第38話 胡蝶の夢
地に蹲った男は、苦しそうに
一体、どういう事なのかと僕は、ただ驚きながら男の様子を見つめていた。
「来……あの男が言った事、真に受けていねえだろうな?」
「僕が……転換したって事……?」
「ああ」
「信じてないよ。もしもそれが本当なら、僕はここにはいないだろ」
「それは……俺と同じ闇の中にはいないって意味か?」
麻緋は僕をちらりと見て、揶揄うように笑った。
「ああ、そうだよ。だったら闇に身を潜める必要なんてなかっただろ。僕の現状は、過去に結びついたままだ。本当に転換したなら、僕は陽の下に身を置いてるよ。
僕の言葉に麻緋は、そうかと静かに頷いた。
「それはそうと、麻緋……あの男に何を与えたんだよ? ただ単に、目をって訳じゃないんだろ?」
「俺と同じに染まろうというのなら、受け止めるべきものを与えなきゃならねえだろ。正邪の紋様は、確かに反転する事が可能だ。それは善も悪に、悪も善にってな……」
「あの男……今、何か見ているって事か」
「まあ、あいつにとっては夢が現実か、現実が夢か……だからどうだという話って訳だ」
「それは区別がつかないって事だろ?」
「ああ。そして、誰かが見ている夢なのか、自分が見ている現実なのかって事だよ。だから、それを見る目を与えた」
「じゃあ……」
麻緋の言葉は、直ぐに理解出来た。
僕は、男の様子を見続けながら答える。
「僕が……僕たちが見てきた現実を、今、あの男が自身の現実として見ているって事なのか……」
「まあ……それだけじゃ済まないけどな。自身が関わったもの全てだ。明確に出来ず、区別がつかない。だから
「そう呼ばれているって……元の名ってのはやっぱり……」
「ねえよ。ていうか、知らねえし、知る気もねえ。名があろうがなかろうが、そんな事に興味はない」
「興味ないって……」
僕は、思わず苦笑を漏らす。
「なあ、苦しみを感じているって事は、麻緋は区別をつけたって事なのか……?」
「当然だろ。反転出来るとはいえ、俺に基準がない訳じゃない。そもそも、そう簡単に反転しねえし」
「まあ……そうでなければ困るけど。なあ、あいつの目がなかったのは、禁忌を犯したからなんだろ? だけどそれって……」
「失うべくして失っただけだ。それは自身が望んでの事だがな。だから奴はそれだけは転換しない。作り出した幻影から見る事で、意識に縛られず、現実も何処か遠くに思えるという訳だ。前に言っただろ。奴は人である事を捨てたってな……」
そう言って麻緋は、長い溜息をついた。
「自由の意味を履き違えると、無秩序になる。自暴自棄になるのは勝手だが……」
麻緋がその言葉を投げ掛けているのは僕じゃない。
「どっちに染まった?」
「麻緋……?」
麻緋の目線が動いた事に気づく僕は、麻緋の目線を追った。
……九重。
男の叫び声を聞いたからなのか、九重が戻って来た。
『塔夜……お前も早く行けよ。敵う敵わないは別として、同じに染まるか、闘うかはお前次第だろ』
麻緋のその言葉を、九重はどう受け止めたのか。
『裏切られても、裏切らない何かがあると……そう思えるからな』
成介さんと桜花の話になったあの時、そう言った麻緋に、儚くも淡い期待がある事を感じた。
麻緋にしても、九重を信じたい思いはあった事だろう。
再び姿を現した九重の、ゆっくりと地を踏む足取りで、落ち着いた様子が分かる。
だが……。
九重一人じゃない。九重の隣に誰かいる。
……男……か。
俯き加減に九重と肩を並べて、こっちへと歩を進めて来る。
様子を窺うように二人を見ていると、男の目線が僕たちへと向いた。
……この顔……。
「麻緋……」
僕は、引き留めるようにも麻緋の腕を掴んだ。
麻緋が手をグッと握り締める力が、僕の手に伝わる。
ここにこうしている事を俯瞰的に見る事で、夢だと思いながらも、現実を捉えるのか。
だが、目に映るものは真実だと、知るよりほかはない。
九重は、蹲る男に手を伸ばし、立ち上がらせた。
九重の隣にいた男もまた、手を貸し、共に支える。
九重が笑う中、男が麻緋を見て口を開く。
「もう……大丈夫だよ。僕は弱くないから……だから行って……
強弱のない、淡々とした口調だった。その表情さえ、感情が見えない。
麻緋とは真逆に、熱を感じない冷めた様子だ。
「……悠緋」
麻緋へとそっと手を向け、悠緋は麻緋の言葉を待たずにこう続けた。
……ダメだ。
こんなのはダメだ。
抱えた思いをどう処理していいのか、麻緋の遣る瀬ない溜息が幾度も流れた。
何の為にここまで来たのか。
何の為に身を切り裂かれそうな程の痛みに耐えてきたのか。
こんな再会は、あんまりだ。
これ以上、麻緋を……。
「兄さんが受けたその呪い……僕に置いていってくれていいよ」
裏切るな。
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