【瞳さんとアイ】

 春。

 バス停から病院までの凸凹した白いコンクリートの坂道。

 木漏れ日がそよそよと風に揺られて白いキャンバスに光の粒を描いている。


「きみ。いくら親しいからって、スカートの中を覗くのは、どうだろうな」


 瞳さんといつものバス停デートの帰り、突然話しかけられた。

 ……その人は、瞳さんと同じ切れ長の目をしていた。


「変態、なんだね。きみ」


 にいっ。

 笑った。

 その人は、瞳さんの顔をしていた。


 ……


 背は、瞳さんより高い。

 おかっぱ頭は黒髪。

 切れ長の目は瞳さんと瓜二つ。

 黒いワンピースに、白いカーディガン。

 赤いワンピースが似合ってた瞳さんと違って、どことなく、色彩に欠ける雰囲気の人だ。

 その笑顔、博巳は知っている。


「……愛、さんですか?」

「そうだよ。岩崎愛。姉さんに聞いた?」

「いわさき……?」


 少し戸惑った。


「ああ。逢沢じゃないよ。わたしは父が死んですぐ父方の親戚に引き取られたから。……もう一度聞くよ。姉さんに、聞いたのかい?」

「え……そうなんですか? 瞳さんからは、妹さんがいるって。そう聞きましたけど……」


『お母さんはね……お父さんが死んじゃってからは……まあ、いいや。お好み焼きはね、妹に、よく作ってたんだー……』


「妹と、お好み焼きをよく作ってたって……」


 倉敷博巳は、言葉を反芻して思い出しながら、たどたどしく答えた。


「お好み焼き? ああ、父が亡くなる前は、よく、作ってくれてたな。けど、親戚に引き取られてからはずっと会ってない。お見舞いにも行けなかった。一度も……もう一度聞くけど、きみ、姉さんと話したんだよね?」

(えっ)


『妹ね。愛っていうんだ。おかっぱが可愛くて、あたしよりクールで。ずっと、姉妹で一緒だった。今も、たくさんお見舞いに来てくれるんだよ! いい子でしょ!』


(親戚に引き取られてから会えてない?一度もお見舞いに行けなかった?そんなわけない。ずっと一緒だったと、よくお見舞いに来てくれると、瞳さんはそう、言っていた)

「おーい、きみ。倉敷博巳くん」


 違和感が頭の中で響き渡っていて、呼ばれていることに気が付かなかった。


(あ、でも)

「なんで名前知って」

「……覚えてないのかい? わたしのこと? あんなに一緒だったのに? ……まあいい。聞いたんだ。姉さんに。きみのこと」


 そう言うと、愛さんは博巳の横を通り過ぎて、病院の方へ歩き出した。


「きみのことお願いと。そう頼まれた」

「お願い……って、どういう意味です?」


 後ろを歩く博巳の方を見て、答えた。


「そのまんまの意味だろう。君を残してなかったんだろうさ」

(いきたく……なんだって?)

「待ってください、それはどういう意味です? 瞳さんは今も元気で毎日、停らないバスを待って」

「……そか。きみには、まだか」


 歩みを止めた愛さんが言った。


「なら、もう少しそのままでいるといい。わたしはずっとここに居る。真実を、知るまで」


 愛さんが、笑った。

 さっきより、優しい笑顔で。

 ぐらり、視界が歪む。


(あれ。脳腫瘍のせいかな。だとしたら、また頭が痛くなる兆候だ。嫌だなあ)


 そう思っていたら、後ろに倒れた。

 どこかで見たことのある人だった。


(あれは、どこでだっただろう)


 でも……最後まで、分からない人だった。

 そのまま、意識は泥の中に落ちていった。


 ……


「ボク、ボク」


 気が付くと、病院のベッドの上に寝ていた。


(さっきのは夢……だったのかな。あれ、シーツが昨日のままだ。カーテンも……こんなに汚れてたっけ)

