3 告白
だから、と大人になったわたしは、不動産屋のカウンターに縋るように座る老人を見下ろします。
この老人は、あの公園の隣で作業をしていた男性なのでしょう。
もはや誇らしげにショベルカーを操縦していたころの面影はありません。声だって、静かな不動産屋の中にあってひどく弱々しくしか届きません。
当時はわたしを「坊」と呼んでいた彼が、いつわたしが女の子だと気づいたのかすら検討がつきません。
そもそも、ショベルカーに乗せてもらったのはあのとき一度きりのはずです。少なくとも、わたしはその一度きりしか覚えていません。
「お久しぶりです」と言うのも白々しい気がして、わたしは曖昧に「はあ」と息を漏らします。
それからどう話が転んだのかは、ほとんど覚えていません。不動産屋の従業員と友人とが口を挟み、気がつけばわたしが老人を家まで送ることになっていました。
正直に言えば、老人からはひどい臭いがしていました。
不動産屋の車の助手席に乗せると、車内が雨の日の泥の臭いとアンモニア臭とで満たされました。幸いにも少し暑い日だったので、窓を細く開けて風を入れ替えます。
道中、わたしたちの間には会話らしい会話もありませんでした。
収穫と言えば、当時のわたしは彼を「おいちゃん」と呼んでいたことを思い出したことと、彼がわたしを坊やではなく「お嬢」だと認識したのはショベルカーの操縦席でわたしを膝に乗せたときだと知ったくらいのものです。
そんなドライブも五分ほどで終りました。
老人の家は、鴨川疎水に面した道から路地を二本ほど入ったところにある、二階建てのアパートの一室でした。一階の中程にある扉の前で、わたしは「じゃあ」と言って踵を返します。
そして一歩を踏み出してから、衝動的に振り返りました。
「おいちゃん」と、わたしはひどく気恥ずかしい思いを抱きながら彼をそう呼びました。「病院、行ってます?」
「へ?」とおいちゃんは笑いました。当たり前のような口調で「行かんよ」と続けます。「保険証、持っとらんのや。病院なんて、ナンボとられるやわかったもんやない」
わたしは自分の財布に入っていた全ての札を抜いて、おいちゃんの手に──ギョッとするほど弾力のない、冷たく乾いた手でした──握らせます。
「行ってください。××病院なら相談員がいるので、事情を話してください。タクシーで行けばいいですから」
「もらえんよ、こんなん」おいちゃんの手がわずかに震えました。札を突き返そうとしたのかもしれません。「Sくんのお嬢から金なんてとれんよ」
「じゃあ、あのときの乗車賃です」
子供のころ、ショベルカーに乗せてもらったお礼だ、と言って、わたしは今度こそ踵を返しました。
そのときです。
「あんときなぁ」
おいちゃんの掠れた声が聞こえました。
「アレ、ウサギや言うたけどなぁ」
わたしは振り返ります。おいちゃんは扉の前で、妙にぼんやりとした表情で立ち尽くしていました。
「ホンマは
うさぎ? とわたしは首を傾げます。
あのとき、とは、ショベルカーに乗せてもらったあの畑のことでしょう。
うさぎってなんだっけ? と瞬くわたしが見えていないように、おいちゃんはゆっくりと背を向けました。端から鍵を掛けていなかったらしく、アパートの扉を開けて部屋へと消えていきます。
わたしは、追いかけませんでした。問い返すこともしませんでした。足早に車に戻り、扉を閉めます。
車内にはむせかえるような、カビの臭いが漂っていました。
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