第12話 最終話 新しい場所へ 家に帰ろう
東の空がうっすらと明るくなってくるこの時間。
初老の医師はもう仕事を始めていた。
別に早く起きなければいけないわけでもないが、外の景色が夜から朝に変わっていくこの時間が好きだった。
ランニングシャツにステテコの上に白衣を引っかけて裸足でペタペタと歩く。
昔から組織で働くのは嫌いだし出世には興味がないので、小さな診療所で自分一人で働けるここの環境はとても気に入っていた。
環境が合うせいか数年前に還暦を過ぎていても健康そのものだった。
普段は夕方には仕事を終えて外に出て酒を飲む。
救急の外来が有れば時間外でも対応するが、ここでは滅多にそんな事は起きなかった。
やんちゃな遊び盛りの子供が怪我をしたとか、蜂に刺されたとかムカデに噛まれたとか、病気よりも怪我の応急処置の方が多いくらいだ。
体の不調に対しては鍼灸治療や漢方薬の処方を行なっている。
煎じ薬を調合するのには、昔ながらの天秤をずっと愛用している。
天秤の上に紙をのせて、その上に薬草をおいて量をはかっていく。
東向きの大きな窓が目の前にあるこの場所は、毎日朝日を眺めることができる最高の場所だ。
今日は強い風も無いから紙や薬草が飛ばされる心配もなく、窓を全開にして景色を楽しみながらゆっくりと仕事をしている。
何か茶色いものが目に入ったので天秤から目をあげると、立派な角を持った大きな鹿が窓からこちらをのぞいていた。
ぐっと頭を突き出して天秤の上の物を見ている。
「これか?食べもんやないで」
目が合ったので医師は鹿に語りかける。
薬草なので草の匂いがして食べられるものだと思ったのかもしれない。
「これは食べたらあかん。ちょっと待っときや」
テーブルの上に、昨日食べかけておいていた煎餅の袋があるのでそれを持ってきた。
一枚与えると食べたので残りも全部、玄関の扉を開けて外に置いた。
鹿が食べているのを少し離れて見ていると、向こうから5〜6歳くらいの男の子が走ってきた。
「先生来て」
「何やどうしたんや?」
「もうすぐ生まれるかもしれん。大丈夫やと思うけど一応呼んできてって言われたし」
「わかった。行くわ」
医師は往診用鞄を持って、子供と一緒に歩き出した。
すぐそこに見えている家の中から、元気のいい赤ん坊の泣き声が聞こえている。
歩いてこの家に向ながら、医師と男の子はそれを聞いた。
「来んでも大丈夫やったな。何よりや」
この地域で助産師をしている女性二人が家の中から出てきた。
一人は医師と同世代のベテランの女性で、もう一人はずっと若く30代の女性だ。
この二人は同じ仕事をしている母と娘だった。
二人とも晴れやかな笑顔なので、母子ともに健康なのが言われなくても分かる。
「先生。おはようございます。元気な女の子が生まれました」
「良かった。おつかれさん」
この地域では、出産の時誰も病院には行かない。
別にそう決まっているわけではないし個人個人好きにしていいのだが、何となくそうなっている。
機械に囲まれた分娩室で産むのが気が進まないので、安心できる自宅で産む。それがここでは普通だった。
ここに越してくる前から長年助産師をしていたこの二人もいるので、いつも出産の時はその家に行って手助けをする。
もし何かあった時のために、医師もすぐ近くにいるようにしていた。
「無事に生まれたし祝いに酒でも飲もか」
「もう先生朝から。自分が飲みたいだけやろ」
「バレたか」
中に入っていくと、生まれたばかりの子供を胸に抱いた女性がベッドで休んでいて、顔色も良く健康そのものだった。
「おめでとう。元気そうやなあ」
「ありがとうございます」
女性は満面の笑みで答えた。
出産を終えたあとの女性の肌は本当に美しく、子供を授かった喜びで表情は生き生きとして輝いている。
医師を呼びにきた男の子は、生まれた赤ん坊の兄になった。
「先生を呼びに行ってくれたんやなあ。ありがとう」
母親にそう言われて照れたように笑う。
生まれたばかりの妹を、少し不思議そうに興味津々で見ている。
「僕も生まれた時こんなに小さかったん?」
「そうやで」
「ほんまに?!」
男の子がものすごくびっくりした顔をするので皆の間に笑いが広がる。
