第2話 予兆

 患者番号六十六――カタヤマさんは、施設外殻の植物園がなによりも好きだった。

 そ実際に証明する手立てはないけれど、自走式ベッドをナビゲートして、半身を起こしてやると、チューブが繋がれた彼の顔が、ほんの少しほころぶように見える。

 だからきっと、そうなのだろう。そう信じたいと、思う。


 小鳥のささやきと、豊かな青葉に囲まれながら、彼はカタヤマさんのそばにいた。

 この仕事をはじめて、どれくらいになるだろう。かつての激動の日々がまぼろしに思えるほど、安らぎに満ちた日々を過ごしていた。

 メーターの、ピッ、ピッという音。ほんのわずかな呼吸の音。それに合わせるように、自身もゆっくりと、心を落ち着かせていく。

「今日は本当に、すずしくて気持ちがいいですね。帰ったらなにをしましょうか」

 語りかけても答えはない。生まれたときから、誰に対しても。

 だが、生きている。生き続けている。その尊さを誰よりも知っているからこそ、今の仕事をはじめた。


 ――おれの倫理は、一貫している。少しもブレたことがない。ほんのすこし、カタチを変えただけだ。

 だから、世界の変容を自覚した瞬間は、驚くほどにあっさりとした心持ちだった。学生時代の、失恋のように。

 ――そう、これでいい。おれはこれでいい。世界にとってのおれは、これでじゅうぶんだ。

 彼は、誰に対するでもなく、満足げに微笑んだ。


 カタヤマさんが繋がった精密機器が、危険を示すアラートを吐き出したのは、その瞬間だった。



 カタヤマさんは、あっさりと亡くなった。

 しかし、苦しまなかった。

 誰よりも近かった場所に、静かに送り込まれただけだった。

「力を尽くせず、申し訳ございませんでした」

 何人かの同僚とともに、頭を下げる。

 けれど、カタヤマさんの母は、顔を上げるように告げた。

 初めに会った時よりも、ずっと老け込んでいるように見えた。実年齢よりもずっと。

「ヒロキは。生まれたときに、死んでいたはずのいのちです。今日まで生かしてくださって、ありがとうございます」

 その言葉を受けて、同僚の一人のすすり泣きが聞こえ始めた。

 彼はただ、母の染み渡るような笑顔を、受け止めた。

 かつてなら死んでいたはずのいのち。その生が拾われるようになった時代。明るい話ばかりではない。死ななかったからこそ、生き続けていたからこその苦しみがあったのだろう。

 口元や目元のしわのひとつひとつが、それを物語っていた。

 彼は痛みを感じたが、それは全身にいきわたって、さらなる使命感へと変化していった。

 ――この手の届く、すべての人々を守る。これまでもこれからもかわらない。

 

 同僚たちが帰って、夕暮れに差し掛かったころ。

 彼は『記録室』を清掃していた。

 ひとつの『見送り』が終わると、いつだってそうしていた。

 残務がたくさんあるわけではない。ただ、そうするのが好きだった。

 壁には、これまで触れてきた、多くの患者たちの生前の写真が飾られている。そのひとつひとつが、存続させてきた生命のあかしであり、彼の動機すべてだった。

 きょう、そこに、カタヤマさんの写真が加わる――。


『おまえのせいで、三十六年間、くるしみつづけた』


 どこからか声が聞こえた。

 振り返るが、周囲には誰も居ない。

 思わず、両手に持っていた、写真の入ったフレームを落としてしまった。

 拾おうとした、その時。


 どす黒い色彩のもやが眼前に立ち上り、ひとつのかたちへと姿を変えようとしていた。

 落とした写真から発せられたものだった。

 あとずさり、目を剥く。


 ――そんな馬鹿な。なぜ、いまになって。


『見たくないものをたくさん見せられた。おまえや、おまえたちによって』


 声はそのもやが――いや、もやが糧とする、人間の『感情』から発せられる。

 いま、この場においては……考えたくもない……カタヤマさんの、写真から。裏面には、生前の遺伝子情報が書き込まれている。

 だとすれば、自分が聞いている言葉は、彼の。


『もっとすぐに、死んだほうが良かったのに』


「ッ――!」


 声にならない叫びと共に、ほうきの柄を、もやに叩きつけていた。

 ゆがみ、たわみ。哄笑するようにぽっかりと穴をあけて。

 彼はなおも叩きつけた、叩きつけた、消えろ、消えろ。


 ……やがて、見えなくなった。

 チリのように小さな粒子になって、空気中へ消えていった。

 

 足元には割れたフレーム。写真が無事なのを確認すると、ほうきを取り落とした。


 息が荒い。肩が激しく上下する。破片を拾う両手は、滑稽なぐらい震えている。


 彼はいま、過ぎ去ったはずのものが自分を見つけたのを感じていた。それがとうとう、牙をむいてきたのだ。

 いつかこうなるのではと、日々の刹那によぎっては、仕事に没頭することで忘れていた。

 それも、もう終わるのか。


「これだけじゃ終わらない……きっと、街中に」


 小さく漏れた言葉は、もうすでに、ここの職員としてではなく、かつての『英雄』としてのものだった。

 彼はこぶしを握り、部屋のなかの暗闇を睨みつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る