第1話 部活に入ろう

いささか生乾き臭のする、ところどころシワのよった制服を身にまといながら、陰鬱な気持ちで私は通学路を歩いていた。


あの川に落ちた日の夜、軽く絞ってから部屋干ししたのがまずかった。制服というものはなまじ生地がしっかりしているせいか、乾きも遅かったせいで次の日に確認した頃には惨憺さんたんたる状態であった。服装に関しては無頓着な生き方をしていたため、服の取り扱いに関して何もわからないものであったために起きた二次災害であった。


あの日、帰宅した私を見た母上は、なぜかこんな遅い時間に、雨でもないのにずぶ濡れで、握り飯を持って、それに関して「別に」しか言わない、そんな私に対して、私の日々の行いが良いことから全幅の信頼を寄せているからなのか、あまりの風体があまりにも悲惨であったためなのか、深くは詮索せず家に上げてくれた。終始憐憫れんびんの目を向けられていたように感じたのはきっと気のせいである。私は善良で模範的な学徒である。なにもおかしいことなどない。


全てはあの佐々木とやらのせいだ。許せん、佐々木とやら。


**********


通学路を藪睨みしながら生乾き臭を漂わせて野良猫のように歩く私に声をかけるような人間はいないと思っていたが、どうやら一人いたようだ。


「そこにいるのは結城氏ではあるまいか。おはよう。」


思い出したくもないが強烈なエンカウントのせいで勝手に覚えてしまったこの声は、件の佐々木である。


「佐々木氏よ、貴君の制服はなぜそんなに綺麗な状態であるか」

佐々木は私より頭一つ分以上は高いであろう体躯であり、自然と下から睨みつけるようになってしまう。いや、実際に睨みつけていたかも知れない。なにせ、つい3日前に身投げをしようとしていたやつが、身投げに巻き込んだやつより綺麗な身なりであっけらかんとしているからだ。


「これか?我が家の隣はクリーニング屋でな、休日のうちに返ってきた。して、結城氏はクリーニングに出したようではないように見受けるが、紹介しようか」


貴様の家の所在すら知らないがその隣にある店など願い下げである。


「ところで結城氏は覚えておいでかな?今日は鈴木氏の言っていた部室へと行くのであったな。放課後が楽しみだな」


覚えているとも。

あれは川に落ちたあの忌々しい日のこと―


**********


「もし、そんな濡れていては寒かろうて、こちらに来てはいかがか」


鈴木なる男に促されて、橋の袂にあるベンチに三人横に並んで腰掛けた。季節は春、気温は暖かいとはいえ入水すればまだ寒中水泳である。吹く風も生暖かく、濡れた制服のジメジメと相まって実に気持ちが悪い。


ベンチに腰掛けてから、暫くの三人の間に気まずい沈黙が流れた。入学初日から今まで妄想に耽っていた男と、入学してまだ一ヶ月なのに身投げを図る男と、学生服のまま橋の下の影で弁当であったであろう握り飯を食らう男の三人である。コミュニケーション能力に何かしらの致命的な問題があるに違いない。さもありぬべし。そんな男たちが軽快なトークをすることができようか。いや、全員が脳内でシュミレーションを重ねていたことに違いない。実際そうだったのだから。


口火を切ったのは鈴木である。何がどうしてこうなったのかということを、私と佐々木の方を見て言った。当然である。飯を食っていたら空から男が二人落ちてきたのだ。大層驚いたことであろう。


しばらくして、佐々木とやらがぽつりぽつりと喋り始めた。色々言っていたが要約すると、入学してから誰とも話ができず友達がいないことを憂いて今生に別れを告げることとしたのだそうだ。


その後の我々の沈黙は、同情でも憐憫でもなく、ただただ呆れていたからである。


「夢見ていた高校生活が初日から出鼻ボッキリ折られて、クラスにも馴染めず話しかける人もおらずで一ヶ月経過してしまったことに絶望するなんて情けない話があるかこの愚か者」と口にしようとした瞬間、振り上げたものが飛来骨ひらいこつよりも遥かにでかいブーメランであることに気づき、言葉ではなく胃液が飛び出るところであった。


