第3話 彼女の、Modern

 彼女はちょうど、経済学部でのゼミを終えて、友人たちと大学をあとにするところだった。

 帰りに買い物に誘われたけれど、断った。

 家についたら、きょう学んだことをすぐにまとめたかった。それほどまでに、刺激的な内容だった。

 かつての自分であれば他の文学部や社会学部に目がいっていただろうけれど、いま関心があるのは経済だった。

 もはや、旧世紀ほどの隆盛を、取り立てて保とうともしなくなった社会。肩肘を張らなくなった社会。それでも人はたくさん死んで、わずかに生まれる。

 そんな、ある意味で『たそがれ』の領域に突入しつつある、かつての先進国であるこの国で、いったいどんな成長が見込めるのか。

 よりよい暮らしをするためにはどうすればいいのか。現状で満足している人々がほとんどのなかで、彼女はそれに関心を持っていた。

 だから、ゆくゆくは政府筋の重要な情報源に就職するのが夢だった。そうすれば、もはや多くを望まなくなったこの国が、もっと欲張りになるかもしれないから。

「……なんて。バカらしいかも」

 帰りのトラムでひとり、つぶやいてみる。

 本当は分かっている。

 すべては罪滅ぼし。

 あの灼熱の時代に自分がやってきたことが、それで帳消しになることはない。

 さっきまで考えていたことは建前でしかなく、ほんとうは自分が楽になりたいだけなのだ。

 だけどもはや、それを打ち明ける相手もいない。

 自分は完全なる善人で、そこに懺悔の入り込む隙間はない。それをしていいのは悪人だけで、自分はもう悪人じゃなくなってしまった。


 車窓から、街をみる。

 夕暮れはまさに、この街のカリカチュアだ。

 ゴミひとつないメインストリート。みんな優しい顔をしていて、そこには、ケアの倫理が行き届いている。

 暴力も犯罪も、彼ら自身の良心によって極限まで抑制された。それには数世紀かかったけれど、その途方もない年月にふさわしいだけの恩恵を、街は受けていた。

 おとしよりには、座席をゆずる。音楽の音量は、最小限にする。そのために必要な精神のリソースを確保するための労働は、決して過重にならないように。

 そんな当たり前の、決して夢物語ではない、地に足の着いた平穏を、世界はようやく手に入れはじめていた。たとえそれが、ひとつの街が滅びるまでの刹那のまたたきであっても、人びとはそれを受け入れるに違いなかった。それでいい。誰もが目指したものが手に入るのだから。

 そこに、自分が居ていいかどうかは、ともかくとして。

 ……ちくりと胸が痛んだとき、メールが来た。

 確認すると、彼からのものだった。迂遠な、夕食へのさそい。有害な男性性を発揮しないよう、極めて慎重に文章が組み立てられている。

 ――そういうのを気にしすぎると、かえって不自然だと、会った時に伝えようと思った。

「……ふふ」

 彼女は微笑んで、快諾の返信を送った。

 

