第36話 渾沌
「勧善懲悪ねえ……」
僕は、麻緋の言葉を溜息混じりに呟いた。
「来……」
さっきまでの様子とは違い、慎重な様子を思わせる麻緋の声に、僕は眉を顰める。
……あの男が動き始めたか。
逃げる気も、隠れる気もなく、ゆっくりと歩を進めていただけに、直ぐに追いつかれる事だろうとは思っていたが……。
僕は、警戒しながら後ろを振り向いた。
「……っ……!!」
……やられた。
僕は、歩を戻し始める。
あの日、突然立ち上った火柱が、この地を焼け野原にした。
『助けて』
逃げ惑う人々は混乱に満ちていたが、家屋が焼け落ちる音は、その叫び声さえ掻き消した。
だけど僕は。
『助けて』
進める足が速度を上げていく。
僕の目に映るのは、あの時と同じ火柱だ。
まるで白羽の矢が立ったかのように、この地にあの火柱が上がる事がなかったら、あんな結果にならずに済んだんだ。
父も母も……町の人々も死ぬ事はなかった。
気づく事が出来ていたなら、あんな結末を迎えずに済んだんだ……!
『出来ればその勘が、事が起こる前に働いて貰いたかったが』
伏見司令官の言葉が、僕に機会を与えているように思えた。
火柱へと向かって進めば進む程、深みに嵌っていくようだ。
映し出される幻影は、更に過去を遡って、何事もなかった平穏な日常を映し始める。
麻緋の家で見た残像の幻影のような、当たり前であった日々……。
当時の面影を浮かばせるその幻影は、目にしている者に何を思わせるのか。
悲しみを再燃させるのか、後悔に押し潰されるのか、懐かしいと思いに耽るのか。
僕は、それが幻影であると分かっていながらも、目に映る光景へと手を伸ばした。
その幻影を掴む事が出来たなら。
目に見えないものを、目に見えての形を作り上げた幻影。
人智を超えた力を象り、象る事で現象を解き明かす……起きた事象に対しての理由がある事で、人は不安から逃れる為の対処法を得られる。
それは害をなすもの……だけに限定されない。
『声が聞こえてきそうだろ……』
あの時に、戻る事が出来たなら。
もう二度とあんな思いを抱えないように、僕は……。
『お帰り……ってな』
……後悔など握り潰して。
やり直せるんじゃないかって。
だって僕は。
どんなに拭っても、やはり、あの時の後悔を忘れられない。
身を引き裂かれるような苦しみに、耐えられなかった。
心をどんなに抑え込んでも、その痛みを体が覚えているんだ。
過去に戻ってやり直す事が出来たなら……それが幻影であっても。
僕は
「来っ……!!」
麻緋の声は、僕の心情を察している。
僕は、足を止め、麻緋が追いつくのを待った。
「信じられるはずなんか……なかったんだよ……麻緋」
僕は目を閉じ、ゆっくりと呼吸をする。
「……ああ。分かっている」
「心を顔に出すなって麻緋は言うけど、僕には出来ないみたいだ」
「……そうだな」
「うん……だから……」
呪符を手にし、僕は口遊む。
「東に青……南に赤。西に白。北に黒。
一瞬で幻影を掻き消す、強い光が辺りを染めた。
父と母、町の人たちと過ごした和やかな日常を、呪符が切り裂いていく。
地を削るように走る呪符が、砂嵐を巻き起こし、霧を作った。
積み上げられていた瓦礫が、ガラガラと崩れる音が鼓膜に響いた。
その音が止むと同時に、砂嵐が治まり、霧が晴れていく。
「それがどんなに戻りたいと思わせる、懐かしい幻影であっても、僕は掴まない 。だから僕は、心が表に出る事を利用して、欺く事にした」
「はは。本当に……染まっちまったな、来」
少し困ったように、麻緋は小さく笑った。
「悪くないだろ?」
「……まあな」
笑みを交わし、僕たちは前を見据える。
霧が晴れると月明かりが地を照らし、男の姿が捉えられた。
幾重にも連なった呪符が、鎖のように男に巻き付いている。
僕は、ゆっくりと歩を進め、男の前に立つと冷ややかに言い放った。
「あの時の幻影を見せて動揺させ、罠に嵌めたと思ったか……? そもそも僕は、過去をやり直すつもりも、過去の幻影に染まるつもりもない」
男は、座り込んだ位置から動いてなどいなかった。
フードは深く被ったまま、前に立った僕を見ようともしない。
見える口元は、笑みを浮かばせていた。
観念したというより、元よりこうなる事を待っていたのだろう、そう感じさせる。
それならば。
僕は、顔を隠しているフードを下ろし、男の顔を露わにした。
……やはり、というべきなのか。
それとも、何故、というべきなのか。
男には……両目がなかった。
「それが……転換しきれなかった代償か」
そう言った僕に、男はふふっと笑みを漏らすと口を開く。
「逆ですよ……転換させられたのは私の方です」
男の言葉に、僕は眉を顰める。
そして。
発せられた男の言葉に、僕は息を飲んだ。
……嘘だ。
「『もう……何も見たくはない』……とね……?」
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