外からも少しずつ人が集まってきた。
梢のいる民宿でも、出産が近い女性がいる事は知っていたのでお祝いの品物を用意していた。
泊まりのお客さんがいるので民宿には誰か居ないといけないし、交代でお祝いに行き、夜は皆んなで行こうということになっていた。泊まりのお客さん達も、何度もリピートしている人や数週間一ヶ月連泊している人ばかりなので、この地域の人と親しくなっていた。祝いの宴会がある時はお客さん達も皆何となく参加する。
この地域では何かイベントがあると、何となく人が広場に集まって来る。
祝い事があった家に寄って品物を渡した後も、来たい人は広場に寄って好きに飲食したり演奏を聴いたりするのがいつものことだった。
季節のいい時は眠くなればその辺で寝ている人がいるし、深夜明け方まで飲んで話して楽しむ人達もいる。
一人で静かに座って「皆の存在を感じる賑やかな空間での一人時間」を楽しむ人もいる。
この地域では、人間の子供はもちろん動物の子供が産まれても祝うし、新しい人が引っ越してきても祝うし、誰かの店が新装オープンしても祝う。
誰かの絵の展示会や、、陶芸、木工、アクセサリーなどの展示即売会もたびたびあるし、音楽をやっている人の演奏会やCD販売会もある。
ほぼ数日に一度は誰かが何かやっていたり、何かを祝っているので、ここで生きていると飽きるとか退屈という事がない。
かといって何かあれば行かなければという事も無い。行きたければ行けばいい。
ここに来てもうすぐ丸一年になる梢も、ここでは日常の全てがイベントのようだと思っていた。
6月のはじめには、京都のカフェの一家三人が来て、店舗用物件を見た。
マスターとママが思い描いていた通りの物件だったようで、喜びの興奮状態で借りる事を即決した。
広さはないので経費も京都にいる時より安く抑えられそうだった。
昭和30年代40年代が全盛期だった昔ながらのスナックの感じを再現したいという希望があるらしい。
早くも店に出すメニューの話しで盛り上がっていた。
マスターとママは京都の店があるので民宿に二泊したあと帰っていった。
これから内装を直さないといけないし、京都の店のこともあるのでオープンは年末頃になりそうだ。
唯は京都へは戻らず、慶の家で一緒に暮らし始めた。
年末には両親もこの地域に来るので、数ヶ月離れるけれどまた両親とも近くで暮らせる。
スナックは二人で十分なので、唯は民宿で梢達と一緒に働く事になった。
また一緒に仕事ができることが、二人とも本当に嬉しかった。
宿泊客以外の人も一階の食堂に入れるようにして、モーニングやランチのメニューを提供したり、自家製の漬け物や菓子を売りたいという話しは前から民宿の4人の間で出ていた。
でも、これ以上忙しくなって大変になるのもどうかなあというところで計画がストップしていた。
唯が入ってくれて主にそちらをやってくれるなら、ついにこれが実現できそうで民宿の全員にとってもありがたいことだった。
皆で作っている地図にも、さっそく今度オープンする店の事も書き入れ、2021年12月オープン予定と書いた。
地図はもう仕上がっていて、印刷して地域の中で配り始めたり、各店舗に置いたり、拡大した物を壁に貼ったりしていた。
新しい店ができるたびに最新版を作っていく。
皆のアイデアが集結して、カラフルで楽しい地図が出来た。
ここに住む人達の人数は、今日一人生まれた事、唯が来た事、マスターとママが年末に来る事なども入れて90人近くなった。
これから出産予定の人もいるし、念願の100人程度の小さな村がもうすぐ完成する。
ここには、人工的な遊び場のような物もほとんど無いし、豪華絢爛な建物や高いビルも無い。
それでも、豊かな自然、季節の移り変わりと美しい景色、人々の触れ合いがあって毎日が楽しさに溢れている。
全員がいつも半分遊んでいるようなものなので、特に仕事を休んで休息を取って・・・という考えはここでは不要だ。
仕事と遊びの境目はゆるく、日常の中に仕事があり遊びがあった。
賑やかな事が好きな誰かがしょっちゅう勝手にお祝いやらイベントやらやり出して、別に参加募集案内などしないのに、参加したい人は勝手に集まってきた。
