第11話 ラストバウト

 雨は、いかなる時も平等に街に降り注ぐ。

 灰色のビルの群れが被ったダメージは大きく、瓦礫や車両、アスファルトの残骸は未だに撤去しきれていなかった。

 それでも人々は、日々を生きていた。

 仕事をして、学校に行き。

 彼らの心の内側にあった、あの強烈な『悪』への憎悪は、今はしずくとともに流されていた。

 平常心を保つための賢明な努力でもあったし、また別の要因もあった。


 市街の中心では、魔物たちの引き起こしたテロ行為に対する慰霊祭が執り行われていた。

 色とりどりの花束が会場を飾り、犠牲になった者たちの遺志を継ぐ者たちが、ただ静かに祈っていた。

 そのさいごには、市長が壇上に上がり、スピーチをすることになっている――。


「なんか、わざわざ、ああいうのねぇ」

「嘘っぽくなるよね。そっちのが失礼じゃない?」

 近くの大学に通う女学生たちが、その様子を通り掛けに眺めていた。

「――ね、どう思う」

 そのうちのひとりが、別の一人に声をかける。

 物思いに耽っていた彼女は、遅れて気付いて、顔を上げる。

 しばらく慌てた様子をみせたあとに、答えた。

「うーん。どうなんだろうね。わかんないや、いいのか悪いのか」

「なんだそりゃ。いっつも即断即決なのに」

「うん。そうなんだけど……決めつけすぎるの、よくない気がして」

 友人たちは、すこし思案する顔をしたが、まもなく、気にしないことにしたようだった。

「ま、いっか。行こっ。あそこマジで混むから」

「うん、行こ行こ」

 そこで、『彼女』は足を止める。

「……あ。ごめん、私きょう、行けなかったんだった」

「えーなにそれ。例のボランティアってやつ?」

「もっと早く言ってよー」

「ごめんごめん。あとで写真送ってね。ごめん!」

 彼女は優しかったので、友人たちも優しかった。それだけの話だ。

 まもなく別れて、彼女はひとり、目的地に向かって、傘をさして歩き始める。


 そのボランティアを始めたのは、『あの日』以来だった。

 ――奇妙な記憶の断裂があって以降。

 それ以前のことは不思議とうっすらとしか思い出せないし、なんだか、それまでは別人だったような気もする。交友関係も何もかも。

 だけどおかしな話で、それはそれで別にいいような気がしているのだ。

 あの靄がかかった記憶のなか、彼女は――その黒い、巨山のような『彼』に安堵を覚え、甘えていたような気がする。

 それが誰なのかはやっぱり分からない。でも、とりあえずは、分かるまでは……自分の守護聖人、くらいに思うことにしていた。

 たぶん、深く考えすぎないより、そっちのほうが、良い付き合いが出来るから。

「……おっと」

 メッセージが入った。

 見ると、ボランティア先に新しい利用者さんが入ったとのお知らせ。

 そりゃ、盛大に歓迎しなくっちゃ。

 この世界はつらいし苦しいけど、だからこそ、乗り越える価値がある。

 きっと誰にだって。


 彼女の足取りは、軽かった。



 魔物を生み出すのは決して楽ではない。

 それは喉の奥に手を突っ込んで吐き出す行為に等しい。

 彼が、彼一人が、それを今日まで続けてきた。他の誰もが、舞台を降りていった。

「なぜ。自分だけ生き残ったのだろう。考え続けてきた」

 雨の路地裏。魔物の毒素が蔓延する不浄の大地。

 影が差し込んで、来訪者の存在を告げる。

「そしてなぜ、こんなことを続けてきたのだろうと。自分でも不思議だったが――いま、わかった」

 顔を上げると、そこに、彼は居た。

 