揃って胃の内容物を吐瀉としゃろうとしている二人を見て、鈴木は言った。


「なんかよくわからんが、今日はもう遅いしここじゃなんだ、学校でまた話そうではないか。月曜日に視聴覚室前で集合ということで」


街灯で光る丸いメガネの奥で微笑む鈴木氏は、高校一年生とは思えぬ寧ろ好々爺とも見える姿であった。猫背で丸まった背中で余計そう見える。

鈴木氏が立ち上がったところで、謎の初顔合わせはお開きとなった。


**********


そんなこんなで放課後である。三人とも別のクラスのため、登校後に佐々木と別れてから誰とも会話せずに過ごしたこともあり、一限から放課後までの記憶が一切ない。フランスの哲学者ポール・ジャネは、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例すると説いていたが、今こんなに短く感じているなら社会人とはどれほど俊敏な動きをしているのであろうか。


教室の清掃を終え、ぼんやりと廊下を歩いていたらいつの間にか視聴覚室に着いていた。

我が校の視聴覚室の看板には、明らかに白く塗りつぶした痕がありその上から丸ゴシック体で視聴覚室と書いてある。廊下でしていたうわさ話に聞き耳を立てていたところ、どうやらここはもともとAV(Audio Visual)教室と書いてあったらしい。ある時、学校のはるか上層部に存在する闇の組織の意志によってAV教室は視聴覚室に変えられてしまったらしいのである。そんな思春期の中学生のような連中に牛耳られているとはこの学校も終わりだなと、立ち聞きをしながら私はそう思っていた。


「やあ結城氏。鈴木氏はまだかな」しばらくして、佐々木が到着した。


「そのようだ。視聴覚室が開いているわけでもないし、どういうことだろうか」

私は訝しみながら周囲を見渡した。


校舎は正方形で中央が庭となっており、視聴覚室があるのは校庭に面した一辺にあたる。視聴覚室のほかは社会科や理科の準備室ぐらいしかなく、教室のない階であるため人気のないひっそりとした場所である。


することもないので窓の外に見える校庭と沈みゆく夕日を眺めていると、突然背後から声がした。


「やぁ、両氏。こっちだよ、入って入って」

鈴木だった。視聴覚室の隣りにあった謎の引き戸の隙間から顔をのぞかせ、手招きをしていた。


視聴覚室は広いためやや端によっており、その先の廊下の隅は女子トイレがある。鈴木の顔を出していた扉とは、視聴覚室と女子トイレの中間にある扉であり、明らかになにかの教室があるとは思えないスペースである。


「なんだ鈴木氏、女子トイレの隣から顔を出して。やあ、さては覗きを講じ、あまつさえ我々を共犯とせんとしているのかこの破廉恥はれんちめ」私は憤慨しながらも部屋の中に足早に入った。


「そこのパイプ椅子に腰掛けてくれ給え。ようこそ、我が文芸部へ」

鈴木はそう言って、恭しく手を差し向けた。


部屋の中は3畳ほどの空間であった。3畳といっても、横でなく縦に並べた畳なのでえらく細長い部屋であった。刑務所の独居房ですらまだ幅がある。

部屋はコンクリート打ちっぱなしという無骨な壁面で、部屋を圧迫している壁側に一列に置いてある1メートル程度の高さの棚には、何が入っているのかわからない雑多な袋が詰め込まれていた。部屋の中にはそれ以外にぽつんと机が一つあり、その上に骨董品のようなデスクトップパソコンが鎮座しており、唯一これだけが『文芸部』であることを担保していた。


