2 想定外の逃走には反吐も出ない、涎なら出た。

「ああもっ、しつっこい!」


 ヒールでタンッと石畳を打ち鳴らし純白ドレスをたくし上げ、あたしは野生の猪のように猛烈な勢いで突っ走っている。

 煉瓦造りの建物に挟まれた細い裏路地を逃走しながら今日何度目かわからない悪態をついた。

 教会から逃走した花嫁衣装のあたしの後ろからは、これでもかと言う数の黒服の男達が付かず離れず追って来ている。

 無論求婚者の群れなんかじゃない。

 いたいけなあたしをどこぞのおっさんに売っ払おうと目論んでいた悪徳一味の構成員だ。

 このままでは埒が明かないと、あたしは疾走する細い路地から大通りに飛び出した。

 人目のある場所なら拉致して連れて行こうとなんてしないはず。


「このまま警察に駆け込んで、それからそれからっ」


 案の定通行人がこっちを好奇や興味の目で見てくれるので、追って来た黒服の連中は分が悪そうに足を緩めた。

 肩越しにチラリと見れば手を頭に当てたり腰に当てたりして息を切らし切らし彼女を見送っている。見ているだけでチッという舌打ちが聞こえてきそうな苦々しい様子だった。


「よっしゃあああッいたッ!」


 あたしはおとこらしくガッツポーズ。

 しかし、喜んだのも束の間。


「いたわあそこのあの赤い髪の! お嬢様よ早く追い付いてー!」

「げっ! うっそお!?」


 疾走してくる一台の辻馬車の上に、恰幅の良いあの中年女の姿が見えた。

 あたしに話を持ちかけ騙した張本人だ。

 その時の母親としての涙ながらの演技は実に真に迫っていて女優顔負けだった。御者の隣に陣取り、今にも自分で手綱を掴んで運転しそうな勢いで檄を飛ばしている。

 馬車でなら往来でも簡単に連れ去られてしまう。

 きっとあの女はお嬢様の乳母か何かの演技でもして周囲を欺くに違いない。


「ひーっ! 捕まって堪るかーい!」


 言うまでもなくあたしは一目散に逃げ出した。


「ああもっ路地に戻れば黒服だしこのままだと馬車に捕まっちゃうしーっ」


 馬車はどんどん距離を縮めていて、あたしは体力を削がれていってるし確実に追い込まれている。嫌ーっ、とうとう初のペナルティーかもーっ。

 こんなゲームになかった展開反則よ!

 だから逃げ方だって出たとこ勝負。次の一手の良し悪しが全く予測できない。マジで泣きそうっ。

 もう馬車との距離はいくらもない。

 ああ駄目かもと半ば諦めかけたその時、街路の先に停まっていた一台の箱馬車が目に付いた。

 ちょうど誰かが乗り込んで走り始めた所だった。


「あ、あ、あ、あれだーーーーッ!」


 一か八かの賭けよ。

 馬車から逃げるなら馬車に限る。

 飛び乗るに際して昔はよくお転婆と言われた運動能力に不足なし。

 あたしは火事場の何とやらでまだそれ程速度の出ていなかったその馬車に追い付くと、扉に手をかけた。幸運にも鍵は掛けられていなかった。


「お願いしますどうか人を助けると思ってこのまま行って下さいいい!!」


 身を投げ出すようにして馬車の中に飛び込んで、相手の顔も見ずに床に土下座で頼みこむと、乗り主がぷはっと噴き出した。笑われたって背に腹は代えられない。


「どうかどうかどうか降ろさないで下さいお願いしますうううーっ!」

「わかったわかった。御者にはこのまま進むように言う。だから顔上げな?」

「あっありがとうございます!」


 うううっ救世主!

 感謝感激の顔を上げると、危なくないようきちんと馬車扉を閉め直した乗り主は濃い蜂蜜色の金髪に青い目の青年だった。二十歳になるかならないかくらいで若い。てっきりどこかの紳士のおじさまかと想像していただけに、あたしは間抜け面でポカンとしてしまった。彼はそんなあたしに小首を傾げてからこちらを気にして速度を上げないでいた御者へ言葉通り進行継続を指示してくれた。ハッと我に返る。

