薬のこと

 本屋にはいつも通り彼女がいた。二人とも今日は一冊も買わずに帰途についた。彼女は何かそわそわしていた。

「知り合いから貰ったんだけどさ」

と彼女は切り出した。

「飲むと、自分が飛ぶんだよ」

 彼女はラムネみたいなピンク色の粒の入ったビニル袋を持って力説した。

「幽体離脱、そして入れ替わる。誰かの身体と」

 少し彼女はおかしくなってしまったんじゃないかと思った。たぶん手に持ったそれは違法薬物だった。

「入れ替わるって、『君の名は。』みたいなこと?」

「いや、私も分からないんだ。まだ一粒もやったことはない」

 飲む、ではなくてやる、という表現がそもそも怪しかった。

「だから、今からやろう。何が起こるか分からない。死んじゃうかもしれないから、死に場所にしてもいいところ、どこかある?」

 いきなり言われて思いつくわけがない。

「じゃあ、私の家はどう?」


 彼女のいうとおり、家まで来てしまった。彼女の名字が中村というのだけ分かった。あとはアパートが古くて、表札がすすけているのは分かった。そして家には二人以外だれもいなかった。

「ここが私の家」

 ローファーを揃えながら彼女は言った。僕も白のスニーカーを揃えた。薄暗かった。リビングはタバコの匂いがした。彼女が地べたに座ったので僕だけソファに座るわけにはいかなかった。ベタベタする床板の上にあぐらをかいた。

 ピンクのラムネをひとつ、手渡された。

「せーので飲もう」

 彼女はグラスに水道水を注いで二人分持ってきた。僕はうなずいた。好奇心の方が勝っていた。好奇心で自分の人生を棒に振るのが最高の人生だと思っていた。

 二人で息を合わせて、少し飲み込むには大きいそれをごくんとやった。錠剤と同じ飲み方で合っているのかも分からなかった。

「なんともないね」

「効くまでには時間があるだろ」

 僕らは少し待った。ぼんやり別々の方向を眺めていた。待っていた。

 彼女は思い立ったようにスカートのポケットからスマホを取り出して、曲を流した。細い女性の声がわけの分からない言葉の羅列をつぶやいていた。リズムに乗せられて、スイッチが入った。

 彼女はその歌の歌詞を覚えているようで、かなり上手に口ずさんでいた。そして僕は覚えているはずがないのに、彼女の歌を口ずさんでいた。歌詞の一字一句が頭の中に浮かんでいて、次のメロディーも、間奏に入れたらちょうどよいフェイクもすべて自然に口から滑り出た。アルペジオがはねるのに合わせて、彼女の姿が伸びていった。部屋全体がガムを引き延ばしたみたいに歪んでいた。視覚がやけに鮮明で、それでいて見ているものがなんなのかははっきりしなかった。彼女だと思っていたものが僕自身に見えてきたり、グラスがかけ時計に見えてきたり、むちゃくちゃだった。そのうち僕の視界には部屋が映らなくなって、外に出たみたいだった。そして彼女も外に出たようだ、と思って隣を見てみると、僕がそこにいて、なんだか間抜けな顔をして宙に浮いていた。たしかに身長が高くなった感覚やスカートの中が寒い感覚があった。それ以外にもいろんなことが違っていた。

 背中から足先まで、ずっと筋肉が上下してて、リズムを取っているみたい。ステージの上を飛び跳ねてる感じ。なんか頭の中までシェイクされそう。目が回って吐き気が降りてきて吐いた液体は綺麗に下界に流れて虹を作った。そうだ私は飛んでいるんだ、街なんか見下ろして、自由に転倒するんだ、この野郎、死んでやる、生きてやる、殺してやる、でもそんなのは別にどうだってよくて隣を見れば私がいて不器用におろおろ飛んでいるもんだから、スカートがめくれるとかパンツが見えるとか気にせずに跳べよと蹴ってやった。金切り声で叫んだら胃酸で焼けた喉が破裂しそうになって、ひっくり返って空を見たの、夕焼けがどす黒く降りてきていました、見つからないように見つからないようにできるだけ遠くへ飛ばなきゃ、初めてあなたの中のお腹のピンク色の宇宙に、腸のひだの中の赤ちゃんが眠る羊水に入り込んでイく。まだ足りないずっと深くへ潜り込んでいたい。そしてソコを破って殺して血まみれにしてやりたいすべてあなたが悪かったのよだからねだからね許してよこんなあたしのことそんなに上手くいえなくたっていいじゃないじゅうぶんここに存在したのだからもういなくなっていいじゃない消えて消えて消えて消えてもうやめたい私なんかやめてしまいたいずっと思ってたゆららゆらゆららゆられるままでいいのあーあーカミサマ?⤴ww、化けの皮剥がしたらあたしってこんなに華奢なんだよしらなかった?wwwしらないよね、だって、だえもきずいてくれないんだもの無理よ無理いやだ気持ち悪いしなんか無理キモい


 鏡に映った私の姿を見ていた。中村華乃は女の嫌なところを原液まで煮詰めたみたいな格好をしていた。短いスカート丈とたいして形のよくない太ももと涙で崩れたメイク。私は私の形をだいぶ整形してしまったみたいだった。


 私はこうしてでしか生きられないの。彼みたいに、なーんにも見た目を弄らないで生きていくのって、どうなだろうね? どんな神経でやってるんだろう。うらやましい気もするし、どうせ彼と私違う世界の生き物なんだろうなとも思う。まだ名前も知らないんだけどね。


 あ、なんかわかっちゃった、平凡な名前。


 僕は彼女のことを抱きしめて寝ていた。彼女は抱きしめられてすやすや寝息を立てていた。ひろむ、弘武、ひろむと僕の名前を何度も呼んでいた。僕は彼女を揺すった。ほんのすこし揺すった。それでも彼女は眠り続けていた。不安になった僕は、彼女の胸ぐらを掴んで必死に揺すりはじめた。彼女の頭ががくがくと動いていた。震度四じゃ足りない。震度五強、六、七、日常をすべてぶち壊して、僕らの憂鬱まとめて殺してしまうような大震災じゃないと。


 中村華乃はうっすら目を開けた。僕に寄りかかって、ほんのうっすら明けた瞼から涙をこぼしていた。私は私以外のものに支えて欲しいの、といって薬を飲んでいたときは実は彼女は寂しかったのかもしれないと思った。自分以外の他者の面影が錠剤だけの身体なんて。

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