第5話 蜘蛛女

 同僚に遅刻を詫びて、制服に袖を通す。

 『これからのこと』を、上司に相談する必要があった。

 有給はしっかり残っているから、それを利用して――必ず、やつをみつけだす。そして決着をつける。

 悟られてはいけない。いや、悟られたくない。

 自分はここにいたい。否定できない感情だ。それゆえに、ここに戻ってくる。絶対に。

 だから、そうしよう。

 そう思って、施設のロビーに向かった。


 皆、自分のあいさつに気付いていなかった。

 その視線はいっせいに、据え付けられたテレビモニターに向いている。職員も、車いすの利用者も。

 ニュース番組だ。

 彼もそれを見た。

 そして、瞠目した。


『こちらが、犯行の現場です。既に、市内のいたるところで確認されています――』


 映し出されたのはリアルタイムの映像。

 破壊された車、陥没した道路。至る所が燃えている。担架で運ばれていく人々。サイレン、救急隊員。

 ザッピングされるように、違う箇所で同じことが起きていることが伝えられる。


『既に死者は十名を超えており――』


『監視カメラの映像です――』


 続いて。

 それは、人びとの息を詰まらせた。


 怪人。

 そう呼ばれる者たちが、かつていた。

 人々の欲望を肥大させ、異形へと変化させた姿。

 自らの宿願を叶えるまで殺戮の限りを尽くし、崩壊する。その後は二度と戻らない。

 対抗できるのは、かつてヒーローと呼ばれた者だけ。だが今は。

 ここにはいない。この街にはもういない。戦いは終わったはずだった。

 ヒーローが親玉を倒したのではない。人々が彼らに立ち向かうだけの勇気と優しさを身につけたから。

 そんな、美しいお話。ではこれはなんだ。いま自分が見ているものは。

 いま、モノクロの荒々しい映像のなかで、ある一人の人間に襲い掛かり、殺戮する様をはっきりと映し出されているものは。


『市長によれば、すでに複数の部隊を動員し、特殊不明生物第六号、第七号、第八号の滅却を完了しているとのことです――』


 後輩だ。しかし、一度増殖が始まれば、いたちごっこになる。すべてを倒し終わったとしても、『根源』を断ち切らねば、永遠に終わらない。


「ちょっと、もうテレビ消してよ、みんな怖がってるじゃない」

「近所のはなし、出るかもしれないだろ……」

「避難とか言われても、ここの人たち、無理だろ。どうすりゃいいんだよ」

 口々に。こぶしを固める。

 自分がすべきことを考える。

 激情を抑え込む。血が出るほど唇をかみしめる。考えろ。理性を保て。でなければおれは奴らと同じ。考えろ、考えろ――。


『こちらをご覧ください。現場には必ず、このようなサインが――』


 リポーターの示したばしょ。

 思考が断ち切られる、塗り替えられる。

 

 『アラクニア』のエンブレム。

 あの頃、彼女が現れる場所に、必ず張り付けられていたもの。

 いまは、血で描かれていた。


「ねぇ、あれって」

「見たことあるぞ。でも、倒されたんじゃなかったのか」

「もしかして、まだ生きてるの」

「あいつのしわざだっていうの……そんな」


 ――そんなはずはない。

 去り際の彼女が頭に浮かんだ。

 その瞬間にはすでに、動いていた。


「すみません。早退します」

 映像はまだ続いている。アラクニア。アラクニア。怪人。

「えっ、ちょっと、どうしたの」

「すみません。行かなければならないんです」

「行くってどこに――」


 駆けていた。

 後ろから映像と声が追いかけてくる。



 シェルターまでセダンを走らせる。口をついて出るのは、彼女の本当の名前。無事でいてくれ、頼む。そんな祈り。何も見えない状態だった。

 心臓は高鳴って、喉の奥が焼け付くように熱かった。何度もクラクションを鳴らされたが、意に介さなかった。いま自分のなかには、過去が流れていた。

 アラクニア。上級怪人のひとり。

 毒液と多肢と鋼糸で他者をとらえ、殺戮する。手強かった。何度も戦い、何度も逃げられた。

 雨の日のことだ。ついに追い詰めた彼女はただの人間に見えた。そこですべてを打ち明けられた。

 彼女は殺戮本能を増幅させられていただけで、暴れていた時の記憶はほとんどなかった。それでも、罪の意識は感じていた。

 だから、ここで殺すなら殺してほしいと、懇願された。

 自分たちは悩み、最終的に、彼女を殺さないことを選んだ。罰があるとするならば、忘れないことだと告げて。

 それでよかったと思った。もう、彼女のなかに、アラクニアになる力は残っていない。だからもう、そんな奴はこの世にはいない。

 復活を願うとしたら、それはひとりしかいない。

 彼女の、父親だけだ。

「実の娘を……利用するなんて」

 高速を抜けて、誰よりもはやく、シェルターへと向かった。



 うすくらがりのなかで、瓦礫が散乱していた。

 棒切れのように見えるのは、ねじ曲がり、殺されたシェルターのスタッフたちだった。

 みな例外なく、恐怖に顔をゆがめたまま死んでいた。

 そしてそこに彼女は居なかった。

 ――間に合わなかった。

 膝から崩れ落ちる。

「結局、こうなるのか」

 これまで築き上げてきたもの、そう自負してきたもの。それは逃げだった。所詮は、自己満足でしかない。いまの街区が、旧市街を押しのけることで成立したのと同じように。

 一度貼りついた仮面は、二度と剥がれない。上から違う模様を厚塗りするだけだ。それなのに自分は、浸っていた。あの日だまりのような場所に、ずっといられると思っていた。

 どこかで、違うと分かっていても。それでも、居続けたかった――己の、エゴがゆえ。己の、罪がため。

「おれは。にげていた」

 壁。

 アラクニアの紋章と、血文字――『追ってこい。お前を待っている』。

 傍らで呻き声。

 瀕死の一名。駆け寄って抱え起こす。ゆっくりと呼吸するように言った。耳に入っていない。

 二秒後。

 彼は目を飛び出さんばかりに見開いて、口から大量のどすぐろい血を吐いて、絶命した。


 後方の存在にはすでに気が付いている。唸り声。けものの。おぞましい。忌まわしき、『敵』。

 いまはもう死語になりつつあるその概念を当てはめると、実に心がすっきりする。ああそうだ、あの時はそんな風に過ごしていたな。

 自然に、笑みがこぼれた。

 なにかを振りかぶってくる感覚。

 瞬間、時間が緩慢になる。


 彼は、顔にかかった血を、全面に塗りつけた。

 赤。太陽の赤。今は違う。血の赤、憎しみの、赤――。


 じかんがもどった。

 彼は、異形の怪物の手刀を腕部で受け止めて、立ち上がっていた。

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