 ぐんと速度が上がったものの馬車後方の窓から覗けば女の馬車は付いて来ている。

 距離を保ったままでは撒けない。

 ハラハラしながら見ていたあたしの横で青年が「もっと急いで」と指示を出した。

 どんどん距離を稼いでいく。

 そのうち間に何台もの馬車が入り、尚且なおかつ何度も道を曲がっていたら、そのうち女の馬車はどこにも見えなくなった。


「へへっどうやら撒けたみたいだな」


 満足げに青年が言って、あたしはようやく落ち着いて恩人の姿を見る事ができた。


 金髪碧眼の中性的な見た目は大人しそうなインドア系で、本を持ち眼鏡を掛けたらよく似合うだろう貴公子だ。


 しかし予想に反して口調は陽気そうでどこか怖いもの知らずなやんちゃさを窺わせる。


 服装は全体的に黒っぽく動きやすそうな形状だった。


 葬儀に出るような出で立ちとも異なり、どこかの物陰に潜んでいても目立たないような感じだ。

 まるで密偵とか暗殺者みたい。

 しかも何かやけに存在感がある。

 でも、ゲームキャラにはこんな男性いなかった。関係ないモブなの? うーん、何だか腑に落ちない。だけどそんなとこを考えても意味ないか。

 

 それより、あたしには言うべき言葉があるじゃない。


「本当の本っ当にありがとうございます! このお礼は必ずしますから!」

「いやいいって。あんた逃げなきゃいけない事情があったんだろ。男として困ってる婦女子を助けるのは当然だかんな」


 向かいの座席に座って深々と頭を下げると、青年は背凭れに寄っ掛かりからからと笑った。ああもう天使!


「そんでどうする? もう降りるか? この馬車は隣街のユーリエまで行くんだけど」

「えっ、ユーリエ?」


 やっぱりこれはダーレクの街よさらば展開なわけか……。あたしは少し考え首を振ると言いにくそうにした。


「あの、できたら隣街まで一緒に乗せてって欲しいんですけど、駄目ですか……?」


 ここで降りたところで待ち伏せされているだろう家には戻れないし、この目立つ衣装で街をうろつけばまた見つかる危険が高い。

 追われる相手が違うとは言え、陥る状況はほぼ同じ。

 予定よりも約二年も早いんですけど、ホント一体どうなってるの?


「あんたがいいならいいけど、そのカッコ花嫁さんだろ? ホントにいいのか? 何か手助けできる事があれば遠慮なく言ってくれよな」


 青年が気遣ってか訊いてくる。

 ホントに天使ねこのモブは! 本筋にはどうせ関係ないだろうし恩人への隠し事は悪い気がするわ。そんなわけでありのままを告げる事にした。赤の他人だから話せる身の上話というやつだった。


「――と、そう言うわけで、実はあたし今日売られそうになったので逃げて来たんです」

「何てこった……」


 青年は大層目を丸くしていた。

 こんな酷い話を初めて聞いたのかもしれない。


「無理矢理エロ男の嫁さんに、か。さっきの女はそんなあくどい奴だったのか。ならこの街にいるのは危険だな。よし、オケオケッ、このまま一緒に乗ってけ」

「よかったあ……! 重ね重ねありがとうございます!」


 ようやくあたしはホッとできて小さく笑んだ。緊張続きだったせいか疲れを感じて背凭れにポスリと身を預ける。


「まあ、着くまでゆっくり休んでなー」

「ううっ、旦那、ありがとうごぜえますー」

「ははっ、面白えなあんた」


 つい気を抜きまくってふざけたあたしに怒りもせず、モブの好青年は愉快そうにこっちを見つめた。


【ダーレク教会からの逃走に成功しました。おめでとうございます】


 あたしの目の前に浮かんだ青い表示画面には、そんな心の一切籠っていない文言が浮き出てくる。

 何がおめでとうよ。

 無情でしかないそれを目にしてドッと疲労を感じたあたしは、瞼の重さに抗えなかった。


 目を閉じる間際に文字が変化したけど、あたしはへとへと過ぎて読んでいられなかった。


【イレギュラーが発生しました。ただちにこの馬車からの降車を推奨します。有効時間三十秒】


 ――……三、二、一。


【有効時間オーバーです。このままゲームを続行します】


 すぅすぅ寝息を立てるあたしの前の青い画面は、そんなお知らせを表示してからふっと掻き消えた。







「むっきいいいーーーーっっ!! 逃げられたじゃないのおおおーーーーっっ!!」


 ダーレクの街路に太っちょ女の金切り声が上がる。

 通行人らが何事かと振り返って辻馬車の上の女のケバケバしさにギョッとした。誰もが目が合わないように慎重に馬車横を通り過ぎていく。


「報酬がぱあになったじゃないのさ! あんたもねえっどこ見て運転してたのさ! この下手糞! こんな役立たずの辻馬車なんて廃車にしちまいなっ! その馬も生きたまま鮫にでも食わせてやるよっ!」

