第6話 ネバー・ゴーイング・バック

 醜悪な姿だ。時間が経過しない段階であれば、へどろをそのまま人型に押し固めたようにしか見えないだろう。誰もが恐怖する原初のかたち。

 奴は自分の攻撃が受け止められたなどとは思わなかったようで、後ずさった。

 体勢を立て直すつもりらしい。

 させるか。足払い。

 倒れこむ。ガラス片が散る。向き直りマウント。こぶしを振り下ろす。

 回避される。

 後方へ。

 手近な瓦礫を投げた。

 前転とともに回避。脚部が縮みこんでいる。床を掻いている。飛びかかってくる気だ。

 腰を落とす。

 奴の姿が眼前から消えた。

 ――視界に影。やつはそこにいた。

 再びの手刀が、今度は上空から振り下ろされた。

 だが。それも回避。動きが大振りすぎた。

 そのまま、右こぶしを前方へと突き込んだ。

 やつの腹部に直撃。どろどろの身体が波紋のようにたわんで、叫び声が漏れる。

 捩じりこむ――気力を、込めるようにして。


 やつは吹き飛んだ。風が裾を揺らす。

 壁に、大の字になって叩きつけられる。

 周囲にひびが入り、ずるずるとずり落ちていく。

 すかさず前方へ。

 完全に倒れこむ直前に――奴の眼前へとやってきて、その首を掴んでぎりぎりと引き上げる。

 不可解な声を出しながら、手足と思われる部位をばたつかせてみせる。

 だが、まるで彼は動かない。鉄芯のように直立したままだ。その目にはただ、怒りがあった。

 怪物はその憤激を察知したのか、首から手を剥がそうとする動きをやめた。

 そのかわり、片方の手をまたするどくとがらせて――がら空きになっている胴体へと射出した。

「っ……!」

 激痛。思わず息が漏れそうになる。

 奥歯を噛みしめて耐え抜く。わずかに視線を下へ。手刀。哄笑が聞こえた気がした。

 ふざけるな。

 片腕を、手刀の側へ。つかむ。

 あらん限りの力を込めて、捩じり上げた。

 ずるりと、腹部から手刀が抜ける。おかしな方向に曲がったその腕。今度はそれを、相手の腹部に向けた。自分以上であろう痛みを受けて、怪物は絶叫した。

 さらに抵抗が激しくなる。しかし、彼はより首を絞める力を強くした。いささかも緩まない。

 ――突き刺す。自刃するかたちで。

 何度も。何度も何度も。

 人間ならとうの昔にショック死しているであろう、残虐な行為。しかしもう、こいつは人間じゃない。

 だから、やるのだ。

 彼の耳にはもう何も入ってこない。

 ただ機械のように、その処刑を繰り返した。


 しばらく、それがつづいたあと。

 ――怪物は、何も叫ぶこともなく、だらりと四肢を投げ出して、崩れ落ちた。

 ぼこぼこと身体があわだって、臭気を放ちながら、消滅する。

 怪人の殺害が、おわった。

 彼は少しの間たたずんでいた。

 咎める者は誰も居なかった。みんな死んでしまった。

 周囲には静寂だけがあった。


 シェルターを出て、通話をつないだ。

「……ええ。私です。申し訳ありません。しばらく、お休みをいただきます」

 とまどいと、いつまでになるのかという問い。

 わからない、もう戻れない、とも言えなかった。

 曖昧な言葉しか出てこないことを恥じた。

 なにより、施設の人々が、そんな自分を本気で案じているであろう現状に胸が痛んだ。

 ――だからこそ、やらねばならないのだ。ここで、ぶれるわけにはいかない。

 さらにいくつかの詫びをいれたあと、彼は通話を切った。

 その後はもう振り返らず、シェルターをあとにした。


 その場が炎に包まれて全焼し、何も残らなくなったのは、僅か十数分後のことだった。



 報道は三日三晩続き、徐々に街の人々にも恐怖が蔓延し始めていた。

 肌で感じるもの――うんざりしたり、心を痛めたり、ということ以上のもの。

 それは、『悪』への憎悪。誰かを傷つけたり、あげくに殺したりということへの当たり前の感情。皆が忘れていたものが、この騒動を通じて、蘇ろうとしている。

 寝た子を起こすようなものだ。気まずくて、不快だ。かつて持っていて、いまはもう捨て去ったはずの、野蛮な感情なのだから。

 ……そんなのはごめんだ。見たくない。

 彼女を探す一番の動機はそれで、個人的なものだ。ブレているとは思わない。

 皆から支持されたことで孤独ではなかっただけで、義憤や『正義』なんてものは、出発点はあくまでも独善だ。

 それを分かっているからこそ、ひとりで彼は駆けまわった。まるで時代錯誤の探偵だ。至るところに聞き込みを行って、かつての引退済みの仲間たちの伝手も駆使して、彼女を探した。

