第10話 冬から春へ 人々と動物たちの平和な日々

2021年2月


冬の狸は、毛がみっしりと生えていて丸々としている。

狸の顔は一般的イメージよりも細長くて、耳も丸くなくてとがっている。足は黒で、目の周りも黒。

尻尾はあまり大きくなくて大抵はだらんと下がっているので、犬や猫のように感情表現があるのではなさそうだ。

小さい狸たちは活発に動き回っていて丸々と可愛らしく、観ていて飽きることが無い。


この地域の二月はそれほど寒くもなく、天気のいい日の昼間なら気持ちよく外に居られる。

今日休みをもらっている梢は、起きたらちょうど昼の狸時間だったので、外で狸達に食べ物を分けながら自分も近くで座って食事を済ませた。

今日の昼食は、昨夜行った居酒屋で食べ残した物を包んでもらっていた。

質のいい材料を使った焼き魚や酢の物、漬物、おにぎりは、時間が経っても十分に美味しかった。

昨夜何時まで飲んでいたかは覚えていない。

ここへ来てからというもの、本当に時計をあまり見なくなった。

それで何も困らないのだという事を、梢は実感している。

ここでは時間に追われるという事が無いし、皆がゆったりとした一日一日を楽しんでいる。


調理場の方を見ると、トンビがこちらに近づいてくるのが見え、喜一が油揚げを投げているのが見えた。

投げられるタイミングに合わせて下降してきたトンビは、足を使って空中で油揚げをキャッチする。

もう何度も見たけれど、いつもすごいなあと思う。

トンビは、受け取ったご馳走を近くの電信柱の上に運び、ゆっくりと食事を始めた。

大抵いつもこんな感じで関わってくるこのトンビは、お腹が空いている時はもう少し積極的に食べ物を要求することもある。

以前、梢が朝一番で外に面したガラス戸を開けようとすると、ガラス戸に茶色い影が映っていた。

けっこう大きいし磨りガラス越しなのではっきりした姿は見えない。一瞬何かと思ってぎょっとした。

恐る恐る開けてみると、トンビがそこにとまって待っていたので、油揚げを持ってきて前に置くと受け取って去っていった。

ちくわなども食べなくはないけど油揚げが一番のお気に入りらしい。「トンビに油揚げ」というのは本当だった。


この辺で座って食べていると、犬猫もやってくる。動物たちも、人が食べている物は気になるらしい。狐だけは早朝か夜しか来ないけれど。

人間にとっても、自分が食べ終わって残った物があれば、動物たちが食べてくれるのでちょうどいい。

ここには食べ物が豊富にある。野菜は余るほど穫れるし、野草も取ってきて食べられる。

趣味で釣りをする人達から魚もよくもらう。肉もたまにもらう事があって、そういう時はバーベキューが始まる。

鶏を飼っている家からは卵をもらうし、牛を飼っている家も一軒あって、そこからは一升瓶に入った牛乳をもらう事がある。

梢は、ここに来るまでは卵や牛乳が嫌いではないが特別好きでもなかった。

それは、生みたての卵や絞りたての牛乳が、こんなに美味しいとは知らなかったからだった。今では卵と牛乳が大好物になった。


ここに来て慣れないうちは、散歩に行ってもやたらと人が物をくれるので「こんなにもらっていいのかな」「何か後でお返ししないといけないかな」と思って戸惑ってしまっていた。

