第7話 MY NAME IS(DIRDY VERSION)

 どれくらいそのままだっただろう。

 意識を取り戻したあと、雨のなかを、歩いて帰った。

 アパートに、灯りもつけずにはいって、そのまま座り込む。

 こことも別れることになる。

 ――正義をなすのは、暴力に頼らなくとも可能だと思って、はじめたくらしだった。

 ヒーローがすべて、不幸になる必要はない。社会の救済と自己実現は、きっと両立が可能だ。そういう世界にしてきたという自負があったから。

 しかし、それはわずかな期間で終わってしまった。

 結局、誰かが席に座れば、別の誰かが座れない。グラデーションなんてものはない。

 頭がひどく痛い。麻酔の効果がまだ続いているらしかった。

 

 地獄のように熱いシャワーを浴びる。

 傷だらけの身体を見下ろす。

「こんな身体で……説得力があるものか」

 わらってみせようとしたがうまくいかない。

 洗面台のガラスを割る。ひびが入り、手の甲が裂けて血が出た。自分の顔がいくつもに分裂した。怒っているようにも悲しんでいるようにも笑っているようにも見えた。

 ――彼は、怒っている自分を選ぶことにした。


 ……後輩にしてやられたとき、遅れをとった。動揺で動きが鈍るなど、かつてはなかった。

 勘を取り戻さねば。


 それから数時間、たっぷりと眠った。万全の状態で挑まねば敗走する。二度目などありはしない。一度目で終わらせるには、自分を完全にする必要があった。 

 食事をとって、その後、時間をかけてトレーニングを行った。

 筋肉が悲鳴を上げて、足元には汗の池ができたが、効果はあった気がする。もう、痺れはなくなっている。

「……」

 ただ、腕部に、不思議な違和感。

 なにかが、入り込んだような。

 ――時間をかけて、その『事実』を理解し、消化した。


 そのあとには、朝が来ていた。もう一度シャワーを浴びたあとに、入念にタオルで身体を清めながら、テレビをつけた。


 そこでは、ここ数年見たこともない人々の様子が映し出されていた。

 ――デモの、様子。こんな遅い時間だというのに。

 プラカードをもって行進している。

 『怪人』たちへの怒りを、憎しみを掲げている。自分たちは屈しない。決して。そんな強い決意。

 別の局では学者たちが討論会を行っている。この現状を招いたものは何か。

 解決すべきことを抑え込んできた行政の怠慢か、それとも人々の負の欲望が再び顕在化した結果か。

 議論は平行線をたどって、殺伐とした雰囲気が続いていた。

 どれだけザッピングしても、おなじだった。

 もう、平穏は戻らない――終わらせない限り。

「おれが……やらなければ」

 さて、いよいよだ――ロッカーのカギを開けるときが来た。

 そのとき。


 電話があった。

 着信元を確認し、一瞬、出るかどうか迷ったが、けっきょく良心に従った。


『ああ……つながった。良かったです』

「どうされたんですか……こんな朝早くに」

 同僚だった。

 確か、深夜から早朝のシフトに入っていたメンバーだ。声は動揺していた。

『すみません、ただ、気になったので。ニュース見てますか。物騒な話で』

「えぇ。いやなものです」

『あなたのアパートの近くでも、ありましたよね。何も起きてませんか』

「いまのところは」

『よかったぁ。本当、あなたが急に帰ってから、みんなで心配していたんですよ。利用者のみなさんともども』

 ――てっきり、急な欠勤をとがめられるかと思っていた。

 かえって、動揺する。

 なんらかの決意が揺らぐ気がした。それ以上聞くべきではないのでは、とどこかで思った。

 だが、あたたかな、思いやりのこもった声が、そうさせてくれなかった。

「すみません。本当に」

『いや、いいんです。あなたが色々、事情を抱えてるのは知っています。でも、いいんです。また顔を出してくださいね』

「…………」

 胸を打たれていた。

 そして、自身の信念の原点を反芻し、それがあらたなかたちで生まれ変わることを自覚した。

 ――ああ。おれは。この人たちの生命を守りたいだけじゃないんだ。この人たちの、このあたたかさを守りたい。

 ――正義とか、悪とかじゃない。そんな単純じゃない、灰色の中で生きている人たちの、素朴なあたたかさを守りたいのだ。

 ――あんなふうに、一つの感情に固定化されて、呑み込まれる、この人たちは……見たくない。

 ――だからこそ、おれは。

「ええ。必ず……戻ります」

 嘘だ。

 おれは嘘をつくし、裏切る。

 だけどそれはおれじゃない。職場で働いている〇〇さんじゃあない。

 おれの名は。おれの本当の名は――。


 彼はいくつかのやりとりをして、相手に感謝をした。

 そして、いかにもな同僚との気安い挨拶をした後、通話を切った。


 再びロッカーに向き合って、暗証番号を入力し――かつての装束と向き合った時には、もう迷いは完全に消えていた。

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