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「お母さん、あかりって、誰?」

 相真が尋ねると、母ははっと目を見開いて、それから苦い顔をした。

「言いたくなかったら、べつにいいよ」

 相真は夕飯の手伝いで玉ねぎを切っていた。目に沁みて泣きそうだった。

「あかりって名前、お父さんが言ってたの?」

 母が訊くと、相真は頷いた。

「あの、ボロい人形の名前だって」

 母は一瞬炒め物の手を止めたけど、すぐに再開した。鍋がぐつぐついっていた。味噌汁が噴き上がったのを、母はわかっていなかった。吹きこぼれてから、慌てて火を止めて、タオルを取りに行った。

「ごめんね、お母さん、ちょっとぼうっとしちゃった」

 まだ、母の目はどこか覚束なくて、危なそうだった。だから相真は母にソファでしばらく休むように言って、夕飯の支度を代わりにすることにした。母はなぜか、何度も何度も泣きながらありがとうと言っていて、こっちが泣きそうだった。いや、玉ねぎのせいかもしれない。


 野菜炒めと味噌汁が出来上がる。

 二人きりの食卓にも慣れてしまった。今頃お父さんはどうしているだろう、と考える。あの殺伐とした部屋で、唾を吐きながら人形と訳のわからない会話を続けているのだろうか。母さんが握ってくれた差し入れのおにぎりは食べただろうか。そういう心配をすると食事が喉につかえてきたので、考えるのをやめた。


「あのね、あかりって、お父さんの初恋の人の名前」

 食事を終えた時、諦めたように、母がそう言った。

「高校時代に、二年間、付き合ってたんだって。あかりちゃんは、もう別の人と結婚してる。私、あかりちゃんと会ったことあるよ。小柄で、細くて、すごく綺麗な子。麦わら帽子とお花畑が似合うお嬢様」

 相真はなぜか、母の身長がみるみる縮んで、少女に戻ってしまったかのような錯覚をした。

「でも、あかりちゃんよりお母さんがいいと思ったから、お父さんはお母さんと結婚したんでしょ?」

 相真が無邪気に訊くと、母は「そういう簡単な問題じゃないの」と首を振った。母は、縮んで少女になったのではなかった。もうおばあちゃんに近い年齢になったのだ。人間の寿命が八十年、四十歳は、ちょうど真ん中。

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