「か、勘弁して下さいお客様あぁ~」


 気の高ぶりに立ち上がって両手で御者の男性の胸倉を掴み上げていた女は、衆目のある場所なのを思い出しハッとしてその恰幅の良い体全体を揺らしてドスンと座席に大きな尻を落とす。はち切れんばかりの太い両腕を組んで世の中全てが忌々しそうに舌打ちした。

 ぐらぐらと馬車自体が揺れギシリギシリと軋みもした。解放されて咳込みながらも安堵を浮かべていた気弱そうな御者は、今度は壊れやしないかとハラハラした様子だ。繋がれた馬も馬でややびっくりして嘶いた。うっかり駆け出さなかったのは幸いだ。

 女は金の亡者で、執念深さや諦めの悪さは一級品。金さえ積めば違法な事でも何でも引き受ける悪女。ある意味ミラベルの何でも屋とは同業種でありながら対極に位置する存在だ。

 女はその日のうちにミラベルの自宅兼何でも屋事務所を見張らせる人員を配置し、荷物を取りに戻ってきたところを捕まえるように指示を出すだろう。


「あんの小娘えええっ、どこに逃げようと必ず追いかけて行ってとっ捕まえてやるんだからねえっ!」


 まんまと逃げられて最早意地になっているのもある。


 ミラベル――あたしはどうやら本気で厄介な女に目を付けられてしまったようだった。






 結果を言えば、目的地に着くまでの間あたしは爆睡した。

 素性も知らない若い男と密室も同然の馬車内にいて危機感がないと言われればそうだけど、運動神経は良くても別段鍛えているわけでもないごく普通の体だもの。早朝から連れ出されて半日、顧客の豹変にショックを受け憤慨し、人生史上最も走りあまつさえ未知の馬車に押し入るという大博打を打たざるを得ない窮地と緊張の連続だったのよ。襲ってくる心身共の極度の疲労に抗えるはずもないじゃない。

 ええ寝ましたよ。涎垂らして鼾ぐーすかですよ。

 多分半分白目も剥いていたわね。


 まどろみから沈んでいくあたしの意識には、いつしかどこまでも抜けるような雲一つない空が広がっていた。


 平野にあるダーレクの都会の街の空とは違う、どこか高地特有の澄んだ青。


 その果てない蒼穹を映す大きな湖。


 ああ、懐かしい。


 歯止めなく、意識はどんどん現実から記憶の湖に沈んでいく。

 遠くから響いてくる波紋のように、懐かしい声が聞こえてくる。


 だけどこれはゲームには決して出てこない「ミラベル」の過去。

 ゲームの始まるその前に転生したあたしが体験した、あたしだけの記憶。

 まだ八歳だった時分の出来事だ。


「よおーし皆しっかり笑えよ~? この可笑しな日にぃ~……祝福を!」


 湖のほとりの屋敷では写真撮影会が行われていた。

 草木の生い茂る広い庭では、一家と使用人達が思い思いの仮装をしている。

 手品師の恰好をした若い屋敷主――あたしの父親が音頭を取れば、その他の面々が笑顔でポーズを決め、心得た写真屋が黒布の中でレンズを覗き込みシャッターを切った。

 後は軽食片手に各自自由におしゃべりに興じる。


 それはあたしにとってはここに家族で住み始めてからは毎年恒例の光景だった。


 ワイワイと賑やかに雑談が始まる中、一人娘のあたしはぴくりとしてふっと顔を上げ、屋敷脇の茂みへと目をやった。


 服装は上下着も杖も山高帽も革靴も、貴族の身嗜みとして文句のつけようのない品で固められた伯爵様と言った感じだ。


 赤いりんごのように真っ赤な髪を後ろで一つに縛り、あたしはその形の良い耳をじっと欹てる。うんまあね、あたしはこれでも主人公だから耳の形は良いのよね。あと自慢じゃないけど顔も。設定上は別に超絶美女ってわけではないけど、ゲームパッケージのセンターを飾っていた今から何年後かのミラベルの姿は可愛いものだった。

