第四話 (後編)

阿部あべさん。阿部博喜ひろきさん。一番へどうぞ」


 神主かんぬしが渡した薄い緑色の封筒。

ここがあの狐憑きに関連する神社と交流を持っているのは確かなようで、封筒を渡した瞬間に受付の顔色が変わったのが、美音子みねこにはわかった。


 地図に書いてあった馬場神経・心療しんりょうクリニックは、ただの町医者。

大きめの一軒家いっけんやがクリニックになっていた。


 看護師に呼ばれ、博喜を連れて一番に入ると、そこには白衣を着た、四十歳から五十歳ぐらいだろうか、男の医師が見覚えのあるA4の紙を呼んでいた。


「阿部博喜くん、とそのお母さんですね」


入ってきたのがわかると、こちらに顔を向けて微笑んだ。

細身の眼鏡めがねの向こうにある瞳は柔らかく、雰囲気はあの神社の神主とどこか似通ったところがある。


「院長の馬場ばば洋一よういちです」


勧められた椅子に座ると、馬場はそう名乗った。

そして再び先ほどの紙を手に取った。


「さて…今回は、土山つちやま稲荷神社からの紹介ですね……」

「神主さんに見てもらったんですが、手に負えないからこちらに、と……」

「そのようですね」


一通り目を通したのか、馬場はその紙を右側の机に置いた。

そして、美音子と博喜に向き合う。


「博喜君、発作が起きるとき、どんな感じなのか、先生に教えてくれるかな」

「……」


博喜は首をかしげた。


「先生、この子、発作中の記憶はないんです」

「うーん。発作が起きる前とか、変な感じはないかな」

「あるよ」


博喜は急に思い出したようにそう声を上げた。


「体が勝手に動くんだ。変なものは見えないけど、体が勝手に動く」

「そうか。ちなみにお母さん」

「なんでしょうか」

「最後に起きたのはいつですか?」

「三日前から始まって、昨日も短い間ですけど……」

「なるほど」


そう言うと突然馬場は両手を博喜の両肩にぽんっと置いた。


「博喜君、目をつぶって」


博喜が目をつぶると同時に、馬場も目をつぶった。


 美音子はじっとその様子を見ていた。

何が、起きているのだろうか。


「うん、もういいよ」


目を開けた馬場は博喜にそう言って微笑んだ。

次に美音子に視線を移す。


「今から少し検査をさせていただけますか?三十分ぐらいかかる検査なのですが」

「え、ええ」

「その検査を踏まえて、後でお話させていただきます」

「博喜君、こっちに来ようね」


横から看護師が現れて、博喜の手をつかんだ。


「お母さんは、外でお待ちください」


カルテを開きながら、馬場がそう言った。

博喜は、奥の部屋へと連れて行かれていく。


「よろしくお願いします」


美音子は反対方向、入ったドアに手をかけた。



 * * *



およそ三十分。

病院の中には待つ人が多くいた。

多くはお年寄りで、手が震えている人や、麻痺まひのある人、ともすれば、ずっと独り言を言っている人。

様々だ。


 見た目はただの町医者だが、手紙を受け取ることとあの行為を考えると、やはり狐憑きも見ているのだろう。

もしかしたら、この中にも元狐憑きがいるのかもしれない。


 そんな思いで、周りを見ていると、名前を再度呼ばれる。


「さてと」


入ってきた診察室に博喜はいない。

馬場は柔和な微笑みで、美音子に椅子を勧めた。


「博喜君は今頭を洗ってます。その前に検査の結果をお話ししますね」

「は、はぁ」


頭を洗ってるとは、どういうことだろうか。

そう言われると、看護師さんの声と水の音が壁の向こうで聞こえる気がする。


「今させていただいたのは、脳波のうはといって、脳の電気信号を見る検査です」


取り出してきたのは、厚い紙の束。

そこには数十本の波が描かれてあって、紙全てにそれが続いているようだった。


 馬場はそれをめくりながら、鉛筆で丸をつけた。


「ここです」


美音子はその手元をのぞき込んだ。

丸をつけているところに確かに一つ大きな波があった。


「通常はこういう鋭い波は見られないものなんです。博喜君の場合、この波が右の脳で見られていますね。神主の話から『右を見ている』と聞いていますが……」

「え、ええ……」

「右の脳が過度に刺激されると、右を見るようになるんです。ここにそれが現れてるんです」


遠くでドライヤーの音が聞こえる。

美音子は混乱しそうになる頭を必死に抑えた。


「つ、つまり……」

「博喜君は狐に憑かれてるわけじゃないですね」

「……」


言葉がでないとはこういうことだ。

美音子は予想外の答えに言葉を失っていた。


「これは『てんかん』と言いましてね。よく交通事故で取り上げられていますが。博喜君の場合、薬を飲めば直ると思います」