静かな時間を過ごすのが好きで一人で過ごしたい人は、好きなだけ一人で過ごしている。
それでも周りには、近い考え方の人達が居るという事で何となく安心感があった。
何の強制も干渉も無く、個人個人が好きに生きている。
ただ周りに皆の存在がある安心感。
それがこの地域の一番いい所だと梢は思っている。
2024年12月
今年の夏、新しい場所に、やっと最後の一人が移住してきた。
2021年あたりから、同じ地域に少しずつ人が集まってきた。
カフェを経営する美津や、民宿を経営する喜一など、最初からそこに住んでいる人達も居たけれど。一人旅で訪れたのを機会に住みついた梢のように、後から来た人も多い。
少しずつ人が増えて自然に、百人近い人達の繋がりが出来ていった。
その後、新しい場所を探して、全員が移り住んだ。
新しい場所は、最初の場所よりも山深い田舎だ。
以前の場所を離れて、さらに人里離れたこの場所に皆で引っ越してくるきっかけになったのは、世の中全体の変化だった。
2021年の終わり頃から、世の中の様子があまりにも急激に変わり始めた。
それより前からずっと続いていた事が、コロナ騒動を機会にはっきりしてきたというだけなのだが。
世の中の様子は日を追うごとに不穏になっていき、感染対策と理由を付ければ何でもありで、いろいろな事が強制的に決まっていった。
街の中の様子も、人々が皆が神経を張り詰めてピリピリしている。
そのエネルギーが伝わってきて、楽しく生きていくのがだんだん難しくなってきた。
「本当に住みにくくなる前に引っ越そう」という話が、仲間内で出始めた。
2022年の中頃から、梢と健太、民宿のオーナーの喜一と、同じ民宿で働く唯と侑斗など主に民宿のメンバーが、移住候補の地域をあちこち下見していた。
唯のパートナーの慶や、民宿のメンバーの共通の友人である薫も加わることがあり、皆で情報を集め、話し合った。
地域の地図作りが終わった後に、そのメンバー達がそのまま今度は移転先探しで集まるようになっていた。
そんな中で2022年の秋に、今の場所を見つけたのだった。
最初の場所から、一年以上の時間をかけて数人ずつ、少しずつこちらに移動してきていた。
何年も何十年も放置されている空き家は多かったので、住む場所はあった。
けれど以前の場所と比べて、借りた家も買った家も酷く傷んでいて、すぐに住める状態の家はなかった。
そういう家を、住めるように整えるまでにもかなり時間がかかった。
最近になってやっと、以前の場所と比べてほぼ変わらない暮らしができるまでになった。
周りの環境として、より多く自然が残っているという意味では、前の場所以上にここが好きと言う人は多い。
梢も、この場所の方が前以上に好きで、同じ民宿で働く皆も同じ意見だった。
朝起きた時に聞こえる様々な鳥の声、すぐ近くにいる動物達や昆虫達、樹齢数百年、中には千年以上ではないかと思われる大木が至る所で見られるこの場所は本当に素晴らしい。
海に近かった前の場所よりもここは山深い。
以前は自転車でよく行っていた海岸線までは車で一時間ほどかかる。
駅からもずいぶん遠く離れて、この場所にはバスさえも朝と夕方の二回しか来ない。
それも乗る人が少ないので、もうすぐ無くなるのではないかと噂されていた。
もしそうだとしても、この地域の人達の三人に一人は自家用車を持っており、持っていない人は気軽に乗せてもらえるので何も不自由はなかった。バイクや自転車が好きな人は、普段それで山道を移動した。
舗装されていない土の道は、徒歩での散策でも足が疲れず、長時間気持ち良く歩ける。
「体を鍛えるために特に頑張って運動しよう」などと思わなくても、日常の散歩だけでいい運動になった。
ここでは以前と違って、自分達の知り合い以外の人間をほとんど見かけない。
駅からも遠く離れ、ガイドブックなどには一切載っていないので、旅行者が思いつきでふらりと立ち寄るような場所ではないからだ。
たまに車で駅近くまで出かけるとなると「山を降りて街に行ってくる」という感覚になる。
そう度々街に行かなくても、山奥ながら電気ガス水道があり、ネット環境も整っているので、ここにいてほとんど困る事はなかった。