 窓から見える街中の電子公告は、市長のメッセージを流している。


『誰もが、安心して暮らせる社会を。平等な権利が与えられた社会を――まだ与えられていない人びとにも届けるべく、歩みを止めません』



 彼女とは、小さな洋食亭で落ち合った。

 気負って、高層ビルでディナーを、なんて間柄でもない。

 ジーンズにカーディガン、フレームレスのグラスをかけた彼女の姿は知的に輝いていて、仕事の疲労が癒されるようだった。

 互いに微笑んで席に着いて、注文し、それから、静かに食事をする。食器の音。それから、わずかな会話。

 それだけでじゅうぶんだった。

 もう、かつてのような激しさは互いの間に不要で、そんな段階は過ぎ去っていったのだ。

「それで……」

 彼女はナイフとフォークを置き、一口だけワインを飲んでから、言った。

「本当に、私とデートがしたかっただけ?」

 微笑んでいたが、その表情は返事を求めていた。

 ――自分はどれほど不器用なのだろう。恥じ入りながら、答える。

「すこし。話したい、ことがある」

 それを告げることは、彼女の平穏を破壊することになりはしないか。そんな躊躇いがあった。

 だけど、互いに分かっているはずだ。いまの自分たち二人の暮らしは、薄氷の上に成り立っているのだと。

 ゆえに、話す。

 夕暮れ、あの部屋で起きたこと。

 ――たそがれを拒む悪魔が、再び動き出し、人びとの暮らしを破壊しようとしている、と。

「そうか……」

 彼女はもう一口ワインを飲んで。

 しばし、目を瞑る。唇が、震えていた。

「お父さま。まだ、諦めていないのね」

 その呼び方で、胸にとげが刺さった。

 彼女は未だ抱えている、罪悪感を。

「もう終わったはずなのに」

「おれたちが、終わらせた。奴がそれを認めていないだけだ。しかし、見過ごすわけにはいかない」

「あなたは、それで、どうするの」

「……おれは」

 現実的な思考にシフト。

 『後輩』に頼むか。いや、もうとっくに情報を掴んでいるだろう。

 『怪人』は、『上級怪人』が居る限り、どこまでも増殖させられる。既に、後輩直属の部隊が――。

「おれは。もう少し、状況を整理してみる。それで、」

「それで――私を置いて、ひとりで、たたかうの。お父さまと」

 彼女は、微笑んでいた。

「卑怯者」

 そう言った。

 言葉が出ない。

 頬を、涙が伝っていた。

「そういうところ、まるで変っていない。ぜんぶ自分で背負い込んで、それを悲しむひとの気持ちなんて、考えちゃいない。さすがね、ヒーローさん」

「よせ。おれは君を巻き込みたくない。けれど、黙っているわけにもいかなかった。おれの生んだ矛盾だ。謝罪する」

「そんなのいらないわよ。私も一緒に戦わせて。父の目を覚まさせるのに、協力させて」

「そういうわけにはいかない。おれはあの日誓った。君を、戦いとは離れた場所で守り続けると。だから君を、おれのシェルターのひとつに……」

「まだ、毎日、悪夢を見るの」

 滑稽なほどの早口が、打ち切られる。彼女には勝てない。

「私がまだ、街を破壊して、人びとを悲しませていたころの記憶。あの頃、私は充実をおぼえていた。これが生きがいで、青春だって、本気で」

 そして。

 おれがそれを終わらせた。悪の女怪人を倒して、屈服させた。

 それでも、殺すに至らなかったのは――おれの、善性か。それとも。

「あれがおそろしいのは、それが素敵な夢に感じるから。だったらいまの私は何なのかって考える。私、ひょっとしたらどこかで、あの頃に戻りたいんじゃないかって……」

「よせッ」

 思わず、声を荒げていた。

 テーブルが揺れて、近くに座っていた老夫婦が驚いていた。

 頭を振り、座る。

「いまのきみは、間違いなく幸せだ。そうでなくては」

「そうでなくては――自分がやってきたことの意味がなくなるって」

「そうだ」

「自己満足ね」

「それでいい。おれは君を守る」

「そういうの、なんて言うか知ってる」

「なんとでも呼ぶがいい。戦いはもう、この世に必要ない」

「……」

 その後、食事は、沈黙のまま終わった。

 駅前で彼女と別れるまで、一言も話さなかった。

 ――明日の朝、迎えに行く。君は、おれのシェルターに隠れているんだ。

 提案ではなく、命令。ヒーローとは、傲慢さを勇壮さで上塗りする仕事だと、あらためて実感する。

 彼女は――かつて、女怪人アラクニアという名で呼ばれていた彼女は、諦めたようにうなずいた。

 また胸が痛んだが、それも結局、身勝手な自分の感情であると思った。

 良心を、人間であることの証にしようとしている。過去を葬りたいばかりに。

「これで、いい」

 誰に向けて言ったのか。自分でも分からないまま、彼も帰路についた。


 しかし、その時すでに、『やつ』の魔の手はこちら側に伸びていた。

 気付かなかったのは、彼がまだ人間だったからだ。

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