、おそらく小説ではこの景色は言葉を尽くしても伝えられないだろうというコマもしばしばある。まさしく「漫画的におもしろい」漫画なのだが、ストーリーの面白さと画像の美しさから、気を抜くとついスルスルと読んでしまうのが困りものだ。


 プリニウスの資料の少なさから、伝記というよりも「古代ローマファンタジー漫画」であるし、変人のプリニウスや今からしてみれば奇妙な古代ローマの姿は人を選ぶ作品でもある。しかし、これは本当に描かれていることなのだ。

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