「ボクったら!」


 ユリの花のいい匂い。

 さっきから聞き覚えのある声が、左からする。

 見ると、瞳さんが、つんつんと博巳の左のほっぺたをつついている。


「……ああ、瞳さん……」

「ああ、じゃないよ、ボクったら。看護婦さん、行ったか見てってお願いしたのにぃ!」


 きいきいと、瞳さんが文句を言っている。


「五分も音沙汰ないから、見たら寝てるじゃないのっ」


 ぷんすかぷんすか、ぷんだよぉっ。

 そうぶつぶつ言いながら、窓枠に乗った。


「もー。バイちゃっ!」

「あ、待って!」


 博巳は慌てて追いかける。


「なんでついてくるの?」

「なんでって……いつも一緒じゃないですかー」

「ありゃ、そだっけー?」


  中庭には綺麗に桜が咲いている。

 満開だ。

 けれど、そこかしこに雑草が目立つ。


(あれれ。もう少し綺麗じゃなかったっけ)


 瞳さんはその中庭の地面にべたっと座って、スカートなのに思いっきり足を出してサンダルを履いている。

 反対側から見ていたら、完全に水色のぱんつが見えているだろう。


「……もう少し、恥じらいを持った方がいいと思いますよ」

「恥じらい? ないない」


 サンダルを履く手を止めて、苦笑いしながら片手を振った。


「もうすぐ死んじゃうもん、あたし。楽しく生きなきゃ、もったいないっしょ!」


 そう言うと、サンダルを履き終えて、手を左右に広げた。


「バイちゃ! きーん!」


 待ってください。

 そう呼びかける間もなく、博巳の赤いワンピースの想い人は、ぐんぐん小さくなった。


 ……


 その次の日も、その次の日も。

 博巳の想い人は、博巳の部屋を訪ねる。

 ベッドの下に隠れ、窓から中庭に降りて、サンダルを履く。

 アニメの真似をして、両手を広げて走った。

 バス停に着くと、暫しお話出来た。

 何より楽しい時間だった。

 少しづつ、瞳さんの人となりが分かって、それが嬉しかった。

 帰りも、一緒に走った。

 笑った。

 心の底から二人で笑った。


 ……


 幸せな時間は、毎日続いた。

 今日も、明日も、瞳さんは元気だ。

 けれどふと。

 ある時、理由がわからず不安になった。

 どうしてか、分からない。

 でも、不安になった。

 大切な何かが、欠けてしまっているかのように感じた。

 それが何かわからないのが、いちばん不安だった。


『君を残してなかったんだろうさ』

『もうすぐ死んじゃうもん、あたし』


 ……


「あら、どうしたの? 暗い顔しちゃって」


 病室にやってきた今日子さんが、入るなり聞いてきた。


「いえ……なんでもないです」


 なぜか気分が悪い博巳は、なんとかはぐらかそうとする。


「怖いんじゃない?」


 ぎくり。

 なんで、そんなこと聞くのだろうか。


「怖いよねえ? 大好きなお姉さんとの時間が、ニセモノだったりしたらさ」


 つり目がちの目を更に細めて、まるで舌なめずりするかのように嗤った。


「私だったら耐えられないなあ。ねえ? そんな残酷なこと」

「あの、それってどういう……」

「そろそろ気付いて来てるんじゃない?」

「何を……」

「あらー? まだなのー。……そう、ウブなのねえ!」


 今日子さんは紫色の扇子で口元を覆って笑った。


「あなた、いいわ、すごく、ね」

「……忘れ物、してきちゃいました」


 博巳はなんだか怖くなって、病室を出た。

 廊下は照明が落ちている。

 ……いや、違う。

 蛍光灯があちこち切れているのだ。

 がら。

 病室の扉を閉めた。

 それでも、今日子さんの纏わりつくような視線は拭えなかった。

 違和感と何かが欠落した喪失感。

 何かいつもと違う病院。


 幸せな毎日に、確実に影を落とし始めていた。

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