【愛さんと彼女の愛する魔】

「ぶっ」


 大学の医学部附属病院の個室に入院する倉敷博巳は、大きく吐血した。

 人工呼吸器のマスクの中が赤黒く染まる。


「吐血っ? なんで倉敷くんがっ?」

「まずい……っ」


 ぼたんの額を汗が伝う。


「逢沢瞳の『病気』は白血病だったね? 倉敷博巳に伝播したんだ」

「倉敷くんはどうなるんです? ……倉敷くん! 倉敷くんっ!」


 岩崎愛は半泣きで眠る恋人を揺さぶった。


「どうなさいました?」


 ぱたぱたと看護婦がやってきた。

 咄嗟に岩崎愛がナースコールを押していたのだ。


「あらあら血を吐いちゃってるじゃない! 大変大変! ちょっと待っててくださいね」


 青くなった看護婦が、ドクターを呼びに走る。

 すぐに焦りの表情を浮かべたドクターがやってきた。


「倉敷さん? わかりますか、倉敷さん」


 昏睡状態ではあるが、一応呼びかけを行っている。

 ドクターが脈を取りながら聞く。


「あなた、ご家族の人?」

「あ……わたし、恋人で……こちらの方は、その……」

「こちらの方?」


 ドクターが岩崎愛を見る。


「申し訳ないが見られないよう術を張っている。その医者にはわたしが見えない」


 ぼたんが短く説明した。


「あ……いえ、なんでもないです」


 岩崎愛がそういうと、ドクターはベッドを動かした。


「申し訳ありませんが、集中治療室に運びます。同席は出来ません。ご了承ください」


 そうとだけ言うと、ドクターは看護婦数名とベッドを押して部屋を後にした。


 ……


「彼……どうなるんですか……」

「このままだと、魔に成った逢沢瞳に魂を食い尽くされる」

「そんな!」


 岩崎愛が悲鳴をあげる。


「ぼたんさんは退魔師でしょう? なんとかしてくださいっ!」

「そうしたいが、真実が、あと一つ足りない」

「そんなの、どうでもいいじゃないですかっ」

「そうはいかないんだ。この剣の……」


 と言いながら七星剣・魔断を見せる。


「ここ。『いち』と書いてあるだろう。まだ明かしていない真実が、一つ、残っていることを示している。ここが『れい』にならないと剣は抜刀できない。……魔を斬れない。七星剣・魔断を抜くには条件がある。その魔の真実を明かすことがその条件なんだ」


 はああ。

 岩崎愛が深い、深いため息を吐いた。


「じゃあ、このまま倉敷くんがお姉ちゃんに魂を喰われるのを待つしかないんですか」

「いや……さっきの愛さんの呼びかけは、途中まで上手くいった。七星剣・魔断の目盛りが二つも動いた。わかった真実は二つ」


 ぼたんは人差し指を立てた。


「一つ目。逢沢瞳は、愛さんの元に倉敷博巳を帰そうとしていた」


 ついで、中指も立てた。


「二つ目。逢沢瞳をこの世に留めていたのは、倉敷博巳であった」

「そんな……それって……」


 岩崎愛は、両手で口を押さえた。

 ぼたんは冷静に続ける。


「まだ決まっていない。まだ七星剣・魔断の最後のカラクリが動いていない……が。七星剣・魔断の反応が、異なる。逢沢瞳だけの魔なら、ここまで反応しない。……考えたくはないが……」


 岩崎愛が、言葉を選びながら慎重に口を開いた。


「つまり……お姉ちゃんだけじゃなくて……倉敷くんも、魔に成っている……ということですか」

「最悪、その可能性はある」

「ああっ、そんなっ」


 岩崎愛はかがんで、涙を零した。


「どうして……どうして……」


 そして、叫んだ。


「わたしのせいだ! お姉ちゃんはずっと、ずっとわたしを呼んでた! わたしがお姉ちゃんを助けなかったから! だから連れていくのね、わたしから! 命より大切な、命より大切なわたしの倉敷くんを! ああ、もう終わり! もう終わりだよ! 生きていけない! わたしもう生きていけない!」


 しばらく、岩崎愛は泣きじゃくっていた。

 ぼたんは、しばらく好きなように言葉を吐き出させてあげることにした。


 五分ほど泣いて、落ち着いた岩崎愛にぼたんが言った。


「倉敷博巳が魔に堕ちたとしたら、愛さん、あなたも危ない。芋づる式にお姉さんと倉敷博巳から連れていかれる」

「……いい。それでいいです、わたし。連れて行って欲しいです。それで、倉敷くんとお姉ちゃんに会えるなら、もうそれで……」


 岩崎愛は自嘲気味にそう呟いた

 しかし、優しい表情を作っていたぼたんは、険しく、厳しい表情に変えた。


「だめだ。それは絶対に許さない。絶対に……だ。魔に堕ちたモノがどういう末路を辿るか、愛さんは知らない」

「貴女は……知っているんですか」

「知っている。愛さんと同じだ。命より大切だった翠蘭スイラン……少女を、魔に変えてしまった」

「命より……」

「ああ。……まだ十二歳だった。力が足りず、どうしようも無かった」

「……斬ったんですか?」

「……ああ。苦しんでいた。言葉にできないほど。わたしには、斬ることしか、出来なかった」

「そう……だったんですね……自分で斬らなきゃいけないなんて……」


 岩崎愛は、自分の手を見た。


「その時関与した妖が、今回も関与している。わたしが小さな頃から異常に執着している、狐の妖だ。まだ動いていないが……必ず行動してくるはずだ」

「……今度は、わたしも行っていいですか」


 ぼたんはハッとして岩崎愛を見つめる。


「倉敷くんを斬るなら、わたしも、その傍にいてあげたい」

「危険だぞ。最悪、魔に引きずり込まれる」


 ふふ。

 岩崎愛は笑った。


「大丈夫です。その時は……ぼたんさん。貴女が斬ってくださいますから」

「……」

「お願いです。倉敷くんと……お姉ちゃんの所へ連れて行ってください。わたしはもう、逃げたくない」

「……わかった」


 ぼたんは了承した。

 姉を、恋人を想うこの女性の意思を。


「時間が無い。ここから茜坂病院に転送する。わたしと手を繋いで、目をつぶって。三つかぞえるから、目を開ければ、そこは茜坂病院だ」


 ぼたんは七星剣・魔断を床に置いた。

 そしてそれを囲むように二人は立った。

 ぼたんが手を差し出し、それを岩崎愛が握った。


「ぼたんさん。ありがとうございます」

「はは。倉敷博巳くんを助けてから言いたまえ……ゆくぞ」


 岩崎愛は目をつぶった。


「いち、にの……」


 さんっ。

 しゃりーん。

 七星剣・魔断に付けられた鈴の音が、岩崎愛の頭の中で鳴り響いた。


 ……


 みーんみんみん。

 みーんみんみん。

 岩崎愛が顔をしかめている。

 空調の効いた病室から、蒸し暑い、夏の太陽の光を感じているのだろう。


「着いたぞ。目を開けていい。……茜坂病院。倉敷博巳くんの、精神世界だ」


 岩崎愛は目を開けた。


「茜坂病院前 西東京バス」


 もうほとんど字も読めない古ぼけたバス停が、そこにあった。

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