今では、そんな気遣いは無用だと知っている。

今は、特定の欲しい物があって「あそこに行けば余ってるかも・・・」と思えば、堂々と「もしあったらいただけませんか?」と平気で言えるようになった。

逆に人が何かもらいに来ても、全然驚かなくなった。

ここでは人も動物も、欲しい物はもらいに行く。

「余ってるからご自由にどうぞ」というので、季節の野菜などが積んであるのを目にする事もあった。

必要なら遠慮なく欲しいだけ持って帰る。

民宿の勝手口に、大根や白菜が積んであった事もあった。

そんな形で誰かがくれる事はよくあるらしく、そういう野菜があると中に持って入って、食事の材料にするか多い場合は漬物にする。


服や日用品でさえ、ここではよくタダで手に入る。

食べ物と同じく気軽にもらったり、あげたり出来るから。

梢もここの人達と同じく、ガレージセールや交換会のような事を誰かがやっているのを見かけたらのぞきに行く。

そこで欲しい物が、タダ同然の価格でけっこう手に入る。

なので新しい物は、ほとんど買わずに済んでいた。

こういう日常なので、バイト代もあまり使わずに残っていってすぐに貯まる。

梢は今月、預金を一部おろして電動自転車を買った。

今までは宿泊客用のを借りていたけけれど、これがあると行動範囲も広がりそうで楽しみだった。


買って間もない新しい自転車で、ゆっくりと景色を楽しみながら走る。

海沿いを風を切って走ると、歩いている時よりは寒さを強く感じる。

けれど凍えるようなというレベルの寒さではないし、冬の景色というのも梢は嫌いではなかった。

ほとんどの木々が葉を落としていても、枝だけになった木のシルエットはそれはそれで美しく、梅の蕾もそろそろ膨らみ始めている。

公園の近くを通ると椿の花の美しい赤も見られる。


梢は夏からここに来て、秋を迎え、冬を迎えた。

もうすぐ立春で、暦の上では春を迎える。

京都に居た頃も季節ごとの自然の美しさを楽しんできたけれど、ここでもそれは同じだった。

むしろ京都の街中よりも、ここには手つかずの自然の風景が多く残っている。

人の手が入っている部分も、都会と違って土地が安く庭が広く取れるので、家庭菜園などを楽しんでいる家が多く見られた。

美しい花が一番多く咲く春に、どんな景色が見られるのか今から楽しみだった。

植物を育てるのが好きで、いつも美しい庭を見せてくれる家も沢山あった。




自転車で走るのに少し疲れたら、知っている店に入って休憩する。

梢が最初にこの地域へ来た時に、他とは様子が違うのを外から観て気になり、入ってみたカフェ。

今では、週に1~2回は必ずここへ来るようになっていた。

ここのコーヒーは最高だし、食べ物もおいしい。

それに今では、いつ来てもほとんど知っている人ばかりだった。


梢が働いている民宿へこれから行く予定で、ここに寄ったという旅行客に会うという事も何度かあった。

その時はちょうどいい具合に道案内ができた。

そういう事があると、最初に自分がここから案内してもらって民宿に行った時の事を思い出し、とても懐かしかった。

考えてみればそれからまだ一年も経っていなくて、つい最近の事なのだけれど。

梢はこの地域の住人としてすっかり馴染んでしまったので、なんだかそれが遠い過去のように思えた。


この季節、通いの猫は外にはいなくて、来た時は大抵中に入っている。

さすがに二月の店の前は寒いのかと思う。

今日も梢が入っていくと店の中はほ満員で、猫はボックス席のテーブルの下で寝ていた。

ここに来る人で動物が苦手な人はいないので、猫は誰が居ようと堂々と入ってきて、その日の気分で好きな場所に陣取っている。


店内はカウンター席の端が一つ空いていたので、梢はそこに座った。

今日偶然隣の席に居るのは薫で、梢が客として民宿に泊まった時会った女性だった。

今では友達と言える距離感になっている。

「今日休み?」

「うん。明日まで二連休」

民宿では正月の期間が忙しかった分、今の期間に交代で連休を取っていた。


ランチを頼むほどお腹が空いていないので、梢は今日は焼き菓子を頼んだ。

ここの焼き菓子は、オーナーの美津がその日によって、気まぐれで色々な種類の物を出してくれる。

今日はチーズケーキで、新鮮な材料を使ったケーキは飾りなくシンプルだけれど最高に美味しい。

少し苦味の強いコーヒーとの相性も抜群だった。

「やっぱりここのケーキ美味しい。最高」

「ありがとう。みんなそう言うてくれるし嬉しいわ」

カウンターの向こうの端のお客さんと話していた美津が、梢の独り言を聞いて答えてくれた。


ボックス席には、梢が最初にここに来た時相席で席を空けてくれたカップルが、友達の男性二人と一緒に来ていた。

友達の方は、この地域で陶芸をやっている人達で梢も顔見知りだった。

この店の食器も民宿の食器も、この人達の作品だった。


カップルの二人の名前は達也と怜で、最近まで東京で仕事をしていたと聞いた。

本業のイベント関連の仕事がコロナ騒動でやりにくくなったので、副業だった文筆業やユーチューブチャンネルでの配信などを仕事にしている。

この二人が夫婦なのかどうかは未だに知らないし名字も知らなかったが、そんな事は関係なくけっこう親しく話すようになっていた。


そういえばオーナーの美津や今隣にいる薫に関しても、名字も知らないしパートナーが居るのかどうかも知らなかった。

一緒に民宿で働いている人達でさえ、名字は一度聞いた気もするけどもう忘れていた。

それくらいこの地域では、何々家といった立場のようなものは意味を持たない。

年上も年下も無い。完全に皆んなが横並びの世界だった。

一度ここに馴染んでしまうと、もう以前の世界では暮らせない。

梢がそう思っているのと同じように、他の人も皆んなそう思っているようで、誰かがそんな話をするのを時々耳にすることがあった。

世間の常識、どうでもいい決まり事、人からの干渉などがめんどくさくて、とてもじゃないけれど元の世界では我慢できそうにない。


世の中では今、コロナワクチンの接種がスタートしているらしく、その話題も時々入ってきた。

ここでの日常を暮らしていると、コロナ騒動自体を忘れているので、何でワクチンが必要なのかと不思議な感じしかしない。

騒動が始まってから既に一年以上が経過していたけれど、テレビの中の世界で騒ぎが大きくなっているだけで、この地域の知り合いの範囲では、真冬でも風邪をひく人さえ滅多にいなかった。

