天使編

とある世界の少女の祈り

 神よ、どうかお助けください……


 飽きもせず、懲りもせず。


 少女はロザリオを両手で握り締める。


 全てが焼かれた。


 青々とした平原。


 自慢のトウモロコシ畑。


 故郷の風景。


 彼の優しい眼差し。


 美しい思い出。


 全てが焼き尽くされた。


 残されたのは、澱んだ空気と汚泥のみ。


「神は死んだんだ」


 虚な瞳を虚空に向ける父。あの人の声を聞く事はもうできない。


 の手によって村の守護樹にはりつけにされたからだ。


 死肉を喰い切ったのか、今日はカラスの声が聞こえない。


 少女は痩せた両目に涙を湛えながら祈る。


 神よ、どうかお助けください……


 神様……かみさま……


「……あれ?」


 神様の名前、何だっけ。


 あの方の名を思い出す為、記憶の引き出しを端から開く。


 いや、あの方の御名みなだけではない。姿も、仕える天使も、聖書の一節でさえ思い出せないのだ。


 その引き出しの中身だけ全て盗まれたかのように……


 頭痛を覚え額に手を当てる。


 ロザリオが手から落ちて床を転がり、日の届かぬ所へ消えた。


 突然。


 朽ちた木が割れる乾いた音が少女の背を襲った。


 あぁ、ついに見つかってしまったのだ!


 少女は「ヒイィッ!!」と悲鳴を上げ部屋の中へ逃げようとする。


 だが、奴にワンピースの襟を掴まれ持ち上げられた。


 首吊り状態になった少女は手を襟元に当て、呻きながら足を遮二無二しゃにむに動かす。


 獲物を捕らえた者の姿は、明らかに人では無い。


 濃い緑色の毛が身体中に生えている。屈強な四肢に生えているのは黒く鋭い爪。背にはコウモリを思わせる翼。真っ黒な目から知性が感じられず、ただ邪悪な闇を湛えている。


 唯一、二足歩行である事だけが人と共通していた。


 奴はこの世界で「悪魔」と呼ばれる存在だ。神に背き人間を堕落させる事のみが奴らの悦び。


 少女は爪で衣服を裂かれ冷たい床に押し倒される。


 喰われるのだろうか。


 辱めを受けるのだろうか。


 どちらにしろ彼女を待っているのは暗澹たる運命。


 少女は全てを諦めた。


 自分を守る術を持たぬからか。


 愛する者の死を何度も目にしたからか。


 死人のように、虚空を呆然と眺める。


 窓から差し込む一節の日の光に照らされ、埃が空を待っているのが見えた。


 キラキラと輝いて……幼い頃に父と見た天の川のよう。


 二度と戻らぬあの日々に身を委ねていた彼女の耳に届いたのは……足音だ。


 悪魔のものではない。


 湿った地面を蹴る軽捷けいしょうな音。


 次に聞こえたのは「ヤッ!」という凛とした若い女の声だ。


 先程破壊された出入り口から現れた影が悪魔を蹴り飛ばした。奴の体が、部屋の隅に置いておいた空の樽を破壊する。


 悪魔の前に立ちはだかったのは、人間のようだ。


 青が混じった癖のある黒髪を後ろで1本に束ねている。どこか陰のある黒い瞳。左目を眼帯で覆っており、黒い軍服で身を包んでいる。


 女は手に持っていた麻袋を床に落とし、羽織っていたジャケットを少女の肩に掛けた。


「ここは危ない。下がっているんだ」


 堅苦しい口調だが、声色からは優しさが感じられる。


 徐に立ち上がろうとする悪魔の頭角を掴み、家の外まで引き摺り出す。恐ろしい力だ。


 地面に座り込んだ悪魔の首を、腰に提げていた剣で刎ねた。


 頭を失った胴が電撃を受けたかのように震え、首から真っ黒な血を噴水のように吹き出し倒れた。


 刀身の血を振り払ってから鞘に収めると、少女の家の中へ戻る。


 ジャケットを羽織り、部屋の隅で顔を膝に埋める少女の姿を目の当たりにした女。


「すまなかった」


 口から真っ先に出たのは謝罪の言葉だった。


 少女はやつれた顔をあげ、乾燥した唇をゆっくり開く。


「なぜ、謝るんですか……? お姉さんは、私の事を助けてくれたんです」


「もっと早く助けられれば良かった。そうすれば、君の事も、その……」


 『君の家族も守れるはずだったんだ』という言葉が出そうになり口を噤む。


 辛い記憶を思い出させない為に、家族などとは言ってはいけない。


 なんと続ければ良いのか女が思案する中、少女が「お姉さん」と女に呼びかけた。


「ありがとう……ございました」


 女は少女の顔を見つめる。


「お姉さんがいなかったら、私は……私は、悪魔に殺されていました……本当に、ありがとうございました……お姉さん。あなたのお名前は?」


「……ゼトワールという」


 ゼトワールと名乗った軍服の女は、しゃがんで少女と目線を合わせる。


「この袋の中に水と食料が入っている。ここでじっとしているんだ」


 ゼトワールは少女に麻袋と、天使の羽を模した銀のロザリオを手渡した。


「これを持っていて。もし悪魔が来たとしても、このロザリオが守ってくれる」


 少女が小さく頷いたのを見たゼトワールは、微笑んで彼女の頭を撫でた。


「さて、私はそろそろ行かなくてはならない。……大丈夫だ。私達が悪魔を退治するからな」


 立ち上がり踵を返したゼトワールの背を、少女はずっと目で追った。


 あの人は……天使様だ。


 まごう事なき天使様。


 「……あ」


 思い出した。


 私の神様の名前。


 あの方の名は……

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