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(あの、話、聴いてもらえたりします?)
廃ビルの一室は、何も見えないほど暗く、夏でも寒い。心まで凝り固まりそうな場所だった。
「ああ、お前は、ごめん、誰だっけ」
(どうして忘れたんですか、あかり、ですよ、名付けてくれたじゃありませんか。)
「ああごめん、そうだったな」
高津は、パイプ椅子の上でのそりと体を起こした。絡まってくる髪と、何日も風呂に入っていない自分の体臭に、気分が悪くなる。
そろそろ、風呂に入らなきゃ、ここには風呂はないんだっけ。別の場所、どこかに帰らなきゃ行けない気がする。どこだったか。
「お前は、あの、声だけ聞こえるけど、幽霊、みたいなもんか?」
(暗闇で見えないだけですよ。ほら、昼間、ひまわりの咲く丘で会ったじゃありませんか。花柄のワンピースを着た少女です。今度、麦わら帽子も買ってほしいなあ。)
記憶の隅っこに、今日の昼間見た青空がちらついた。
「ああ、そうだったな、今、夏だったな。なんで俺、こんなに忘れっぽいんだろう」
背中が張ったようにだるい。
(いいじゃないですか。思い出せたんだから。私が覚えていてあげますから。)
少し泣きそうになりながら、鼻水をかんだ。
「ありがとう、きみ、ええと、名前は、なんていうの?」
しばらく、沈黙が続く。少女の声が再び聞こえる。
(私、自分の名前、知らないんです。ずっとひとりだったんです。家族もいて、親友もいて、幸せでした。今も幸せです。ただ、ひとりなんです。身よりも友達もいなくて。結婚もしてないんです。それより、せっかくだから、私を名づけくださいよ。あなたからもらった名前、大事にしますから)
「そうだなあ」
高津はパイプ椅子に深く腰掛けて、暗い天井を仰ぎ、少女の伸びやかな声を思い浮かべた。
「あかり、でどうだ」
(いい名前ですね)
春の陽を浴びたせせらぎのように、少女の笑い声は清く、暖かかった。
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