仕事終わりの過ごし方〜ランドールの場合〜
「黒い仮面」の拠点から出たランドールは、まっすぐ家へ向かう。
教師のガゼルくらいしか友人がいないランドールは、誰かの誘いにほとんど乗らない。
唯一、寄り道をするとすれば……妻からお使いを頼まれた時だけ。
歩き続ける事約10分。ようやく愛しの我が家へ着いた。
最近リフォームしたばかりの、白い外壁の小さな家。
庭には小さな女の子向けの三輪車が置かれている。
帰宅したランドールは「ただいま」と声を掛け、そのままリビングへ入った。
「おかえりなさい」
キッチンで何かを煮込みながら、ランドールの妻であるエルアが笑顔を見せる。
灰色のショートヘアが揺らぎ、ウサギのような赤い瞳が優しい光を宿す。
「パパおかえりー」
バタバタとランドールに駆け寄り、だっこをせがんだのは、ランドールの愛娘エミール。
ランドール譲りの純白の髪にエルア譲りの赤くまあるい目をもつ少女は、ヒマワリのように眩しい存在だ。
「ただいまエミール」
ランドールはエミールを抱き上げた。
「えへへ、あのねあのね、きょうね、あのね、シドくんと、がっこーであそんだの!」
「そっか。楽しかったね」
「うん!」
ランドールの家には幸せがあちこちに転がっている。
エミールが描いた家族の絵。
エルアが趣味で始めた刺繍。
煮込み料理の匂い。
……あぁ、今日はランドールの好物である牛肉のワイン煮だ(散々ソルダードに殺された牛の内臓を見てきたが、ランドールはそんな事を気にするような男ではない)。
おもちゃ箱に頭から突っ込んだウサギのぬいぐるみ。
これらを幸福と呼ばず何と呼ぶ。
だが、幸福を抱く父の背には屍が
自分の家族を守る為に、他の家庭を壊し尽くした。
家族を人間から守る為。
この大義名分の為に、ランドールは何とか正気を保てている。
「ご飯の準備できてるわよ」
牛肉の煮込みを皿によそいながら、エルアはランドールに「手伝って」と促す。
「分かった。エミール、降ろすよ」
「はーい」
***
夕食後の事。
「ヒヒィーン!」
ランドールの鳴き声がリビングに響く。
彼は四つん這いになり、背に娘を乗せていた。
その姿は白馬のよう。
「パカラッパカラッパカラッパカラッ……」
馬の蹄の音を口で再現しながら、ランドールは床を這いずり回る。
「きゃっ、きゃっ! パパ、はやーい!」
エミールは古ぼけたウサギのぬいぐるみ「ミョンミョン」を片手にし、無邪気にはしゃぐ。
「はしれはしれー!」
「ヒヒーン!!」
ランドールはしばらく走らされ続けた。
流石に疲れが見え始める。
それでも尚、娘は「はしれー」と残酷に命ずるのだ。
やがてランドールはぐったりとリビングの床に倒れ込む。
「パパ、だいじょーぶ?」
と心配そうな表情を浮かべているが、未だに父親の背から降りたくないらしい。
「はは、は……大丈夫、だいじょうぶ」
脱衣所の扉が開かれ、風呂上がりのエルアが現れた。
「お風呂上がったわよ……って、どうしたのランドール」
頬を紅潮させたエルアは、心配そうにランドールの顔を覗き込む。
「お馬さんごっこしててね。はしゃぎ過ぎちゃった」
「あらら……とりあえず水でも飲んでからお風呂入ってきたら?」
「うん、そうする」
ランドールは引き攣った笑みを浮かべながら
***
星影が瞬く頃。
「そして、こぐまのプリンは、友だちのうさぎのスプーンと一緒に、ハチミツを探しにーー」
ランドールはエミールをちらりと見た。
ベッドの上で、うさぎのミョンミョンと共に夢の世界へと旅立ったようだ。
「……おやすみ、エミール」
絵本を閉じたランドールは娘の頬にキスを落とし、部屋を後にする。
ランドールは自分と妻の寝室に戻った。
エルアはベッドの上に腰掛けている。
ランドールを待っていたようだ。
「いつもありがとう。仕事の事もだけれど、エミールの世話もしてくれて助かっているわ」
「いいんだよ」
ランドールはエルアの隣に腰掛けた。
「僕らやエミールの将来の事を考えるとさ、少しでも多く働かないとね」
なんと良い夫なのだろう。
なんと良い父なのだろう。
(こんなに幸せで良いのかな……)
ランドールに抱き寄せられたエルアの問いが、彼の体温で氷のように溶けた。
「それにさ、エミールはあっという間に大きくなって僕の事なんか忘れちゃうだろうからさ。少しでも覚えてて貰えるように、たくさん遊んであげなくちゃね」
「そんな事ないわ。エミールはあなたの事を忘れなんかしない」
「どうだろうね? 実際、エルアはお義父さんよりお義母さんに頼る事が多いでしょ? 母親に比べたら、父親なんて無に等しいんだよ」
そこまでは言い過ぎだろうと思いながら、エルアはランドールだけに話しておきたかった事を口にする。
「……あのね、今日の昼にエミールから妹が欲しいって言われたんだけれど」
一瞬だけ、ランドールの体が強張った気がした。
ランドールは両親を亡くしている。
父親は、自分が生まれる前に悪魔狩りに捉えられた。
母親は、自分を産んだ時に亡くなった。
もし、エルアが自分の母と同じ末路を辿ったらどうしよう。
ランドールにとって最も恐ろしいのは、死ぬ事ではない。
大切な家族を失う事だ
エミールが生まれた時は母子共に健康だった。
だが、次はどうなるのだろうーー
「……もう! 心配しないでランドール!」
エルアは破顔し彼を抱きしめ返す。
「私ってあなたが思っているより頑丈なのよ?」
と、ランドールの唇を奪う。
「大丈夫。あなたやエミールを置いてどっかに行ったりなんてしないわ」
「……本当?」
と不安げに聞き返すランドールが子供のように見えたエルアは、彼の頭をそっと撫でた。
「本当よ」
ランドールは、彼女の美しい赤の瞳に吸い込まれるような感覚に陥る。
出会った時から今までで、彼女は大きな変化を遂げた。
少女から女性へ。
女性から母へ。
服の趣味も、食べ物の好みも、好きな音楽も、読んでいる本も、何もかも変わった。
だが、ひとつだけ変わらない事がある。
彼女はこの世で最も美しい人だ。
ランドールはエルアを少々乱暴にベッドへ押し倒した。
「……ねぇ。むしろ私は、あなたの方が心配なの。突然いなくなったりなんかしないでね?」
エルアはランドールの背に手を回す。
「ずっとこのまま、私達のそばに居てちょうだいね」
ランドールは微笑を湛えた。
「分かってるよ。君達を置いて死ぬ訳ないよ」
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