謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

文献情報


・Author

 高野 秀行

・ISO Code

 ISBN-13 978-4103400714


感想


 こいつはなっとぅくぅの話だ。


 言われてみれば、納豆の作り方なんてものは茹でた豆を良い感じの菌に食わせておくだけなのだから、世界の各地にあってもおかしくない食材である。おかしくないはずなのだが、多くの人は海外の地元納豆と言われると、どうしても違和感があるだろう。私もそうだったし、なんなら読み終わったあとでも納豆は和食という感覚は抜けきれていない。おそらく、実際に海外の土着納豆を食ってみれば完全に納得するのだろうが、そこまでの行動力は私には残念ながらなかった。


 さて、この本の著者は高野 秀行氏である。そう、あの(あの?)モケーレ・ムベンベの本を書いた高野 秀行氏である。正直に言うと、私は彼の著作は比較的好きだ。なので、いらないことまで話してしまいそうになるのだが、ここでは納豆にフォーカスしよう。


 この本の中で高野氏が白状しているのだが、元々この本は納豆を導線にしたアジアにおける少数民族のルポの予定だったらしい。そのため、シャンやミャオと言った民族の状況や背景がしばしば登場する。それはそれで資料として面白いのだが、この本の本題はやはり納豆である。氏に倣って私も白状すると、私は納豆が好きだ。おそらく、高野氏の本一冊とスーパーで売られている納豆一ヶ月宅配サービスのどちらかしか買えないならば、納豆を選ぶ。納豆は美味いし、栄養価も豊富だ。本来食用に不向きな大豆をうまい具合に食用にできているというところも素敵だ。そんな考えかはわからないが、「納豆」を食べる民族は割と世界各地にいるようである。


 この本はこんな風に始まる。

『辺境の旅ではときおり〝奇跡〟としか言いようのない出来事に遭遇する。二〇〇二年のあのときもそうだった。私は森清きよしというカメラマンと一緒に、ミャンマー(ビルマ)北部カチン州のジャングルを歩いていた。(中略)食事を見て、私と森は目を疑った。白いご飯に、生卵と納豆が添えられていたのだ。』

 もちろん、この奇跡と言うのは生卵と納豆がセットになっていることではない。東南アジアにおける納豆との奇跡的な出会いを指すのだが、この奇跡的な出会いというのは比較的ありふれた奇跡であったようで。高野氏はしばしばアジア圏で「地納豆」に出くわしていたようだ。それを話のタネにするには良いのだが、いざ人に話してみると見かけた以上のことを話せない。更には日本の納豆についてもよくよく考えれば、無知であることに氏は気がついた。ならば詳しい所を探りに行ってみよう、と言うのがこの随筆の開始地点である。


 高野氏が各国を周る仕事をしていると言う事もあるのだろうが、国々の道端で人に納豆について聞いて回るおじさんが誕生してしまったのだ。このおじさんのバイタリティは凄まじく、納豆があるらしいと言えば家族連れで(ときには他の取材と並行して)東南アジアの国を周り、そこで作り方を教えてもらえば、自分たちで作ってみたりもする。その結果、腐った豆を作ったり、しっかり納豆を完成させたりと一喜一憂。楽しそうなおじさんたちの様子に、こちらも楽しくなってくる。


 この納豆チャレンジの土台となった製法について、氏の観察によればアジアの地納豆はそこら辺の葉で茹でた豆を包んで作るようだ。そんないい加減なと思うかもしれないが、これで実際に納豆ができるのだからすごいものだ。納豆菌が枯草菌の一種だというのは聞いていたし、そこら辺の葉っぱにもついているとるも読んだ覚えはあった。が、雑に生育環境を整えてやるだけでここまで強靭な生命力を示すとは、まさしくアジア人もびっくりである。


 さて、腹が満たされると、料理の来歴が気になってくるというのも人情である(特に飢餓状態だった場合は)。高野氏もその例に漏れず(ここで註として「氏は飢餓状態になかった」と入れようと思ったのだが、読み返しても、言及されていなかった。ただし、納豆は飢餓状態にあろうがなかろうが、美味しく感じない人間以外には美味しいものである)納豆を楽しんだあとは、その背景について思いを馳せ始める。歴史に登場する納豆から、納豆文化の分布など様々に妄想が膨らんでいく。その様子は主観的で、学術的とは少し言いにくいし、本人もそれはそれとなく認めているのだが、見ていて小気味が良い。そして、納豆に思いを馳せる姿の面白げな様子に、こちらもやはり面白い気持ちになっていくのだ。


 高野氏の「納豆とは何者か」という問いに対する結論は未読の方のために明かさないでおくが、個人的にはなかなか「しっくり」くるものだった。氏の言葉を借りれば「手前納豆」と呼ぶべき、極めてローカルな納豆は、結局のところその環境に適した文化の一つである。ブドウは互いを見ながら熟するとは言ったもので、隣でなにか美味しそうにしていれば食べたくなるし、良さげに見えるならば挑戦もして見せる。文化というのはその程度ものですらあるし、それほどの困難さも伴ったのだろう。最も、この場合「熟れて」いるのは大豆だが。


 ところで、この本を読んで意外だったことがいくつかある。もちろん、アジア地納豆もそうなのだが、よく記憶に残ったのは日本古来の納豆の食べ方であった。高野氏が教えを乞うた石塚修氏によれば、幕末あたりまでは納豆の食べ方と言えば納豆汁であったそうである。しかも、あの千利休も茶会に納豆を出したというから驚きだ。私も幼い頃はよく食べていたが、気がつけば最後に食べたのはいつだったか、なんともおぼろげである。大阪の人は納豆を好まないと聞くし、この本でも言及されているのだが、かつては天下人にすら出されたにも関わらず忘れ去られた納豆汁。引きの弱さが裏目に出たのだろうか。


 しかし、この本によれば、糸を強く引く納豆というのは世界的にはむしろ少数派であるようである。食卓の隅に茶色を添える、この味わい深くも目立たない小品。しかし、細かく粒を見てみれば、やはり「味わい深い」ことを再認識できるだろう。

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