第2話 予兆
患者番号六十六――カタヤマさんは、施設外殻の植物園がなによりも好きだった。
そ実際に証明する手立てはないけれど、自走式ベッドをナビゲートして、半身を起こしてやると、チューブが繋がれた彼の顔が、ほんの少しほころぶように見える。
だからきっと、そうなのだろう。そう信じたいと、思う。
小鳥のささやきと、豊かな青葉に囲まれながら、彼はカタヤマさんのそばにいた。
この仕事をはじめて、どれくらいになるだろう。かつての激動の日々がまぼろしに思えるほど、安らぎに満ちた日々を過ごしていた。
メーターの、ピッ、ピッという音。ほんのわずかな呼吸の音。それに合わせるように、自身もゆっくりと、心を落ち着かせていく。
「今日は本当に、すずしくて気持ちがいいですね。帰ったらなにをしましょうか」
語りかけても答えはない。生まれたときから、誰に対しても。
だが、生きている。生き続けている。その尊さを誰よりも知っているからこそ、今の仕事をはじめた。
――おれの倫理は、一貫している。少しもブレたことがない。ほんのすこし、カタチを変えただけだ。
だから、世界の変容を自覚した瞬間は、驚くほどにあっさりとした心持ちだった。学生時代の、失恋のように。
――そう、これでいい。おれはこれでいい。世界にとってのおれは、これでじゅうぶんだ。
彼は、誰に対するでもなく、満足げに微笑んだ。
カタヤマさんが繋がった精密機器が、危険を示すアラートを吐き出したのは、その瞬間だった。
◇
カタヤマさんは、あっさりと亡くなった。
しかし、苦しまなかった。
誰よりも近かった場所に、静かに送り込まれただけだった。
「力を尽くせず、申し訳ございませんでした」
何人かの同僚とともに、頭を下げる。
けれど、カタヤマさんの母は、顔を上げるように告げた。
初めに会った時よりも、ずっと老け込んでいるように見えた。実年齢よりもずっと。
「ヒロキは。生まれたときに、死んでいたはずのいのちです。今日まで生かしてくださって、ありがとうございます」
その言葉を受けて、同僚の一人のすすり泣きが聞こえ始めた。
彼はただ、母の染み渡るような笑顔を、受け止めた。
かつてなら死んでいたはずのいのち。その生が拾われるようになった時代。明るい話ばかりではない。死ななかったからこそ、生き続けていたからこその苦しみがあったのだろう。
口元や目元のしわのひとつひとつが、それを物語っていた。
彼は痛みを感じたが、それは全身にいきわたって、さらなる使命感へと変化していった。
――この手の届く、すべての人々を守る。これまでもこれからもかわらない。
同僚たちが帰って、夕暮れに差し掛かったころ。
彼は『記録室』を清掃していた。
ひとつの『見送り』が終わると、いつだってそうしていた。
残務がたくさんあるわけではない。ただ、そうするのが好きだった。
壁には、これまで触れてきた、多くの患者たちの生前の写真が飾られている。そのひとつひとつが、存続させてきた生命のあかしであり、彼の動機すべてだった。
きょう、そこに、カタヤマさんの写真が加わる――。
『おまえのせいで、三十六年間、くるしみつづけた』
どこからか声が聞こえた。
振り返るが、周囲には誰も居ない。
思わず、両手に持っていた、写真の入ったフレームを落としてしまった。
拾おうとした、その時。
どす黒い色彩のもやが眼前に立ち上り、ひとつのかたちへと姿を変えようとしていた。
落とした写真から発せられたものだった。
あとずさり、目を剥く。
――そんな馬鹿な。なぜ、いまになって。
『見たくないものをたくさん見せられた。おまえや、おまえたちによって』
声はそのもやが――いや、もやが糧とする、人間の『感情』から発せられる。
いま、この場においては……考えたくもない……カタヤマさんの、写真から。裏面には、生前の遺伝子情報が書き込まれている。
だとすれば、自分が聞いている言葉は、彼の。
『もっとすぐに、死んだほうが良かったのに』
「ッ――!」
声にならない叫びと共に、ほうきの柄を、もやに叩きつけていた。
ゆがみ、たわみ。哄笑するようにぽっかりと穴をあけて。
彼はなおも叩きつけた、叩きつけた、消えろ、消えろ。
……やがて、見えなくなった。
チリのように小さな粒子になって、空気中へ消えていった。
足元には割れたフレーム。写真が無事なのを確認すると、ほうきを取り落とした。
息が荒い。肩が激しく上下する。破片を拾う両手は、滑稽なぐらい震えている。
彼はいま、過ぎ去ったはずのものが自分を見つけたのを感じていた。それがとうとう、牙をむいてきたのだ。
いつかこうなるのではと、日々の刹那によぎっては、仕事に没頭することで忘れていた。
それも、もう終わるのか。
「これだけじゃ終わらない……きっと、街中に」
小さく漏れた言葉は、もうすでに、ここの職員としてではなく、かつての『英雄』としてのものだった。
彼はこぶしを握り、部屋のなかの暗闇を睨みつけた。
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