 とは言えそんな事は自分でもほとんど意識はしてない。ゲームだって忘れるくらいにミラベル・クラウンとしての人生を謳歌していたからね。


「やっぱり聞こえたわ」


 気のせいかと思うくらいのほんの微かな異変だった。

 けれど耳に届いた悲鳴は確かなもので、あたしは手にしていた料理の皿を慌ててテーブルに置く。

 両手の指で足りる屋敷の皆の姿は庭の中に全員ある。


 ならば悲鳴の持ち主は別にいる。


 それを理解した瞬間、全身の毛が逆立つような焦燥を感じた。

 ここらは昼間でも狼が出る。

 地元民なら出歩く際は用心深く撃退用の武器を持つし、ほとんど森に入るのは猟師達なので例え遭遇しても対処は心得ている。悲鳴よりもいつものように高く乾いた武器の音の方が聞こえてくるだろう。


 けれど滅多にいない余所者だったなら?


 そう考えるや男装のまま一人庭を駆け出し森に飛び込んだ。

 この時、あたしはまだ知らなかったけど、入れ違いのように屋敷には一台の馬車が入ってきていたみたい。


 このゲームは基本的にあたしが逃走をする。


 でもまだゲーム開始未然だし、正直開始時期まではイベントは何もないと思い込んでいた。


 だがしかし、だ、この時だけは例外だった。


 走るあたしの目の前にポーンって効果音と同時に突如青い通知画面が現れた。


【助けますか? はい いいえ】


 本当に冗談じゃなく驚いたわよ。

 え、何これって訝りつつ、でもすぐにああゲームの選択画面ねって思い出して納得はした。

 あたしが逃走する内容でもないし、尚且つこの時期にどうして出現したのかはともかくも。

 だからかな、悩むまでもなく「はい」を選択していた。

 すると画面は消えず、また似たような問いかけが浮かび上がった。


【助けなくても相手は死にませんが、本当に助けますか?

 はい いいえ】


 何これ再確認? 必要あるの?


「助けるに決まってるでしょ!」


 一も二もなく「はい」を選択。

 もう問いかけは出てこなかったし、場合によっては出るカウントダウンもなかった。既に開始と思って良いんだろう。またわけのわからない問いかけが出たらどうしようと思っていたから些か安堵しつつ足を急がせる。


 近付いているのか、叫び声は奥に進むにつれ確実に大きくなった。

 ザザザッと飛矢のように森を駆け、そして急げと突っ切った茂みの向こうにとうとう見つけた。

 狼と、それの太い前脚に組み敷かれている人物を。

 今にも喉笛を噛み千切られんとする少年は、変声期特有の掠れ声で喚いていた。

 誰が見ても猶予などないその光景の中、あたしは一瞬動きを止めそうになった。


「まっ……る!!」


 うん、そうなのよ、少年の標準よりもかなりふくよかな体格に仰天した。何しろ今まで見た事のないくらいコロコロとしている。なるほどこれでは食べ甲斐があると狼がロックオンするのも頷ける。

 あたしは失礼にもそんな思考をしてしまいながら、一直線に突進した。


「でりゃああああッ」


 高い跳躍に全体重を乗せ、更には空中で加速さえして狼へと飛び蹴りをお見舞い。

 足型の青痣間違いなしのドゴオッと轟くような攻撃音。

 狼は見事に吹っ飛ばされ、あたしは反動を利用してくるりと回り子ザルのように身軽に地面に着地する。

 尋常でない不意討ちに恐れをなした負け狼はキャインキャイィーンと尻尾を巻いて逃げていった。


【救助成功。おめでとうございます】


「へっへーん……って、あ、そうだあなた! 大丈夫!?」


 とりあえず画面が消えたのを見届けたあたしは、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ下で急ぎ少年を覗き込む。


 歳はあたしの幾つか上かな?


 綺麗な銀髪を土と葉っぱでぼさぼさにした太っちょの少年は、放心の体でこっちを見つめている。

 狼にやられたのかぷにぷにぷよぷよの両腕には、痛々しい引っ掻き傷が幾つもあって血が滲んでいた。転んだのだろう膝からも同様だった。

 意識はあるように見えるのに反応がなくて心配は大きくなる。

 んん、でも銀髪?