ここにはまだ手付かずの豊かな自然が残っていて、水や空気、食べ物が美味しく、安心できる人とのつながりがある。
以前と変わらず毎日の生活そのものを楽しめる環境と、賑やかな祭りやイベントなどの沢山の楽しみもあった。
民宿に泊まりに来るのは、以前から何度も来ている長期連泊の馴染みの客か、そこからの紹介者しかいなかった。
それでも八部屋ある民宿は、いつも満室になっている。
働いているメンバーは以前から変わらない。
相変わらず皆で和気あいあいと仕事をしている。
一番新しくここのスタッフに加わった唯は、今では三歳の女の子と一歳の男の子のお母さんになっていた。
この地域では子供が生まれたら皆で面倒を見るので、一人で大変な思いをして孤独に子育てをすることにはならない。
子供を預ける必要がないから、この地域には幼稚園や保育園に行っている子もいない。
年齢はバラバラで十数人いる子供達は、皆でてきとうに遊んでいる。
ここに移ってきてからは前以上に、木に登ったり昆虫を観察したり砂や土で遊べる場所が多くなった。
子供達は木の枝や石を集めて「秘密基地」なるものを作って遊んでいる。
誰かが山の斜面を滑っていて落ちたり木から落ちて怪我をした時は、診療所の医師が呼び出され往診鞄を持って出動してくるのだが、今のところそれで済んでいて救急車を呼ぶような事態になった事はなかった。
危ないからこれをしてはいけない、あれをしてはいけないというような事を、ここの親達は誰も言わない。
子供達はいつも泥まみれになり、たまに怪我をしたりしながら逞しく育っている。
民宿以外もこの地域では自営業の人達が多かったが、ここの中だけでも需要はあるので売り上げはそれなりにあり、誰も生活には困っていない。
のんびり暮らして行く分にはそれだけで十分だった。
お金を介さない物のやり取りも、以前にも増して増えていて、生活に必要な金額も少なくて済んでいる。
欲しい物があったりしてさらに稼ぎを増やしたい人は、インターネットで店の物を売っている。
元々この場所に住んでいた数人のお年寄りも、新しくやってきた見知らぬ人間達を温かく迎えてくれた。
この場所がどんどん寂れていくよりも、活性化される方がいいと思っている感覚が伝わってきた。
いっぺんにどっと移住するのではなく最初は数人、この地域の人達と親しくなり慣れた頃にまた数人、という形で少しずつ増やしていったのも良かったのかもしれない。
元々ここにいた人達は全部で六人。祖父母の代、親の代からここで育った人達で、今では全員が八十歳以上、上は九十歳を超えている人もいるけれど、皆逞しく元気だった。
この人達の子供、孫の世代の人達は、仕事の都合も含めて不便な山よりも都会での暮らしを求めてここを離れ、年に一度顔を見せる程度になっていた。コロナ騒動以降はそれすらも無くなり、身内が訪ねてくる事はなかった。
ここの人達は、車もバイクも無かった頃からここで育ち自然に体を鍛えているからか皆頑健で、自分のことは自分でやるし、やたらと人に頼らない強さがある。
一組の夫婦と、他の四人は皆一人暮らし。家と家の感覚は隣が見えないほど離れているので、お互いに余計な干渉もなく、マイペースで生きている様子だ。
移住していった方も、ここの人達と同じような年代の人達もいれば若い人達もいる。
ここの人達も、色々な年代の人と触れ合うのは楽しみなようで、皆いい感じで親しくなっていった。
この土地のことでわからない事は、古くから住んでいる人達に聞くと快く教えてくれる。
食べ物や品物なども互いに分け合い、元々居た人達と移住組を合わせてちょうど百人の村が出来上がっていった。
梢は今でも以前と変わらず、同じ民宿で働き、仕事場のすぐ近くに健太と二人で住んでいる。
唯の両親は、カウンターだけの小さなスナックを二人で営んでいて、店内はいつも満員で賑わっている。
街に行くのは、ほぼ一年半ぶりだった。
今日は健太の運転で、久しぶりに以前住んでいた街に向かっている。
「前行ったのっていつやったっけ?」
梢は、運転席の健太に話しかけた。
「今年が2024年やろ・・・去年の最初・・・いや春ぐらいやったかな」