自分達の中だけで、世の中とは完全に違う世界を生きている感覚だった。


この地域の知り合いの人数はまた少し増えて、70人に近づいていた。


2021年3月


季節は春になった。

この辺りでも2月は一番寒いはずなのだが、京都の冬に比べると寒いうちに入らないというのが、住んでみてよく分かった。

雪が降る事も道が凍る事も一度もなく、寒いのが苦手な梢は、いよいよこの地域が好きになった。

皆に聞いたところ、毎年冬の寒さはこの程度らしい。

3月に入ってからは、さらに暖かくなってきて菜の花や桃の花が見られるようになった。

春になると咲く花も多くなる。地域の人から、自宅の庭に咲いた花をもらったりして、食堂のテーブルに飾るとすっかり春の雰囲気になる

寒さが気にならなくなってきたので、動物たちは昼間よく外で寝ている。

この地域の動物たちは全部放し飼いだけれど、あまり遠くには行かない。

行動範囲がちゃんと決まっているらしい。


民宿の今日の仕事が終わり、梢と健太が食堂で遅めの夕食を取っていた。

「高校出た時すぐ行っといたら良かった。まあ時間もなかったししゃあないけど」

「惜しかったけど無くても何とかなるやろ。今のとこ」

「生活には困らへんし。まあええか」

今話しているのは、運転免許の事だった。

今は教習所でも、感染対策万全が当たり前になっている。

それを考えると梢は、免許が欲しい願望よりも、そういう所に行きたくないと思う方が強かった。

健太も梢と同じ考えなので、もし自分がこれから免許を取りに行くとしたら、今の状況なら行かない方を選ぶと言った。

「ここにおったらそういう事忘れてるけど、こういう時思い出すよな」

「ほんまに嫌になるわ。普段は何も困ってないしええけど」


この時間になると外はまだ少しだけ寒い。

夕食の後は、洗い物を済ませて今日もらった野菜や魚を箱に入れたり冷蔵庫に入れる。

鍵を閉める前に、扉の外に動物の気配を感じるときは開けて見る。

今日は、外には通いの犬、猫が来ていて、少し離れたところにはいつもの狐が二匹来ていた。

残り物であげられる物を持って外に出ると、動物たちがぞろぞろと集まってきた。


梢は、健太とはいつの間にか一番よく一緒にいるようになって距離が近くなり、気が付いたら付き合っていると言える関係になっていた。

いつから付き合ったかと聞かれると、どちらもよく覚えていない。

付き合ったからといって、結婚がどうとかいう話にはならない。

ただ、お互いに一緒に居たいと思うから一緒にいる。

いつまでも続くだろうかとか、約束や契約が無いと不安とか、そういう考えの人はこの地域にはいない。

一生変わらないのがいい事で、そうではない事が悪い事という考えもない。

今、一緒に居たい人と一緒にいる。それは恋愛に限らずどんな人間関係でも同じだった。

いつ終わってもそれはそれと思っていると、なぜか反対にけっこう長く平和に続いている人が多かった。


ここでは皆がそんな感じで、家柄がどうとか跡継ぎがどうとか家系がどうとかいう考え方も全く無い。

夫婦なのか違うのか分からない人達が沢山いても、男性同士女性同士のカップルがいても、人の事は誰もごちゃごちゃ言わない。

恋愛にはあまり興味が無く、ゆっくりと一人を楽しむ人もいる。

どんな生き方もありで、ここでは何もかもが自由。人目を気にする必要が全くない。

これは恋愛や結婚に関してだけでなく、生活の全てにおいてそうだった。

人に対して余計な干渉はしない。

付き合っていても一緒に住んでいても、お互いに相手に対して「この人は自分のものだ」という考えを持たない。

なので、一般的によく見られる、恋愛がらみの修羅場はここでは見られない。

家族間や近所や会社での人間関係の、泥沼の争いとも無縁だった。

争いのほとんどは、執着、所有欲、依存、干渉から始まる。

それが無いとなると、争いも起きようがなかった。

「自由だと治安が悪くなる」と言う説は間違っていたかもしれないと、ここに来れば誰もが思う。


外から見ると、ここでの人と人との関係は、かなりあっさりしていてドライにも見える。

一人一人が自分の好きな事だけをして楽しく生きているので、他の人の事がやたらと気になったり執着心を燃やすという事も無い。