 ゲームのメインキャラには銀髪がいた。だけどこの少年は……うん、単なるモブの一人だろう。


「ねえホントに大丈夫?」


 肩を揺すってやってようやくハッと我に返った少年は、逆光になっていて眩しかったのか両目を細めて頷いた。

 うっうわ~、肩なのに練ったパン生地みたいな弾力だったわ……新鮮な体験!

 人間に感じたのには初めての感触に内心ちょっと感動すらして安堵する。あたしが手を差し出すと、少年はおずおずとだけど素直にその手を取った。

 山高帽子はキックの直前で脱げてしまった。露見しているあたしの燃えるように真っ赤な髪は頭の天辺から木漏れ日を浴びている。


「きれい……」


 何とか苦労して引っ張り起こしてやれば、惚けたようにこっちを見ていた少年が無意識なのか微かな呟きを漏らした。


「ん? 何か言った?」

「あっいや、何でもないよっ」


 不思議に思って同じようにじっと見つめ返したら、少年は人間トマトになってしどろもどろに首を振る。


「そう? って早く手当てしないとね」


 慌てて取り出した綺麗なハンカチを少年の腕の傷の一つに巻き付けていると、


「ありが、とう」


 彼は痛みに顔をしかめながらもゆっくりとお礼の言葉を口にした。

 ハンカチが血に汚れるのを見て申し訳なさそうにもしていた。


「野生の狼だし変な病気にかかったりしないように消毒のためにも早く家に連れて行かないと。でもとろとろ歩いてたんじゃ時間がかかるかも。……転がしてくとか?」 

「え!?」

「冗談」

「そ、そっか」


 少し思案し「よし」とあたしは覚悟を決めて一人頷いた。






「あた……いや我輩のことはレッド伯爵と呼んでくれ。ところであなたは?」


 とりあえず自己紹介は必要かと、今日限定のレッド伯爵を名乗った。

 仮装するなら設定まで細かく凝ってその役になり切る事を信条としている凝り性の父親の影響だ。それはこの日会ったのが誰であれ発揮された。

 少年は逡巡するような間を置いてから小さく唇を動かす。


「…………ート」

「ええっミート!? お肉って、まんま!」

「ち、ちがっ」

「違う? あ、フードか! それもまんま!」


 直前の悲鳴の主とは思えない小さ過ぎる声に、まるで聞こえないあたしは何度か訊き返し、それで辛うじて聞こえた部分に無意味に自信を持った。


「そっかそっかあなたはフードって言うんだね。名は体を表すって言うくらい良い名だ! よろしくフード!」

「…………」


 あたしは上機嫌に握手した手をブンブン上下に振り回した。

 明るく輝かんばかりに笑みながら。こっちを見ていた少年は、何かを口にしようとしたみたいだけど結局はしなかった。


「……き、君は、僕がいっ嫌ではないのか?」

「え? 何で?」

「だだだって、こ、こんなに太っているし、ぼ、僕は人と喋るのが苦手、で……」


 よくどもる、と更に小さい声で言って少年は下を向いてしまった。

 あたしは彼の横にしゃがみ込んだ。そうすると寂しそうな横顔が見える。


「ま、周りにいる君くらいの子達は、いつもこんな僕を小馬鹿にする、から……」

「ふうん、それは気になったり好きな子達なの?」

「いや全然」

「なら幸いだね。別に遊ばなくてもいいんじゃない?」

「へ?」

「わざわざストレス感じるよりも、その時間で自分の好きな事とか得意な事を磨く方が有意義だと思うけど? 努力はためになるよ。思い付かないならまず身近な何かに打ち込んでみるのもありだと思う。まあ嫌々遊んで忍耐は付くかもしれないけどね」


