夢で逢えたら
袖ビーム
夢で逢えたら
目の前を、大きな蜘蛛が歩いていた。
蛍光色であり、警告色であるような不思議な色。
またか、と浮上してくる現実感と共に目を擦ると次の瞬間には跡形もなく消え去っていた。
頭の奥がじんじんとする。
ぼんやりとした微睡みの中で、寿命がどんどん消費されていくような感覚。
感嘆詞。
昨日のくだらない同窓会の酔いが微かに残っている。
小学生の時から繋がりのあった子が浪人していたらしく、永遠と受験と就活を語っていたのが印象的だった。
少年期の彼は天真爛漫で、スポーツならなんでもそつなくこなし、何でもないところに1人で遊びをみつけて楽しんでいるような無邪気な子どもであった。
少なくとも当時のわたしにとっては、社会のあれこれとは無縁の下界に舞い降りてきた天使のようだった。
都会の喧騒を少し離れた郊外にある住宅街。
そこにあるこじんまりとした一軒家をわたしが出たのはまだ空が薄ぼんやりとして、嵐の前のような静謐に包まれた明け方だった。
隣接する庭に設置されたウッドデッキの上に、綺麗なモノクロの毛をした猫がいるのが見えた。
最近はよくみかける。
しばらく当てもなく足を進めて、大通り。
猟奇的な酷暑に見舞われる日中に比べたら幾分か歩きやすい。
まだ街全体が寝静まっている中、鳴いているのはヒグラシだろうか。
ヒグラシが夕方のみならず早朝にもそのレーゾンデートルを発揮するのはよく知られているが、夜にしか鳴かず、日本では北海道と島根県の一部でしか確認できない絵画ゼミの存在はあまり有名ではない。
わたしの恋人は蝉が好きだった。
曰く、あらゆる蝉は大きく、5つのタイプに別れるという。
1、基本を飛ばして応用しかやらない蝉
2、芸術に生きる蝉
3、他人に興味が無い蝉(この蝉は意外な優しさを見せるため、方々に評判が良くモテる)
4、苦しみしか縋るもののない蝉
5、その他の蝉(全体の9割ほどを占める)
正午。
ドーナツのような地方の中の可食部のような街にある、通い慣れた喫茶店の一角。
「俺、昨日の夜死んだような気がするんだよなぁ」
白山がそう呟いて、最も安いドリップコーヒーをひと口飲む。
最近は古着にハマっているらしいが、あまり洒落ているようには見えないシャツを痩身に纏い、育ちの良さそうな細い指でカップを撫でている。
隣の席の老紳士がちらとこちらに視線を向けて、またすぐ手元の本へと戻した。
「そうかもしれない」
気のなさそうな返事をして、わたしは白山の控えめな感じがする唇を眺める。
白山と仲良くなったのはわたしたちが小学校4年生の時だった。
なんらかの学校のイベントで年不相応の難曲を軽々と弾く白山をひと目みて、わたしは彼のピアノの虜になった。
自らも多少ピアノをやっていたわたしは、家に帰るとピアノ教室の先生をしていた母に白山の事を話した。
彼の指捌きを思い出しながら見よう見まねで口ずさむわたしの拙い再現をみて、
「ショパンの幻想即興曲だね」
と母が言ったのを覚えている。
しかしながら、わたしたちが中学を卒業する頃には彼はピアニストを目指すのをやめてしまっていた。
そこにどんな挫折があったのかはわたしには分からないが、彼はその後勉学に励み現在は都内の超名門大学で経営やマーケティングを学んでいるらしい。
だらだらと最近出たAIだとか、タルコフスキーの映画について、後はお互いのバイト先の話などをして店を出る。
「そういえば、ピアノはもう弾いてないの?」
白山は一瞬きとょんとしてすぐ、
「いや、たまに弾くよ。今度教会でこれ弾くんだ」
と笑ってカバンの中から楽譜を見せてくる。
そこから覗くシガレットケースが真夏の太陽の光を反射してわたしの網膜に届ける。
ウィンストン。
シャワーから飛びだす冷水が頭から首筋、背部を通って指先を流れ落ちてゆく。
炎天下の暑熱と過酷な紫外線はわたしたちを本能的にする。
沸騰して噎せ返った脳みそをなんとか常温に戻そうとするも、遥か彼方で起きている核融合のエネルギーは辺境の星の変な生き物にとっては過剰らしい。
体を伝う水とともに自分自身も溶けだしてしまうような感覚に陥りながら、朦朧とした頭で考える。
昔、朝起きたら父親がトイレの中で動かなくなっていたと語る子がいた。
わたしは最初、父親がトイレの中にいる絵面を想像してなんだかおかしな気分になっていたのだが、暫くして唐突にその子の父親が死んでしまった事に気がついた。
人は死んでしまうらしい。
それから長い間、トイレに行くたびにその話を思い出しいつか来るであろう死に怯えていた。
ところで、生きている作家になんてなんの価値もないと書いていたのは誰だったろう。
脱衣場に出ると、「ピアノの部屋」から音が漏れ聞こえてくる。
ブルグミュラーのアラベスク。
ピアノ初心者なら誰でも弾く曲だ。
白山にもこれを弾くような時代があったのだろうか。
ドライヤーをすると微かに聴こえていたピアノが掻き消され、代わりに風呂から出たばかりだというのに汗が吹き出してくる。
わたしは堪らずカーテンに覆われた窓を開けて外気を呼び込んだ。
そろそろ日が暮れてこようかというのに、相変わらず外にはうんざりするような青空が広がっていた。
夢で逢えたら 袖ビーム @r4i2n
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