時を刻む湖――7万枚の地層に挑んだ科学者たち

文献情報


・Author

 中川 毅

・ISO Code

 ISBN-13 978-4000296427


感想


 君は今がイツか解るか?


 そう聞かれた人間は大抵、時計を探す。最近の時計(特に電子時計)はパワフルで、西暦の年月日まで教えてくれる時計も珍しくない。実際、人が一世代か、もう何世代か生きて死ぬまでの出来事に着目すれば、暦としての年月日が解れば十分だ。しかし、それで満足できない人種が何種類かいる。これはそんな人種の一つ、考古学者がいかにして、安心して使える千年単位の「時計」を手に入れたかを、時計の発見者自身が書き記した本だ。


 私達が普通使う時計は「秒」を基本単位にしている。10:23:54.056と言われれば、正午まで一時間半と少しだと解る。そういうリズムの中で活動しているから、この「秒」という単位が便利に使えるのだ。このようなリズムは可能な限り揃えておきたいから、人類は「標準時」を決めておくことにした。標準時は「精密」で「普遍的」でなくてはいけないから、科学の力を総動員して、2024年現在では秒が「原子の震え」で定義されている。


 一方で、考古学のような大きい時間スケールを扱う場合は秒は少し不便だ。考古学の時間スケールでは、分野にもよるが例えば、「平安京と平城京のどちらが先にできたか」のように「年」単位の目盛りが使えると嬉しい。平安京のように文献が残っていればそこを当たればそれで解決するのだが、「二つの縄文土器、どっちが先に作られたか」のように土の下から掘り起こして来るような事柄になってくると、文献はまず見つからないために他の手段が必要になる。幸い、この手法は1950年ごろにWillard Libbyによって発明されており、世の中の炭素14と呼ばれる物質がある期間の内一定の割合で窒素14と呼ばれる物質に変化することを利用して、炭素を含む物質がいつ頃に作られたかを決定できる。炭素14とその他の種類の炭素(炭素13、炭素12)を混ぜるのは、生命の活動や大気の対流がほとんどなので、それがなくなった(土に埋まった)後は炭素14が減っていくばかりというわけだ。この方法を炭素年代測定法と呼び、創作においても過去の遺物が出土するとちらっと顔を出したりする。この方法があんまりにも便利なので、Libby氏はノーベル化学賞をもらっている(1960)。


 しかし、手放しで喜ぶには一つの問題があった。それは、基準点が解らないのである。「秒」のスケールについては隣の人に時計を見せてやれば良いし、なんならグリニッジが保証をしてくれる。しかし、「年」のスケールの基準を決めるためにはある時点で炭素14がどの程度あったかを知っておかなければ、炭素14が生物や大気によって交換されなくなってからどの程度経ったかを計算できない。これで炭素14の割合が地球が生まれてから常に一定ならば言うことはないのだが、どうも年代によって割合が違うということが1960年には解ってしまった。そこで、力技と言うと言い過ぎだが、ある時期の炭素14の濃度を一覧にしてそれをもとに決めてしまうことにした。これが考古学の「標準時」である。


 さて、前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。この考古学の標準時はどうやって決まっているのか。実は、日本の福井県にある「水月湖」という湖の湖底に沈んだ泥が標準時を決めているのである。


 詳しい話はぜひこの本を読んでもらいたいのだが、私の胸を強く打ったのは世界の考古学者が待ち望んだ「カレンダー」を見つけたのがクレバーな手法でも唐突なブレイクスルーでもなく、ライバルとの接戦を制した愚直な師の背中と、その技をより賢く、より正確に追った中川氏達の信念だったことだ。


 努力で夢を叶えたというあさはかな話ではなく、過去の生命という小人の残した足跡を、鎬の削り合いで鍛え上げられた巨人の肩からとうとう拾い上げたからである。


 彼らの手法は、原理的には湖の底の泥の縞模様を数えるだけだ。言葉にすると簡単だが、これを実際に行う困難はこの本にも書かれている。


 これ以上は難しいからと投げ出して、ある程度の指標で満足する道もあっただろう。しかし、彼らはこれ以上は自分たちにできないというところまで、誠実に突き詰めた。そのために必要な道具も、手法も、全てを使った。そして、天運もまた味方をし、理想的な環境の湖を彼らに与えた。まさしく人事を尽くした末の天命である。


 そうして決定された考古学の「カレンダー」は一万年辺り十年単位での年代の識別を可能にした。こう書くと子供が子供をなせるようになるほどの時間がどれほど正確なのかと思われるかもしれないが、わずか50年ほど前までは、ティグリス川と黄河のどちらへと先に人が集まったかをかろうじて識別できる程度の目盛りしかなかったと言えば、凄まじさを感じてもらえるかもしれない。


 こうして精確になった「カレンダー」を「標準時」として用いることで、歴史や過去がより鮮明にわかるようになったのである。


 科学の営みとは基本的にはこういったものだろう。先人から続いてきた探求が実を結び、そしてその業績がまた未来の先人の探求の源になっていく。その探求ひとつひとつも、洗濯機を回している間にちょっと本でも読んでみようというような生易しいものではなく、それこそ年単位で心血を注ぐような仕事だ。


 そして、面白いことに、他の科学の営みと同じように、この仕事は必要な人間にはどうしようもなく必要であるのに、一般の人間には大して必要ないのである。


 実際、ナウマンゾウがいつ絶滅しようが私達は今のところ生きていける。しかし、生きていくために必要だから知りたいのではなく、知らないというただそれだけを理由として知るために生きることができるのだ。


 ところで、この本に書かれた仕事の、その後の展開についても少し触れておこう。この「カレンダー」はIntCal13と呼ばれているのだが、2020年にアップデートされIntCal20が最新版となっている。このアップデートは本でも少し触れられていた鍾乳石のデータを加味したものになっているのだが、IntCal13の水月湖データもそのまま使われており、考古学の「標準時」は依然として水月湖が教えてくれている。


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