 向けられたその目は、信じられない奇跡でも目の当たりにしたようだった。

 ややあって彼はおずおずとして頷いた。


「なるほど。考えてみる」

「ごめん話が少しズレたね。会ったばかりであなたをよくは知らないけど、太っちょだろうとどもろうと、今のところ我輩はあなたを嫌いじゃないよ」


 少年は依然おどおどとしていたもののきらりと目を輝かせた。


「そ、そっか」

「でも、もしこの先あなたから嫌なことをされたら、そりゃあ嫌いになるけどね。そっちこそ我輩のこの髪の色を何とも思わないの? 珍しいけど血みたいで気持ち悪いとか」


 赤毛より赤いこの髪色は人の多い場所では目を引く。

 大きな街に行くと必ず好奇の視線と共に、何か良くないものかもしれないと敬遠される身からすれば、逆に少年に訊きたかった。

 すると彼は数度言葉を言い掛けては固まって止めるという、逡巡や躊躇とはどこか違った不思議な行動をした。強いて言うならば緊張か。


「答えたくないなら別にいいんだ」

「――きっ綺麗な色っ、だっ、と思うっ!」


 思いのほか大きな声が返ってきた。

 きっとお世辞でも嘘でもないストレートな物言いが内気そうな少年から出たのは何となく意外に思ったけど嬉しくなる。

 赤子からこの世界で過ごしてきたけど、初対面の相手に髪を褒められるなんて両親以外からは初めてだった。


「ありがと!」


 ずいっと身を乗り出して少年に近づいて感謝の言葉を告げると、彼は照れて更に赤くなった。

 赤と言えば血の色でもある。


「ああっそうだったいけない早く手当てしないと。ちょっと我慢してね」


 自分よりも身長も体重もある相手の前に屈んで、膝の裏と脇の下に手を差し入れる。


「――【飛翔】!」


 きっとフード少年にはよく意味のわからない音だったと思う。これは声に魔力を込めた音だから。


 魔法呪文、魔法言語とも言われるもの。


 僅かでも魔力のある者にしか意味のある音には聞こえないし、発音すらできないものだ。

 因みにこれが女魔法使い、魔女が気味悪がられる一因でもある。

 ……男魔法使いだって唱えるのにね。理不尽。


 呪文を唱えたあたしを中心に風が起こり、彼を軽々と横抱きにしたまま次には垂直跳びのように膝を曲げ、跳躍。スイスイ~とまるで猛禽が空を突っ切るような速さで空を駆ける。


「はあああ!? なっ何故大人二人がかりでやっとの僕を、持ち上げられるの!? そっそれに飛んでる!?」

「実は我輩は魔法使いなのだよ、はーっはっは~っ。――皆には内緒だがね? いいかい本当に秘密だよ?」

「う、うん」

「いい子だ」


 余裕の悪戯っぽい笑みに重ねて、バチンとウィンクもキメる。

 彼はしばらくポカンとしてあたしを見つめていたけど、パッと素早く顔を俯けた。

 それきり何を話しかけても問いかけても、躊躇うような、あ、とか、う、しか喋らない。

 そんな様子に思い当たるものがあった。


 やっぱり魔法をよく知らない人は魔法使いが怖いよね。


 彼の反応が予想外ではなかったものの、正直落ち込んだ。

 近所から通ってもらっている屋敷の使用人達にも実は魔法の事は隠している。

 両親からの言い付けだったとは言え、いつも優しく世話を焼いてくれる皆に隠し事をしているのが、時々すごく罪悪感だった。


 だけど、そうする理由がこれだ。


 幸い彼は恐慌を来して暴れたりはしなかったから安定して飛んで目立たないよう屋敷の傍の茂みに降り立つと、人の集まっている庭へと連れて行った。

 庭の方では彼を捜した馬車が訪れていて、その姿を見るや護衛なのかどこかの立派な制服を着た兵士達は大層喜んだ。


「なんだ、きちんと心配してくれる人がいるんじゃない」


 見ていると本心から少年を案じている様子なので、彼を嫌っている相手ではなさそうだった。良かった良かった。若人よ羽ばたけ。今はあたしも若人だけど。

 きちんとした手当てを済ませると彼らは早々に出発すると言い、謝意の他に謝礼金を差し出してきた。勿論断ったわ。これは純粋な人助けだったから。そして両親もそれをわかっていた。


 ほんの短い滞在中、フードはもうあたしとは……あたしとだけは喋ってくれなかった。


 結局彼が慌ただしく馬車に乗り込む最後まで目も合わなかった。

 視線を感じて振り向くとそっぽを向かれてしまう、とそんな感じで。

 そうして彼共々一行は屋敷を後にした。


「はあ、難しいなあ……」


 親しみを感じていただけに残念だわ。

 魔法一つで亀裂が入る。

 この世界はそんな認識に満ちている。

 フードとの思い出は、少し悲しく残念で、小さな傷をあたしの心に残した。


 それから何年かのうちに両親の会社が潰れて追われ離別するまで、あたしはこの山奥の美しい屋敷で過ごした。

 彼がまた来る事はなかった。

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