渋谷区に通い続けた友人へ
さっき、目を逸らしたのは、君だったかもしれない。
俺は塾の自習室へ行くところだった。梅雨の空気が肌にはり付く。中3の夏を思い出した。
二度目の受験の季節が、そろそろやってくる。
君は、だるく伸びた黒髪で、灰色のスウェットを着て、ビルの中に消えていった。目は曇天を見るように虚だった。僕が「裕也?」と声をかけると、僅かに肩を震わせて、足早に離れていった。
ビルには、メンタルクリニックの看板がかかっていた。
それで、俺は察しがついた。まさか彼が、とは思わなかった。裕也が都立の進学校に合格した時から、なんとなくこうなる気がしていた。
始まりは中2の夏だった。
通話を繋いでAPEXをやっていると、裕也が突然「学校見学行かね?」と言い出した。
冗談だろうと軽くあしらうと、「いや、俺の先輩に都立のK高校通ってる先輩がいてさ。めっちゃいい学校だから来いって。文化祭あるし」と真面目な返答が来た。
「なんか急に意識高い系になった?」
「いや、マジなんだって。めっちゃ良さそうだから」
「偏差値どんくらい?」
「70とか」
「は? 行けるわけねえじゃん」
あ、死んだ。お前下手くそ。は?
「いや、その先輩も最初は全然成績良くなかったんだって。挑戦してみるのもありじゃないの?」
「で、近いの? その高校」
「渋谷」
「は?」
都立K高校は、渋谷区の端っこにあった。
高級カフェとオフィスビルと競技場と、とにかく見慣れないものばかり詰め込まれた街だった。
駅から5分、大手銀行のビルが見えるところに、正門があった。都会だからなのか、敷地は異様に狭かった。
結論から言うと、文化祭も行ったし学校説明会も何度となく行ったが、あれほどいい学校はなかった。
校長の話がダルくない。それだけで勉強のできない単細胞の2人の心はがしっと掴まれた。
メイクや髪染めは当たり前で、案内の先輩が可愛かったとかで二人、盛り上がっていた。
男子の女子も、たった1、2年の差とは思えないほど大人びていた。青春を絵に描いたような、清々しく垢抜けた空気が全体に通っていた。
カタい「進学校」のイメージはガラリと崩れた。
俺と裕也は、塾で上のクラスを目指して勉強した。2人とも、スイッチが入れば面白いほど成績が上がった。ゲーム感覚で勉強するのも悪くないなと思い始めた。
一番キツかったのが、中3の夏期講習だ。
俺たちはハードなコースを選択して、週5日、一日8時間はやっていて、ひどい時は12時間ぶっ通しの授業があった。
狭い教室で、視界のほとんどがホワイトボードだった。ひょうのように降ってくる知識と受験テクを必死に吸収した。
帰ってからも復習、やらないと次の日は訳がわからなかった。
俺は降りた。模試が振るわなかったからだ。クラスを二つ下げて、地元の程々の都立に志望を変えた。
裕也は降りなかった。サッカー部で培った体力なのか、その執着は凄まじかった。部活の遠征中でも泥臭く単語帳に齧り付いたらしい。
「お前、降りんのかよ。挑戦してみないと分かんないじゃん。模試E判定から受かるやつもいるんだからさ。せめて冬までおんなじクラスでやりたかったわ」
心底失望、というより、また戻ってきてくれることを期待するような口ぶりだったが、俺はもう一度やる気はなかった。
都会と進学校は、自分の肌に合わないだろう、とすでに薄々感じていた。
そのうち、中学の教室に漂う受験特有の雰囲気にも、ついて行けなくなった。
「受験は団体戦」というが、まさにその通りで、受験期が近づくほど教室の空気はガラリと変わる。
問題児はしれっと提出物を出すし、居眠りしていたやつが内職で塾の宿題をやり出す。志望校を訪ねあう会話にはプライドと自虐が激しく顔を覗かせる。
牧歌的だった田舎の中学の雰囲気は、一気に社会の縮図になった。
裕也はK高校に、C判定からギリギリ合格。
俺は家から20分の都立に軟着陸した。
高1五月のGWに、俺と裕也はK高校周辺に遊びに行った。
「昨日染めたんだ」
真っ黒だった裕也の頭に、赤いハイライトがかかっていた。
「似合わねえな」
「まあ、昨日染めたばっかだしな」
スタバに入った。俺が安いラテを頼んだあとに、裕也は平然と期間限定のフラペチーノの名を言って、慣れた様子で会計した。
二人並んで座る。
大通りに面したガラス張りの席だ。行きかう車の音に頭がかき乱された。
裕也は、軽音部に入ったらしい。
彼の近況を尋ねたが、話は正直おもしろくなかった。
高校生活、生徒のレベルが高い、青春、部活も勉強も全力、大学受験、難関国公立、早慶、東大が何人。
学校説明会で聞いたことの繰り返しか?
もう大学受験は始まっているのだと言った。高校生活楽しんだやつが大学受験に勝つのだと言った。
「お前は学校楽しいか?」
「まあまあだよ」
「じゃあ、大学で逆転しろよ。俺と一緒に東大目指そうぜ」
たぶん彼は、半分本気だった。
彼の口ぶりに、青いな、と思ったことを覚えている。
俺が地獄の夏期講習で折られた夢とプライドと自意識を、彼はまだ持っていた。
まだ青くて刺々しい自尊心を、K高校は上手くくすぐったのだろう。
さっき駅前のビルに消えて行った、灰色のスウェット姿を思い出す。
彼はきっと、鋭く育った自分の青い棘にぐさりと刺されたのだと思う。
高校に通えなくなってから、傷口の出血に気づいたのかもしれない。
君はもう、理解しただろうか。
逆転合格が似合うやつと、そうでないやつがいること。
華やかな都会のオフィスビルが似合うやつと、田舎で友達とゲームしているのが似合うやつがいることを。
Fin.
※この作品はフィクションです。実在の人物・地域・学校・店舗とは関係がありません。
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