自由エネルギー原理の解説:知覚・行動・他者の思考の推論

文献情報


・Author

 磯村 拓哉

・ISO Code

 doi 10.3902/jnns.25.71


感想


 共感だって、報酬だ。


 そんなことを言うと、ひどく冷血な言葉に受け取られるかもしれない。確かに、詩文的には共感が意識や理性の外にあって、超然的な効果でもって人々を結びつけていてくれた方が嬉しい。しかし、脳みそに意識がいると考えているタイプの人々(つまり、科学者)にとっては、共感が手の届かないところにいられると扱いかねてしまうので、脳の中の何かしらの効果の結果であってほしい。この文献は、その「何かしらの効果」を表せそうなモデルの一つである自由エネルギー原理についての解説だ。


 詳しいところはこの文献を読んで……と言いたいところなのだが、読み慣れない人もいるかも知れないのでざっくりと解説しておこう。


 まず、自由エネルギーとは何かというところから始める。自由エネルギーと言うのは物理学、もっと言えば熱力学の分野で言われ始めた概念で、ものすごく雑に言うと、「考えている対象がそれ以外のものに影響を及ぼせる上限」みたいなものだ。さて、熱力学において仕事をしないでいる状態というのはその対象にとってあまりよろしくない状態だ。なので、自由エネルギーをなるべく減らして仕事をしようとするのだが、周囲の状況次第では兼ね合いの都合上などで、どこかでこれ以上仕事ができない状態になる。これを平衡状態と言って、どう動こうとしても自分が損しかしないので、このときの自由エネルギーの変化量は0になる。


 正式な説明からするとだいぶあやふやな説明で、等温条件や他の熱力学量などの話しておかないといけない部分もあるのだが、イメージとしては大凡こんな感じで良い。


 では、熱力学の自由エネルギーが共感と何の関係があるのか。熱力学というのは、私達が測れる物理量(圧力、体積や温度など)同士の関係性を表すもので、その中身(つまり、事実上追いかけきれないような大量の物理量が、測れる物理量に及ぼす影響)は統計力学と言う方法で説明されている。しかし、どうせ私達が見ることができるのは外で測れる量なのだから、統計力学の部分を上手いこと簡素化してやろうという発想だ(実際は、熱力学のほうが先に出来て、あとから統計力学で説明がついた)。この自由エネルギー原理も同じ発想で、脳の中身(脳細胞一つ一つの状態)を全部追いかけていると大変なことになるので、大雑把な傾向を知るためのモデルとして、いくつかの「外側」の要素だけを考えて、それらの関係を付けるやろうという考えである。そして、その関係付けとして「定義された自由エネルギーの変化量が0になるように脳みそが活動する」というアイデアを選んだのが自由エネルギー原理と言うわけだ。


 自由エネルギー原理が本当に正しいかというのは実験で確かめてやらないといけないのだが、「原理」とついている通り「こう考えたとしたら他の出来事はこう説明できる」という物なので、たとえ正しくなくても面白かったり、役に立つ結果が出ればそれはそれで良いのである。これだけだと、そんな考え方もあるという話で終わりになってしまうのだが、面白いのはここからである。


 脳みその働きは簡素化(モデル化)したが、脳みそ自体もモデル化してみたらどうなるだろうか。このモデルというのは2020年代から公衆の間でも活発に聞かれるようになった、ニューラルネットワーク(NN)というやつだ(NN自体は人工知能のためのアルゴリズムでもなんでもなく、ただのモデルである)。この文献の多くのページは、自由エネルギー原理をNNにどうやって適用するかというガイドに割かれているが、その結果解ったこともいくつか触れられている。


 例えば、あまりにもわからないことが多い状態でNNに答えを出させようとすると、「局所解」と呼ばれる本当に望ましい答えとは違う答えを出してしまう可能性があるそうである。これは、人間で言えば、「予備知識がない状態で取った行動が、実は自分に不利益になる行動だった」ぐらいの意味だ。


 他にも、鳥の歌を例にして自分の変化と環境の変化を同じものとして扱える事があるという話もしている。つまり、他の鳥が歌っている状況に慣れた鳥が、他の鳥の歌が聞こえなくなると違和感(この文献で言うサプライズ)が大きくなり、自分が歌うことで慣れた状況に戻そうとする。というシナリオだ。脳みそが、「歌がない状況」に慣れるように働くか、「脳みその慣れた状況」になるように働くかに関わらず、その働きは自由エネルギーの変化で説明でき、どちらが選ばれるかはその時の状況ではどちらが得(楽)かで決まるという話である。


 こうしてみると、自由エネルギー原理はなかなか、うまい具合に現実を説明しているように見える。


 ここまでの話は自分とそれ以外しかいなかったが、もう少し進んで、自分以外にも「自由エネルギーを最小化するもの」(エージェント)がいる場合もこの文献では考えられている。章立てで言えば5章の話で、このあたりの話は特に前提知識がなくても読めるはず(単語は特にわからなくてもざっくり問題ない)なので解説もここまでにするが、大雑把に言うと「他のエージェントの中身を分けて推測する能力が社会性には必要と思われるので、自由エネルギー原理を使ってなにか言えないか」という話だ。


 個人的に面白かったのは、ある雛形から、エージェントそれぞれに最適化させてやるだけで、「他のエージェントが推論しているのではないか」というレベルまでの推論ができるという点だ。自由エネルギー原理を各エージェントに適用させているので、書いてみれば納得の話ではあるのだが、最適化という「たかだか差分」でも他人の識別には十分というのがちょっと面白い。


 さらにその他人が自分をどう思っているかなどの深い推論になってくると、どうモデル化すれば良いかわかってはいないようだ。個人的には熱力学で言う非平衡な状態を扱うことになるのでもう少し仮定を入れてやる必要があると思えるのだが、どんな形が良いのかはいまいち解らない。とはいえ、活発な情報の相互やり取りや更新がない場合は、なかなか面白そうで使えそうなアイデアである。


 さて、推論の手法が仮に解ったとして、推論が可能になると何が起こるかを「推論」してみよう。推論を行うことで、相手が取ってきそうな行動を予測できるわけだから、それを自分の行動に対する推論に反映すれば、より自分に得な、つまり報酬が高くなるような行動することができるだろう。それを相手の推論に反映させ、その結果を……と延々とやっていくと思考が終わらないので途中でカットしてやる必要があるが、そうやって代わる代わるに推論をしていくことで、期待される報酬をステップごとに高くすることができる。ところで、相手の推論を推論するという行動は詩的に言えば「共感」だ。つまり、共感が報酬の追加分に化けたわけである。


 この自由エネルギー原理は人工知能研究の分野でちょくちょく目にする。数値として実装できるわけだし、性質も良いからツールとして使いやすいのだと思うが、詳しいところは専門ではないので言及は避けておこう。ただし、少しだけ付け加えるならばこうだ。「カスプにはご用心。そこにはシンギュラリティがある」

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