「2023年か。あの頃でもめちゃくちゃ監視カメラ多かったけど今どんなんやろ」
「あんまり酷かったらすぐ帰ろな」
途中すれ違う車も人もいない山道を抜け、一時間近く走った頃、少しずつ道幅が広い場所に出て街が見えてきた。
時刻は正午近く、寒い12月でも車窓から入る昼間の太陽光は暖かかった。
昼食用には、朝一緒に作った民宿のランチ用料理から、少し貰ってきていた。
民宿にはあと三人いるので、今日この後の時間は休みをもらっている。
以前住んでいた街の中を一周し、海岸線を走った。
海を見渡せる場所に車をとめて、窓を開けて少し潮風を入れる。
今日はあまり風が強くないのもあって、耐えられない寒さではなかった。
外の冷たい空気がむしろ気持ちいい。
アルミホイルで包んだ卵焼き、おにぎり、漬物などをつまみながら、水筒に入れて持ってきたお茶を飲んだ。
いつも食べているメニューも、違う場所で食べるとまた気分が変わって新鮮に感じられる。
「やっぱり監視カメラ増えてない?」
「予想はしとったけど見たらやっぱげっそりするわ。そこにもあるやろ?」
健太の視線の先にも監視カメラがあった。
車をとめて話している間でさえ、何だか居心地が悪い。
常に監視されているような気がした。
通信システムが新しくなったせいか送電線もやたら増えて、街の景色が変わっていた。
日本全体でも、コロナ騒動による不況で、倒産件数は過去最悪に多かった。
外国資本に買い上げられたビルは多く、以前とは街の様子が変わっている。
街の中から個人店はほとんど消え去り、駅前のコンビニと、大型ショッピングモールだけが残っている。
外国人観光客は増えたけれど、地元の人はあまり外に出ていないのではと思う。
商店街が潰れた後には、以前にはなかった得体の知れない灰色のビルがいくつか出来ていて、わずか数年で街は色を無くしたように見える。
オリンピックの終わった後一年ほどで、コロナ騒動は一応落ち着いたかに見えたけれど、町の雰囲気が変わってしまう流れは止まらなかった。
こうなる事を予測して、せっかく落ち着いていたあの場所を捨て、皆で移動したのは間違いではなかったと梢は改めて思う。
「やっぱり入れる店全然無さそうやな」
さっき見てまわった街の様子を思い出し、梢は健太に言った。
「てきとうに走ったら帰ろか」
「家が一番ええわ」
「海の景色だけは変わらんし、それだけ楽しんで帰ろ」
それは健太の言う通りだった。
街の中がどんなに変わっても、この海の景色だけは一年前も二年前も、さらに前の梢が京都からここに越してきた時からも、ずっと変わらない。
家に帰ろう。
いい響きだと思う。
梢には帰れる家があり、豊かな自然に囲まれた環境があり、そこに住む人達の笑顔がある。
「今日言おうと思って黙っててんけどな」
梢は健太に話しかける。
「多分来年の夏ぐらいにもう一人増えるで。今まだお腹の中におるけど」
「そうか!何となくそうかいなと思ったことあったけど間違いなかってんな。帰ったら祝いや!はよ帰ろ」
健太は満面の笑みを浮かべ、アクセルを踏み込んだ。
「スピード出したらあかんて。カメラあるし」
灰色の街の方には目を向けず、梢は車の窓から見える海の景色だけを、ゆっくり目に焼き付けるように眺めた。
ここへ来るのは次はいつなのか、もしかしたら当分来る事はないかもしれない。
海岸線を抜けて山道に入ると、家に近づいている感覚に心が安らぐ。
山間のあの村では、自分達の親世代の人達も、祖父母世代の人達も皆限りなく元気で生き生きとしている。あの村で生まれ、これから大人になっていく子供達は、そんな周りの大人達に囲まれ、豊かな自然に触れながら伸び伸びと育っていく。
来年生まれてくる子供にとっては最高の環境だと梢は思う。
歳を重ねても元気な周りの人たちを見ていると、まだまだ長い自分のこれから先の人生も、希望に満ちたものに思えてくる。
変わっていく世の中に絶望しかけた時も、諦めなくてよかった。
家に帰ろう。
最果ての地にて愛を繋ぐ ゆき @satsuki88
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