第10話 いばらの涙
彼がやってくること自体は、予測できていた。
それでも、そのボロボロの姿を見れば、動揺は必至だった。
「バカ……」
「知ってる」
外が騒がしい。疲れ切った自分には、その程度の認識しか持てない。
ぐったりして、ろくに動かせない視界のなかで、黒い大きな影がゆらめいて、後ろ側にまわったのを感じた。
拘束が解かれる。
背負われる――その時。血を吐く。
足元に、どろりと赤いもの。
「――時間が、ない」
どこかで感じていたこと。
だが、次の瞬間。
膝をついた彼の腕を覆っていた袖が裂けて、おぞましい色彩の肉の蔓のようなものが飛び出した。
それは皮膚の上層をのたうち、赤子の悲鳴のような音を発した。彼は、途端に崩れ落ち、聞くに堪えない声で叫び始めた。
痛み――ひきつり、悶え。
だが、何もできない。彼の腕の異形が暴れ狂い、制御不能な奔流となって溢れようとしていた。
動揺していると、叫びのなか、僅かな声。耳をそばだてると。
「ポケットの……右、内側、鎮静剤……」
泣きそうになりながら、従った。しばらくの格闘の末、取り出す。小さな、液体で満たされたプランジャーのようなもの。
「うて、腕に……ため、らうなっ…………」
震える手を覚悟で黙らせて、そうした。
――液体が怪物に染み渡り、数十秒。永遠にも感じられた、そののち。
それは、枯れ堕ちた。赤黒いかさぶたのようになって、腕にはりついて静止。彼は大きな呼吸をし、ゆっくりと苦悶を押しとどめていった。
「あなた、『時間がない』って、まさか……」
「……行くぞ」
「ちょっと、でも」
「――『頼む』」
瞳をのぞいた。
――ゾッとした。
意志。彼は生きている。光がある。
それは希望ではなく、別の何かに向かう、重油のようなぎらついた光。彼を動かすものがなにか、あの腕がなんなのか。すべてに説明がついてしまう。
彼の背中に背負われることに抵抗しなかったのは、その光に身体がしばりつけられてしまったからに他ならなかった。
無数の兵士たちが倒れている暗いフロアを、影を背負う巨体が進んでいく。
彼女は彼らが苦痛に呻きながらも、誰一人として息絶えていないことに改めて驚いた。
――殺さないよりも、殺す方が簡単なことはよく知っていた。
簡単な道は絶対に選ばない。その先で彼は、さらに簡単じゃないことをやろうとしている。
それを――『狂気』と呼ばずに、なんと呼ぼうか。
地下についた。
一台の車。
「これに乗るんだ」
「あなたが……運転するの」
「いや。おれは……ぐあっ」
再び蹲り、腕を抑える。自らポケットから、もう一本プランジャー。押し込む。
口から、血ですらない液体を吐き出した。ごぼごぼという喉の音。
おさまるまでしばしの時間。
――彼に対し泣き叫び、制止するのは簡単だったが、彼女もまた、簡単ではない道を選んだ。
深呼吸し、向き合って、問いかける。
「教えて。あなたは、何をやろうとしているの……いや、違う。『なにになろうとしているの』」
「……お見通し、か」
彼は笑うように口を曲げたが、そんな風には見えない。ただ疲弊した亀裂があるだけだ。
「……おれの腕には、既に魔物が巣食っている。勤め先で襲撃を受けて撃退した。その時、入り込んじまったらしい。そいつが、戦ったせいで増殖した」
「っ、だったら、私のせいで――」
「おっと、そいつはなしだ。おれの、おれたちの立つ瀬がなくなるだろう」
彼は唇に指を持ってきて片目を瞑った。小さい子を諭すように。
現状と釣り合っていなくとも、彼にとっては、それと分けているつもりはないとわかった。
「時間がないってのは、そういうことだ……おれはどうも、ヒーローとして完全にリブートはされないようだ。安易な復活は、コケるからな」
「そんなこと言ってる場合じゃない。あなたが怪人になったら、私は――」
「――お前は、それを見ない」
彼は。彼女を抱きしめた。
先ほどまでの動きとは比べ物にならないほど速かった。全盛期のかがやきが一瞬、そこにあった。
大きな掌が、彼女の額にそっと広がって。
きれいな――星空のようなひかりが、広がった。それは優しくあたたかく、彼女を包んだ。
だが、そんな風には思えなかった。
いま、何をしたのか、分かったからだ。
強引に引きはがす。
信じられないという目で睨みつける。
彼は、動じない。凪いでいた。
「あなた、いま――」
「ああ。おれ本来の……『ちから』を使った。攻撃の巻き添えを喰らった人たちにいつもやっていた、あの『おまじない』だ」
怪人たちがもたらす、耐え難い恐怖。
それを癒すため、ヒーローは自らが発する光によって、それを取り除いた。
あとには、自分を救った存在に対する僅かな記憶と憧れだけが残る。
「なんで、なんでそれを私に。そんなことをしたら、私はあなたを忘れてしまう、永遠に」
