【今日子】
「ああ、美味しいのう、魔に堕ちたヒトの魂は」
その狐は、狂狐と呼ばれる、妖である。
ヒトの姿に化け、魔に落ちたヒトの魂を喰らう、ヒトに仇なす存在である。
数多の退魔師が浄化に挑むも、返り討ちにしてきた、強力な妖。
今は拝島ぼたんというおもちゃを見つけ、異常に固執している。
……
冷酷無慈悲な妖ではあるが、何事にも必ず始まりがある。
これは、狂狐がまだ子狐だった頃の、取るに足らない些細なお話である。
……
「母様、母様」
大陸の寒い寒い冬を乗り越え、五月になった。
「お外はとっても楽しいです、母様」
巣穴から生まれて初めて出たその小狐は、兄弟と仲良く外に遊ぶのに夢中だ。
「キョウコ、そんなに遠くへ行ってはなりませんよ」
母狐は、いちばんお転婆な女の子に「キョウコ」と名付けた。
でも、そんなお母さんの心配、好奇心が旺盛なキョウコには関係ない。
いちばん歳の近い兄の「イチゾウ」と一緒に、今日は小川に行って小魚を取って来ようと約束した。
母様に見せるのだ。
もう、自分は一人前の雌狐だと。
それを証明したかった。
大陸北部は、五月でもとても寒い。
五月でも雪が残る。
へっちゃらだと思った。
春の訪れが、自分に無限の勇気と命の躍動を与えてくれている気がした。
だから、ちょろちょろ流れる小川に岩魚の姿を見て、心が昂った。
「イチゾウはそこで見てて! わたしが取るっ」
けれど。
けれど、残雪の残る岩は、キョウコが思っていたよりずっと滑った。
けれど、ちょろちょろだと判断した流れは、キョウコが思っていたよりずっと急流だった。
だから、落ちた小狐を一匹、押し流すことなんて、川の神様からしたらどうということはなかった……
「母様、母様、キョウコが川にっ」
イチゾウが必死に母狐に伝えた。
母狐は血相を変え川に急いだ。
しかし、手遅れであった。
必死に鼻を岩に擦り付け臭いを追うものの、娘が落ちた岩以外から、キョウコの臭いの痕跡を辿ることは出来なかった。
「けーん。けーん」
母狐は涙を流しながら遠吠えをあげるが、愛する娘が応じる事はなかった。
間の悪い事に、巣穴近くにヒグマが現れるようになっていた。
冬眠から覚めたばかりで腹を空かせたヒグマだ。
子供たちが眠る住処を見つけられれば、ひとたまりも無い。
住処を、変えなくてはならなかった。
「おいで、子供達。引越しするよ」
「母様、姉上は?」
「母様、キョウコ姉様は?」
子供達は皆、活発でお転婆だったキョウコが大好きだった。
けれど、心を鬼にしなくてはならなかった。
「キョウコは戻らない。川の神様の所へ還った。……さあ、行くよ」
母狐は、溢れる涙を必死で堪え、巣穴を後にした。
……
キョウコは、一キロ以上下流に流されていた。
なんとか岸までよじ登ったものの、冷たい雪解け水に体力を奪われ、歩けることが出来ないほどに弱っていた。
「母様……母様……」
それでも、必死で臭いを辿り、なんとか皆が待つはずの巣穴を目指した。
左前足は、酷い凍傷で感覚が無くなっていた。
そして更に、急激に下がる夕方の気温が、それを阻んだ。
巣穴まで、あと僅かな所で、うずくまり、動けなくなってしまった。
冷たい風が容赦なく濡れた小狐の体温を奪う。
「母様、母様。おててが痛いよ。母様」
だが、北風の神様は、ひどく残酷だった。
消えかけた命の灯火を、吹き消すべく吹き荒れた。
凍傷を起こしていた左前足は、崩れ落ちてしまった。
(かあさま……おてていたい……かあさま……)
……
どさっ。
長い長い時間が経ったある時。
もしくは時間はそれほど経っていなかったのかもしれない。
何かが彼女の前で倒れた。
信じられないことに、それは……ニンゲンの子供だった。
長く歩いて来たのか、力尽きて意識がない。
キョウコは、母様のいいつけを、命が消えかけても守ろうとした。
「いいこと。ニンゲンだけは、近づいてはだめよ。鉄のつぶてであっという間にやられてしまうのだから。お父さんも、あれにやられてしまったのよ」
でも、キョウコは、お腹が減ってお腹が減って仕方がなかった。
母様のいいつけと、空腹が頭の中でぐるぐるとせめぎあった。
その時……
声がした。
「食べてしまいなよ」
「ダメだよ。母様がダメだって」
「その母様はもう居ないじゃないか。一口だけでも、かじってご覧よ」
「一口……?」
「そうさ。そうすればお前は成れるのさ」
「なれるって、何に?」
声は聞こえなくなった。
その代わり、キョウコの頭の中はお腹が減ったことしか考えられなくなっていた。
「おか……あ……さん……」
まだ息があって、何か呟いていたが、もう気にならなかった。
柔らかそうなその頬っぺたから、かじり付いた。
(ああ。なんて。なんて美味しいんだろう)
いったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。
耳たぶからはらわたまで、キョウコはニンゲンを余すことなく食べた。
いや、もしかしたら、まだ、一口しか食べてないのかもしれない。
ともかく。
キョウコは気がついたら、ニンゲンになっていた。
「これは、だれ? 私は、だれ?」
両の手を見る。
崩れ落ちた左手だけ、再現されていなかった。
……
まあ、そんなことは、ヒトの姿になったキョウコには些細なことだった。
キョウコは、頭の中に響く本能に従った。
また新たなヒトを食べるのだ。
またあの美味しい思いをしたいのだ。
一人食べた。
二人食べた。
三人食べた。
一家まとめて食べた。
集落一つまとめて食べた。
そうして。
一国の領主の正室となって。
国の民をまとめて生贄にして食べるようになった頃。
人はキョウコを「狂狐」と呼ぶようになった。
そして、国を救うべく立ち上がった退魔師の一族に破れた。
……
権力も妖力も失い、力も尽き、国を出て、逃げ、そして倒れた。
奇しくも丁度、最初に食べたニンゲンが倒れていた場所だった。
(かあさま。かあさま)
その時、丁度ヒトの子が近くを通った。
赤毛がとても美しい、少女だった。
「きみ、その左手、大丈夫?」
「……放っておいておくれ」
「放ってなんて置けないよ。とても……辛そうだもの」
「そなた、わらわが怖くは無いのか」
「うん。怖くない。はい。これ」
「なんじゃ、これは」
「手袋。付けておけば、暖かいよ……ほら、左手だして。……どう?」
「……ああ、暖かいな」
「よかった。それ、あげるから。あ、良ければ家においでよ。ご飯あげるから」
それはやがて「魔」を巡り対立する宿敵同士となる両者だが、狂狐も赤毛の少女も、この時はまだ何も知らない。
……
「今日子さん? 今日子さん!」
「あ、ああ、なんだったかしら」
「ですから、瞳さんにあげるものなんですけど……」
「手袋」
「手袋にするといいわ」
茜坂病院の古い汚れた病棟の病室で。
無邪気な少年の前で、ヒトを喰らう妖は、にっこり笑った。
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