それでもここで繋がりを持っている人の人数は百人未満なので、皆お互いの顔も住んでいる場所も仕事も知っている。

近所で誰かの姿が見えないと、

「あの人ここ数日見かけないけど元気かな」

という感じで気になって訪ねて行くという事もある。

誰かが怪我や病気で具合が悪ければ、他の誰かが差し入れをしたり買い物に行ってあげるというのも、ここでは普通の事だった。

病気と言っても風邪で2~3日具合が悪くなる程度で、重い病気の人や持病があって病院通いをする人、介護を必要とする人などはこの地域にはいなかった。

ストレスが無く、いつも目の前に自分の好きな事やりたい事があると、人間は大抵元気でいられるらしい。


ここの民宿では特に休日でなくても、1日の中で1人ずつ交代で休みを取って外に出かける事も出来た。

その日の状況にもよるが、日によっては3時間くらいまとまった休みが取れる。

梢は、今日は昼食の後休みが取れたので外に出てきた。

雨の日なら部屋で本や漫画を読むか、好きなユーチューブの番組でも見るところだけれど、天気のいい日は出かけないともったいない気がする。

3月半ばを過ぎた今は、すっかり春の気候だ。

今年は桜が早いようで、もう蕾が膨らみかけている。今年は4月にならないうちに、満開の桜が見られそうだった。

自転車でゆっくり走りながら、まだ京都に居た去年の春は、計画していた花見が中止になってとてもがっかりした事を思い出す。


ここでの花見は、特に計画していなくても誰かが始めると来たい人は勝手に参加して、何となく始まると聞いている。

そういう緩い感じもこの地域らしくていいなあと思う。今年は楽しみだ。

桜並木を走りながら、今年の花見を思い描いた。

(唯さんとラインで話した時は・・・京都でも今年はカフェのお客さん達と花見やる予定とか言ってたな)


普通の日常に戻る事を望んでいる人は、この地域だけでなく何処にもいる。



少し先まで行くと、外にテーブルを置いて、数人の子供達が集まっているのが見えてきた。

ここでは、慶が子供たちに勉強を教えている。

古い町家を修理して住んでいる自宅と兼用の、私設の塾のような物だった。

昔で言う、寺子屋のような感じに近いのかもしれない。

今日は暖かく天気がいいから、勉強も外でやっているらしい。


通りすがりに梢が挨拶すると、みんなで元気よく返してくれる。

ここの子供達は、皆本当に健康で明るい。

感染対策が始まってから学校へ行かなくなった、世間一般で言う「不登校」の子供達。

世間では学校に行っていないというと、問題あり、異常、病気というとらえ方をするけれど、ここの子供達は学校へ行っている子供達よりむしろ元気に見える。

学校へ行けば、皆同じ時間割に従って行動し、何の意味があるのかよく分からない細かい規則を沢山守らないといけない。


梢は自分も子供の頃そういうのが嫌いだったので、学校へ行きたくない子供たちの気持はよくわかった。

それに加えて今は、感染対策として真夏でも1日中マスク着用、何度も手指を消毒、アクリル板やダンボールで仕切られた中で過ごす。

どう考えても健康に悪そうだし、精神的にも辛そうにしか思えない。

生活していくのに必要な事や、読み書きや簡単な計算を教わるのに、別に学校でなくても何の問題もないように思える。成長してからより多く学びたければ、通信教育という手もある。


慶が引っ越してきた時には、民宿のスタッフ全員で手伝いに行った。

オーナーと健太は家の修理が得意だ。数年間空き家になっていたボロボロの家は、二人が修理してかなり綺麗になった。

パソコン関係の事は侑斗が得意なので全部任せる。

慶が借りた家は、持ち主も、使わないし売れないしどうしようかと思っていたような物件だったらしい。

好きに直していいという事で、賃貸で借りられる事になった。元がボロボロなので家賃も安い。


こういう家がこの辺りにはまだもう少し残っている。

毎月、ここの地域の事を知って、一人、二人と引っ越して来たり、元々ここに住んでいる誰かの家族が来て人が増えたりしてるが、地域全体で百人程度までは増えても住めそうだった。

全国からバラバラに集まってきているのに、なぜか気が合わない人はいない。平和な日々は今日も続いている。

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