「それじゃぁ狐は……」

「狐は博喜君の中にはいませんね」


馬場はそう言いきった。

その時、医師の背後から、看護師に連れられた博喜が現れ、美音子の隣に座った。


「神主も狐が話をしてくれない、と私に相談してきています。私が見る限り、狐はいません。それよりも現代医学の分野の可能性の方が高いです」

「それでは、この子は病気だと?」

「そうですね。なので、お薬を出しておきましょう。」


馬場はそう言って、広げてあるカルテに何かを殴り書きした。

そして、別の紙を取り出す。


「それから、一応『てんかん』の原因を調べるのに、いくつか検査もしたいのですが、大きい病院でする検査もいくつかあるので、紹介状を書いておきます」

「は、はい……」


美音子は博喜を見た。

博喜はじっと馬場を見ながら、足をぶらぶらと動かしていた。

狐が、いない。

ただ、病気だという。


「この子は治るのですか……?」


馬場は椅子を動かして、美音子に向き直った。


「それは薬を始めて見てからですね。すぐに治るものではありません。でも、お子さんの場合は成長すると治るものもあるので、少し様子を見ていきましょう」

「はい」

「それから、もしこの先発作があったら、是非ご家庭のカメラや携帯の動画で撮っておいてください。私たち医者はそれが助けになったりするものですから」

「は、はぁ……」

「わからないことはありますか?」


美音子は少し考えて首を振った。

わからないことだらけだが、今はそれを問いただすよりも、受け止めることの方が重要な気がした。


「もしわからないことがあれば、いつでも聞いてくださいね」


馬場は微笑み、手元のカルテに流れるような筆跡でアルファベットを書き連ねた。


「それからお住まいはどこでしょうか。もしよければ近くの医師に紹介して、そちらで通院することもできますよ」

「あ、大丈夫です……」


電車でしばらくかかるが、それよりも、この狐憑きとゆかりのあるところの方が良いとそのときは思った。

それにこの医師の雰囲気は、どこか、安心できるのだ。


「ではしばらくお待ちくださいね」

「はい。ありがとうございました」

「せんせーありがとー!」


美音子は博喜を連れ、診察室を出た。



 * * *



晩ご飯を食べ終わる頃、電話が鳴った。


「はい。土山稲荷神社です」

「元気にやってるかー圭亮けいすけ君」


柔らかな声は、馬場だ。


「先生。お久しぶりです」

「おう。あの少年は無事帰しておいたよ」

「やっぱり、あの『てんかん』ってやつですか?」

「ああ」


受話器の向こうでぺらぺらとめくる音が聞こえた。

きっとあの脳波の紙に違いない、と圭亮は思った。


「それよりも!この間の小林っていうおじさんはどうなった?」

「ああ。話をつけましたよ。どうやら故郷に帰りたかったようで」

「やっぱり悪いものじゃなかったんだな。潜り込むまでわからなかった。検査でも何もなかったし」

「でしょうね。ご本人も無職なわけでもないので、ほこらへのおまつりを勧めておきました」

「まぁそれがいいだろうなぁ」


そう言って一度、馬場は口を閉ざした。

きっと己がこの神社で働いていたときのことを思い出しているのだろう。

圭亮はなんとなくそう思った。多分あってる。


「……ケンヨーは元気か?」

「ええ。元気にしてますよ」

「そうか、ならよかった。神社も変わりないか」

「変わりないです」

「うん。いいことだな」


ひとしきり神社の話をして、少し安心したのか、馬場の声色が柔らかくなった。


「また何かあれば紹介させていただきます」

「お互いにな。まぁ狐憑きなんて早々あるものじゃないから、あれだが。また時間があったら、会いに行くよ」

「そう言ってお忙しいお医者様は口だけですよね。まぁ時々ゆりかさんも来てくれてますし」

「そうか。じゃぁいいか」

「とかいって、最初から来る気がないくせに」


ははは、と馬場は笑ってごまかした。

でも、圭亮は知っている。

馬場は本当に忙しいのだ、多分。

医者の仕事が普通にできるようになって忙しくしたいのだろう。


「馬場先生もお体に気をつけてくださいね」

「ああ。お前もな。ケンヨーによろしく」

「ええ。伝えておきます」


おやすみなさい、と挨拶をして、圭亮は受話器を置いた。

後ろに気配を感じる。


「洋一か?」


ケンヨーの声が聞こえた。


「ああ。博喜君のこと。大丈夫だったらしい」

「だろうな」


夕食の皿を片付けながら思う。

自分もただの病気であったら、どうなっていたのだろうか、と。

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