「それでいい――『それこそがねらいだった』……」
頬を叩いていた。抵抗されなかった。
自分の手のほうが痛かった。
むしろ、微笑みを返されて。怒りが口をついてほとばしった。
「ふざけないで。それがどれほど残酷なことか分かってるでしょう。あなたは私の消えない楔。どんな時だって支えになってくれた――私の一番大切なひと。それなのに」
「おれは――そんな肩書き、ふさわしく、ないよ」
優しく笑った、彼の腕。
そこに、再びうごめきはじめていたもの。
もう、抑え込むこともしなかった。
「……あ、ああ」
「――おれ達と怪人は、同じ力が根源だ。だから、使えば使うほど、一緒になる。でも今は。それが有利なんだ。分かるだろ。惹かれ合うことで、奴の居場所を突き止められる」
この男は。
――かつての宿敵で、その後の自分の恩人であるこの男は、はじめからそれを狙いにしていたのだ。
足元にぽっかりと穴が開いた気がした。
その気遣いは、深い深い断絶だ。
わたしはあなたと、いっしょになれない。そう意味するからだ。
「なんてことを。あなたは、もう二度と」
「そうだ。もう二度と、君に会うことはない。あと数分で君は意識を失って、この車で運ばれた先で、新たな人生を歩むんだ」
「っ、そんなこと、私望んでない、勝手に決めないでっ――」
前に進もうと、した。
触手が、目の前の床を打った。
打痕による線引き。永遠の。
「――駄目なんだよ。おれが新たな、魔物たちの源になる前に。すべてを終わらせる必要がある」
「父を……倒すの」
「そう。お前の父さんを、『殺す』。いかなる手段を用いても」
その言葉に秘められた殺意。
自分や、あの兵士たちを生かしたが、父だけは違うという意思表示。
そこに、入り込む余地はなかった。
「その後は、どうするの……」
「……」
「答えてよ」
「俺たちは、ひとつになる」
「見分け、つかなくなっちゃう」
「それでいい。俺が『正義と悪』の構図を完結させる。二度と、そんな概念が出てこなくて済むように」
そこまで聞き届けて。
彼女は、萎えていくのを感じた。
もう、彼に何を言っても駄目なのだろうと悟った。
俯いて、涙を流す代わりに言った。
「……じゃあ。なんのために。ヒーローは居たの。この街に、この世界に。この、数十年間に」
「ヒーローの居なくて済む世界のために、ヒーローは居たのさ」
その瞬間から。
少しずつ、意識が剥がれ落ちていくのを感じた。
遠のいていく。
そんな自分の身体を彼は支えて、ドアを開けて、座席に固定する。
なにかを運転席で操作するのがわかる。
これが白い帆船になるということ。新しい自分。彼らのことを知らない自分――ただの女子大生。あるいは、もっと遠くの、もっと知らない赤の他人。
行き着く先はわからない。確かなのは、そこに彼らが居ないということ。
「なんて、身勝手で、傲慢で……あの頃から、なにひとつ、変わっちゃいない…………」
あの頃からそうだった。
闇のなかから生まれた者たちは絶対に発することのできない強い光が地上を照らして、多くを救って。あるいは多くの者を巻き添えにして。
そのうえで、誰も彼もの人生をぐちゃぐちゃにして。それがヒーローであり、正義の味方。神に近しい存在でありながら謙虚であろうとする、その弁えのなさ。
ゆえに多くから憎まれて、やがては誰にも報われることもなく、燃え尽きていく。
だけど、その先で、ヒーローは復活する。灰から不死鳥が飛び出すように。そうなったとき、ヒーローはいよいよ神になる。
神は新しい世界を創り出す。永劫の平和の世界。そこに神は居ない。
あるのは、人びとの世界。人々が自ら動かしていく世界だ。
ああ、けれど。
いま、彼はそんな、『ものがたり』すら否定する。
ヒーローすら、神すら否定するなら、行き着く先は完全なる無だ。始まりも終わりもない牢獄に、彼は自ら足を踏み入れる。
「厭だ――行かないで」
「おわかれだ。さようなら」
「いか、ないで」
遠のいていく。
すべてが。
憎んだ、怒った、嫌った――それ以上に、感謝し、愛した。
それすらも失おうとしている。
手を伸ばそうとしたが、もう力が入らない。
忘却の眠りに向かって加速する。エンジンがついた。ドアが閉まる。彼の姿がぼやけて見える。頬を涙が伝う。
――いやだ、私はアラクニア、あなたに殺されなきゃならない……。
そう思ったのに、もう糸も出ない。
ただの人間になっていく。ゼロになっていく……。
さいごに、網膜に彼が浮かんだ頃には、その姿は背を向けていて。
ゆっくりと、小さく、遠ざかっていった。
涙が頬を伝った。
――にんげんの、なみだが。
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