5  息子

 薄情なわたしが、おいちゃんの告白を忘れ去ってから二ヶ月ほどが過ぎたころです。

 携帯電話に見知らぬ番号からの着信がありました。特に警戒心も抱かず電話に出ると、相手の方が「あ」と戸惑った声を上げました。

「あ、えっと……M川の息子です」

 心当たりのない名前でした。けれど、わたしが「どちらにお掛けですか?」と問い返すと、ちゃんとわたしの名前を答えるのです。

「先日父が亡くなりまして、それで生前、お金を借りていたようでして……疎水沿いの、ちょっと入ったところにあるアパートの、M川M男です」

「ああ」とわたしは声を上げ、すぐに「ああ」と語調を下げました。

 名前には心当たりがありませんでしたが、疎水沿いから少し入ったところのアパート、という立地で理解しました。

 おいちゃんの、息子からの電話でした。

「そうですか、お亡くなりに……」

 ご愁傷様です、お力落としなく、と当たり障りのない言葉を選びつつも、わたしはきっぱりと「お金は、昔のお支払いです」「返していただく必要はありません」と告げました。

 要はこれ以上かかわり合いたくなかったのです。

 早々に電話を切ろうとしたとき。

「お嬢さんっ!」と妙に甲走った声で息子が言いました。「あのっ、お嬢さんって、あなたのことですよね?」

「え? いや、お嬢と呼ばれてはいましたけど、さんづけされたことは」

「お嬢さんに返したい、返さなきゃならないものがありまして……子供のころに借りたものでして……」

「いや、別に貸した記憶は……」

「父の最期の心残りなんです。一度、見るだけでも見てやってくれませんか?」

 あまりにも必死に頼まれ、結局、わたしとおいちゃんの息子はおいちゃんのアパートで会うことになりました。


 冬らしくない、暑い日でした。

 疎水沿いのコインパーキングに車を駐めたわたしは、記憶を頼りに二筋道を入ったところにあるアパートへと向かいました。

 二階建てのアパートの前には、すでに四十前後とおぼしき男性が待っていました。革靴に、膝の薄くなったスラックスと毛玉だらけのトレーナーというちぐはぐな格好です。

 おいちゃんの息子だという彼は、挨拶もそこそこにアパートの扉を開けました。

 瞬間、彼のちぐはぐな格好の理由がわかりました。

 無数のビニル袋とペットボトル、そして万年床と化したせんべい布団が部屋の全てでした。家具らしきものは見当たらず、プラスチック製の衣装ケースがタンスと机を兼ねているようです。

 玄関三和土のすぐ横にキッチンがありました。流し台の中は、カップ麺やコンビニ弁当、スーパーの惣菜といった空き容器であふれています。キッチンのすぐ足元には机がわりの衣装ケースがあり、その周囲には水やお茶のペットボトルがあります。

 彼は革靴のまま部屋に踏み込み、ひとつの段ボール箱を抱えて三和土に戻って来ました。

 玄関に箱を下ろすと、彼自身は外に出てしまいます。玄関扉が閉まらないように足で支えながら、外から「それを」と言います。

「お嬢さんに返したがっていたんです」

「はあ」と答えつつ、わたしはその箱の異様さに怯えにも似たものを感じていました。

 綺麗すぎるのです。

 外側だけでいえば、その箱は順当に汚れていました。カップ麺の汁だかお茶だかが飛んだ茶色い汚れ、ゴキブリだのネズミだのが体を擦り付けたであろう黒い跡がそこら中についています。

 けれど、ガムテープや伝票を剥がした跡がないのです。商品名の印刷もありません。

 つまり、この段ボールは新品なのです。どこかで購入した段ボールに「返したいもの」を詰めているのです。

 わたしは恐るおそる、箱の蓋に手を掛けます。少し湿気ていました。



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