 黒い装束に覆われた大きな男。

 彼はいつだって大きかった。見かけのみすぼらしさなど、どうでもよく。大事なのは本質だった。いささかも変容していない。

 彼は彼のままで、そっくりそこにいる。

 怪人は亀裂のように笑い、歓迎する。

「……お前が諦めていないから、俺もそれを、拒んだのだ」

 彼は――否定も肯定もしなかった。


 少し離れたところでは、普通の暮らしがある。

 求めても手に入らなかったもの。そこに――娘が居る。

 何よりも望んだものは、ついに、こちらにやってきてくれなかった。

 だから、彼はある意味では救済なのだ。そっと肩に手を置いてくれる存在。

 怪人は、強迫観念をようやく捨てることが出来た。

 彼――ヒーローは、ゆっくりと近づいてくる。

 両手を広げて、迎え入れる。

 相手の腕がぼこぼこと脈打って、自分と同質のものを吐き出している。

 双方、もう長くない。


 相手は、そこではじめて口を開いた。

「決着をつけよう。あのひかりのなかに、おれたちの居場所はない」

 ――同意した。


 怪物としてのさいごの叫びをあげて、外套を脱ぎ捨てて、そのおぞましい肉体をあらわにして。

 そして奴は、その黒いジャケットを雨風にさらし、どこかにやった。


 あとにのこったのは。

 ただ一体の怪人と――赤い、かつては太陽、いまは血の色を象った装束を着込んだ、ひとりのヒーローだった。


 ざああああああああああああああ。

 ざああああああああああああああ。


 見つめ合い。

 少しだけ、互いに、笑った。


 コンマ数秒後。

 最期の戦いが始まった。



「クワバラさん。それじゃあゆっくり……動かしますね」

 ベッドから、車いすへ。

 施設の人は親切で、何も知らない自分に、丁寧に仕事を教えてくれた。

 むかし――社会変革をテーマに勉強していたような気がする。

 だけどそれは遠大な計画で、すぐ手が届くものではなかった。

 いま、自分がやっていることは、その第一歩の、そのまた手前の第一歩。

 そこに、やりがいがあるとは思っていなかった。多くの人がそうだろう、気付いていないのだ。

 本当の変化は、誰かが誰かを気遣うという、当たり前のことから始まるのだと。


 メインのフロアに向かった。

 大勢の人たちが、かろうじて生きている人たちが、居る。

 そこでは会話が交わされることも少なく、ただ静かな時間だけがある。

 クワバラさんは、身体がほとんど動かないし、呼吸にも機器が必要だけれど、喋ることができた。

 きょうの彼の希望は、外を眺めることだった。雨なのに、いいんですかと聞くと、機器の内側で、彼は微笑んだ。


「何もこんな日にやらなくたって、ねえ」

 クワバラさんと一緒に雨を眺めていると、先輩職員のひとが話しかけてきた。

「式典、ですか」

「そうよ。どうせならもっと日取りを決めてからやったほうが……たくさん集まるのに」

「あの人たち、なかなか時間取れないんですよ、きっと」

「……そうよねぇ」

 先輩はまだ、何か言いたげだった。雨の話がしたいのではない――。

「あのね。納得がどうも、いかないのよ」

「何が、ですか」

「いやね。ほら。式典、戦いで犠牲になった人たちを、って言うじゃない。それで、『怪人』も対象に入れるってのがさ。意味が分からないな、と思って」

 なぜだろう。

 胸がざわついた。自分に一切関係がないはずなのに。

「それは……」

「だって怪人でしょう。大勢の人を……その。そんなの、許されちゃいけないでしょう。幸いにも、私の周辺は誰も被害に遭ってなかったけど」

「……生まれ変わったら、やり直せるかも……しれないから……?」

 そう返す。

 途端に、雨が、強くなり始めた。

 ざああああああああああああああ。

 ざああああああああああああああ。

「――? だって、怪人だよ?」

「……えっ」

 ざああああああああああああああ。

 ざああああああああああああああ。

 打ち付ける雨が、激しく窓を叩いている。

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