 泥だらけになって、何度も悪夢を見た。それでも決してやめなかった。やめないことがつぐないだ。彼女を決めつけの地獄から救うための。


 そうして、ようやく。

 ――その日は、ひどい雨が降っていた。

 深夜。たまにタクシーが通るくらいで、人通りも限られているストリート。

 彼は、シャッターの閉まった店の前に人影があるのを見つけた。

 傘もささずにフードを被っているそれが、彼女であることには、すぐに気付く。

「――ちかづかないで」

 吐き捨てるように。

 その言葉は絶大で、彼は傘を取り落として立ち止まってしまった。

「……私は。父に探されている。あれは、私をおびき寄せるためのもの。父は未だ夢を見てる。かつての『悪』をもう一度望んでいる。私に、それを手伝わせたいのよ」

 自分が考えつくことに、聡明な彼女が辿り着いていないわけはない。だが、それでも。

「そんなこと、させるわけにはいかない。君を再び戦わせるなんてことは、あってはならない」

「じゃあ、どうしろっていうの。このまま逃げ回っても、犠牲が増えるだけ。これ以上、父の幼稚な遊びに付き合うわけにはいかないの」

「……それで彼のもとにつけば、君はもう戻ってこれなくなる。そうなれば、今以上に、この街が惨劇に覆われる。君は……その一端を担うことになる」

「考えがある……父を殺す。私の手で」

 ――暗殺。

 アラクニアがかつて、得意としたことだ。

 そのせいでなかなかつかまらず、苦戦した。

 今度はそれを、自らの意思で行おうというのだ。

「無茶を言うな。奴は狡猾だ。君の狙いはすぐにばれてしまうぞ」

「だったらどうするの、あなたは」

 彼女は顔を上げた。フードの下で、笑っているように見えた。皮肉に、自嘲するように口の端を曲げて。

「やらせない。君を行かせない。おれの仲間に保護させる――奴を殺すのはおれだ」

「……結局、そうなのよね。あなた達にとって私は、ただのトロフィーでしかない。私を手元に置いておけば、自分の存在が保障されると思ってる」

「そんなことが、あるものか。きみは心を痛めて、余裕をなくしている。今すぐにでも戻ってこい――」

「――厭だッ!」

 強い反発。

 同時に――彼女が腕を突き出して、袖口から、糸が伸びた。

 完全に無防備だった。

 彼は胴体をがんじがらめにされて、その場に倒れ込んだ。

 滝のような雨が、容赦なくふりそそぐ。

「もう、ごめんなのよ……あなた達のやってることは、大学生の討論会でしかない……もう、この世界は、そんなもののために動いちゃいない……みんな、今を守るために必死なの。

私だって、それを守りたい……」

「だったら――なおさら行っちゃならない。君のことを、誰も本当の名前で呼ばないぞ、『アラクニア』! 君は怪人として怪人を殺す、ただそれだけになる!」

「それでいいじゃない。怪人同士の内輪もめなんて、よくある話でしょう。当時のことを適当にしか知らない連中には興味のない描写よ。それで構わない……」

「させない、させないぞ――」

「……せいぜいそこで、もがいていなさいよ! そうすれば次に襲うのは、私の毒液! スーツも装備もないあなたが、私に勝てるわけがない!」

 立ちふさがる彼女は完全にアラクニアだった。

 ――雨が、その頬を濡らし、伝っている。

 手を伸ばせば、拭い取れるだろうかと、必死にもがいたその時。


「――居たぞ!」

「すぐに確保だ!」

「全隊、かまえっ!」

 激しい光。視界が奪われる。

 彼女がその前に立った。

 何人もの、銃器を構えた者たち。発砲の連続音。やめろ、と叫んでいた。

 ぐったりと雨の中に倒れる彼女。

 這いずってそちらに向かおうとしたとき、革靴がそれを阻止した。

「……お前」

 後輩だった。

 すでに、彼女の姿は見えない。光の源はいかめしい数台の装甲車のようだった。

「先輩。すみません。俺らの仕事、こうなんですよ」

 銃口、こちらへ。

 叫んで止めようとした。

 連れ去られていく彼女も、何も出来ない自分の現状も。

 ――甲高い銃声。

 麻酔弾。あたまがしびれて、意識が遠のいていく。

「――撤退だ! 一週間は眠れないとおもえよ!」

 かつてのサイドキックの少年が、ずいぶんと立派になったものだ。

 薄れゆく意識のなかで、そう思った。


 それから、その場からすべてが去ったときには、彼は雨のなかにうずもれていた。

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