「文芸部だと貴様、さては一見地味だけどグラマラスな眼鏡の先輩につられて入部して女子部員たちとキャッキャウフフをしたいなどという不埒な思いではなかろうな」


「女子部員と官能小説を書きあってお互いに読み聞かせて妄想を膨らませあうなどなんと破廉恥な」


「女子トイレの隣の隠し扉の中で何を企んでいる貴様覗きでは飽き足らず一切をパソコンで打ち込んで持ち帰っているなさては」

などと、いつそんなに仲が良くなったのか不明であるが結城と佐々木両名がまくし立てていると、何も意に介さない様子で鈴木は言った。


「ここは元々視聴覚室に直結した準備室でね、今はデジタルの時代だからVHSとかディスクを使用することもないからただの物置なんだよ」


なるほど、言われてみれば視聴覚室に接した壁に不自然な扉がついている。


「それに乳繰り合うような女子はおろか、この文芸部の部員は僕一人だよ」


まさしく細長い独居房である。我々が興奮を鎮めて促されたパイプ椅子に座ると、鈴木はパソコンの前にあったパイプ椅子に座った。なぜかついている杖と猫背が相まって、もはや暖炉の前の老人にしか見えない。


「鈴木氏は足が悪かったのか」私はおずおずと聞いてみた。


「いや、これはただの趣味だよ。ステッキってカッコいいだろう?ちなみに徒競走は50メートル6秒半だ」


やはり変なやつだ。


「中学時代から文芸部に所属していてね、高校でも続けたかったんだが廃部寸前だと言うではないか。顧問に話を聞いてみたら入りたいなら別にいいということだったので入部と同時に部長に指名されたのだよ。普段使われる部屋でもないし鍵は合鍵を僕が持ち歩いていて、いつでも入ることができる」


「そんなこと現実にあるんだな」佐々木は言った。


「中学の学年首位で推薦入試だった身の約得かね。教師受けは良いが、いかんせん若者受けは良くない」卑屈に自嘲する鈴木の顔は確かに若者受けするものではなかった。


「君たちを呼んだのは他でもなく、この部へ入部して欲しいんだ」鈴木の眼鏡の奥がキラリと光った。

「我が校の部活動は1年以上3人未満だと次年度に廃部となってしまうんだ。僕はこのスペースが心地良いもんで、手放したくない」

「世を憂い身を投げようとするもの、そこに偶然立ち会って巻き込まれたもの、その下に孤独に居たもの。似たような立場のものが数奇な運命で出会ったんだ。きっと僕たちなら上手くやっていけると思うんだ」

「別に活動はなくてもいいよ。コンクールとか興味ないし。所属してくれればオッケーで、あとは放課後にこの部屋に来てくれれば良い。はい、入部届とペン」


自分の思惑を滔々と語り入部届を出してきた鈴木に対して、結城、佐々木両名は何よりこんなに喋るやつだったのかということに度肝を抜かれていた。


入部届を差し出され、結城と佐々木は顔を見合わせたが、別に断る用事もないし、寧ろ孤独にハイスクールライフを過ごす必要がなくなることへの安堵感から入部届を受け取った。


「入部届は本人が顧問に提出する決まりになってるからね。じゃあ、これからもよろしく」鈴木はニヤリと笑って手を差し伸べてきた。こんなに悪役じみたやつがクラスに馴染めるはずがあろうものか。


「あ、記念にお茶を飲もうぜ。ストックあるから」ふと思い出した鈴木は、壁の棚の一箇所にあった箱からペットボトルのお茶を取り出し、我々の足元に立てて置いた。「机がないから、すまんね」


相手のホームで一方的に話を進められ変な心地だが、私はフッと笑って手を差し出した。

「結城正恭まさやすだ。改めてよろしく」


「佐々木正太郎、よろしくな」


「鈴木はじめだ、ふたりともありがとう」


部屋がひんやりしていたせいか、お茶は思ったより冷えていた。

なんでもないことだが、自分の高校生活がようやく少しだけ動いた気がした。ただ友だちができた程度のことなのだが、なぜか私には人生においてこれがとても重要なことと思えたのだ。


「我ら天に誓う。我ら生まれた日は違えど、死すときは同じ日、同じ時を願わん」


「なにそれ」佐々木は言った。


「横山光輝版だね」鈴木はクククと笑った。


変な奴らの、女子トイレの隣の部屋の誓いである。

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