第10話 苦杯の闇
結界のように張り巡らされた紋様。
それは、麻緋の背に浮かび上がった紋様だった。
格式高い名家の『長子』と、あの男は言った。
この紋様……麻緋が背負っているものという事なのか、確かに、圧迫されるようにも重圧を感じさせる。
「格式とは、正邪を分ける為のラインだ。格の違いは、式によって闇夜に染まる」
「それは……同感です」
麻緋の言葉に男は、ニヤリと口元を歪ませて笑う。
次の瞬間に、バリッと裂ける音と共に、男に絡みついていた鎖のような赤い光が弾け飛んだ。
拘束を解いた男は、麻緋へと一歩一歩、ゆっくりと歩を進め、近づいた。
麻緋……!
巻き起こった風に押され、中々麻緋に近づけない。なのにあの男は、風圧など感じていないかのように麻緋に歩み寄った。
その姿を見た時から、力の大きさを誇っているのは分かっていたが、それはきっと……僕だけが感じている事だ。
『相棒なら相棒らしく、足りない部分は補えんだろ。まあ、俺に不足はありはしないから、俺がお前を補ってやるよ』
……麻緋の言っていた事は、確かな事だ。
「っ……!」
僕は、自分の無力さを思い知らされているようで、歯を噛み締めた。
男の手が麻緋へと伸びた。
麻緋は身動き一つしない。ただじっと男を見据え、その様は男が自身を掴むのを待っているように見えた。
「正邪の紋様……藤堂 麻緋。貴方が……」
縋るようにも見える様子で、男の手が麻緋の上着を両手で掴む。
「麻緋っ……!」
僕は、更に強さを増す風に抵抗しながら、麻緋へと向かった。
……どうしてだろう。
どうして僕は、必死になって麻緋に手を伸ばそうとするのだろう。
助けたい、力になりたいと思うのだろう。
『目覚めはいかがですか』
『最悪だよ』
『僕はここに居る事を、納得した訳じゃないからね』
『逃げる気などない。だけど、忠誠を誓うつもりもない。僕を飼い慣らそうとしたって無駄だ』
僕は、僕の置かれた場所が正しいと言えるのか。
反発していた気持ちが、消えてしまった訳でもない。
『なんで俺が、こんなガキと組まなくちゃならねえんだよ?』
顔を合わせて数時間、共に行動していただけで、麻緋が正しいと断言出来るのか。
あの男だって……。
あの男が正しくて、僕たちが間違っているのなら、あの男が僕たちに敵意を向けてもおかしな事ではないだろう。
自分が正しいと言えるものなんて、何処にあるのかも分からないのに。
麻緋は何の抵抗も見せない。
麻緋も……自分が正しいと思っていないのだろうか。
だけど……。
『裏の世界で生きようとも、顔を伏せなければならないルールなんかねえんだよ』
それでも僕は。
「麻緋っ……!!」
僕の声が届いたのだろう。
麻緋はゆっくりと僕を振り向いた。
その時に見せた麻緋の顔が、悲しげにも……笑って見えた。
僕の手が麻緋を掴む。
男の手から強引に引き離した瞬間に、張り巡らされた結界が花火のように弾け、火の粉のように飛び散った。
落ちゆく光は、緋色の光を強く弾けさせ、僕たちへと降り落ちてくる。
だけどそれは、熱を感じさせない。逆に……冷たくも感じる光だった。
だが……。
ただ一人だけ、熱を感じる者がいる。
「藤堂……!」
執拗にも麻緋に付き纏っているような、この男だけだった。
降り落ちる光が男の皮膚を、ジリジリと焼いていく。
振り払っても、振り払っても、その光から逃れる事が出来ないようだ。
「麻緋……これは……」
麻緋は、静かに笑みを漏らすと、熱さから逃れようと
男は再度、麻緋を掴んだが、麻緋を掴む手が強くなれば強くなる程に、男に熱を与えていた。
麻緋が男に言う。
「染まらなかったな。お前と……同じ闇には」
「ふふ……それでも……その紋様は……染まらなければならないものに染まる……それは貴方が重々お分かりのはずでしょう……!」
男は、力を振り絞るように、麻緋のシャツを掴みながら立ち上がろうとした。シャツのボタンが弾け飛び、麻緋の胸元が見える。
麻緋の胸に……痣が……。
まるで、心臓を掴むような痣が胸に広がっている。
「麻緋から手を離せっ……!」
痣を見た僕は、驚きながらも男の手を麻緋から振り解いた。
男は、地面に仰向けに寝転がると、苦しそうに息を吐き出しながらこう言った。
「望むものを……手にしたいのならば……捨てなければならないものがあるという事を……お忘れなく」
男が言い終わると、緋色の光が炎のように男の体を包み、その姿は消えた。
「……殺したんじゃ……ないよな……?」
まさかと思い訊く僕に、麻緋は首を横に振る。
「いや……幻影を消しただけだ」
「幻影って……あの男も……?」
「言っただろ、ここはそういう場所だと」
「それは……だけど、どうして……」
麻緋は、ゆっくりと立ち上がると、崩れ落ちた建物へと目を向けて口を開く。
「これが……現実だ。罪人の収監所……ここはもう廃墟になっている……だがここは」
続けられた麻緋の言葉に、僕は言葉を失った。
「俺の家族がいた場所だ」
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