14:朝顔とハンバーグ

 今年も、朝顔が咲いた。

 毎日律儀に記していた観察日記の頁は、拙いスケッチと枠外にまではみ出しそうな踊り跳ねる文字で埋まっている。


 嬉しそうに書き終えたばかりのその日記を抱え、少年は隣家へと走る。

 時刻はちょうど昼をまわろうとする頃で、ドアを開けて駆け込んだ瞬間に作っている最中であろう昼食のにぎやかな匂いが彼を出迎えてくれた。


「はるかおねーちゃん! 日記できたよ!」

「お、ハル君。よく来たねー。ご飯もできたところだよ」


 名前の響きも近く、親同士の交流もあったことから二人は姉弟のように育った仲だった。

 大学生2年生の遥香はるかは、小学生5年生の春希はるきの夏休み間の世話を頼まれていたが、彼女自身それを負担だとは思っていない。


「今日のおひるごはん、ハンバーグだね!」

「せーかい。さ、手を洗ってきてね」

「はーい! おねーちゃんのハンバーグ、だいすきなんだ!」

「嬉しいコト言ってくれるなぁ。ね、ハンバーグと私、どっちが好き?」

「えぇ……どっちもすきだよー」

「そっかそっかぁ」


 年の離れた弟のような存在は可愛らしいものだ。

 テーブルに二人で食器を並べて、手を合わせてから食べる。嬉しそうに食べる春希の姿を見ていると、朝から手ごねで作った甲斐があったと遥香は嬉しくなってくる。


 昼食を終え、遥香は夏休みの宿題の一つである朝顔の観察日記を確認する。


「すごいね、ハル君。今年もよくできてる」

「観察は前の日との間違い探し! でしょ?」

「よしよし、教えを守ってえらいぞ」


 小学生特有のさらさらとした細い髪を、遥香はわしわしと撫でた。シャンプーの香りに混ざって、かすかに夏の匂いが拡がる。春希は少し俯いて恥ずかしそうに、けれど穏やかに笑っていた。


 夕方まで、二人はゲームをしたりアイスを食べたり実に夏休みらしく過ごした。特別なことをしたわけではないが、気の置けない過ごし方ができるほど近しい関係であることの証左でもある。ひとしきり遊んだ後、遥香は「それでは、本日の勉強の時間をはじめまーす」と宣言した。

 春希は「はーい!」と手を挙げて返す。しっかりと勉強もすることが、隣家に遊びに来る条件だと、母と取り決めてあった。


 とはいえ、日ごろコツコツと勉強している春希の課題分はすぐに終わり、大学のレポートとにらみ合いをしている遥香をリビングの椅子に座って足をぶらつかせながら見ていた。


 遥香がソファに沈み込んだまま、だらりと首を後ろに倒して言う。


「おうい、ハル君。お茶いれてくれない?」

「いいよー」


 何度も遊びに来ているので勝手は分かっている。

 グラスに氷を入れて、冷蔵庫の麦茶を注いで遥香の前に持っていく。ソファの前のローテーブルには小難しそうな本と、きれいに書かれたノートが見えた。


「ありがとー」

「それ、大学の宿題?」

「そ。レポートって言うの。ハル君の観察日記みたいな感じだねー」


 つまり、前の日との間違い探しなのだろうと観察日記の教えを思い出し、そこから連なるように遥香の横顔を眺めて、ふと春希は気づく。


「はるかおねーちゃん、それ、昨日までつけてなかったよね?」

「あ、これねえ。ピアスっていうの。細かいところに気が付く男の子はモテるよー」


 違いに気づけるだけ、毎日、遥香のことを目で追っていたのだ。自覚のないその行動の根元にある感情に、まだ春希は気づいていなかった。

 けれどその時、遥香のスマートフォンが軽快な音を立ててメッセージの到着を知らせる。画面を見た瞬間、咲いた。彼女の顔が、少しだけ彩度高く。かんばせに紅が差すように。


 差しこむ夕日に照らされる遥香のその表情を見て。

 ちりりと、春希の胸の奥が熱くなった。伝わってくる熱はどくんと胸を跳ね上げ、顔にまで上がってくる。


 遥香は今まで見せたことのない表情のまま、スマートフォンを操作してメッセージを返す。


「う、嬉しそうだね。はるかおねーちゃん」

「おや、ほんとによく見てるねー、ハル君。今日ねー、彼氏と遊びに行くの」

「かれし、って?」

「うーん……特別な好きな人、のことかな。考えてると胸があったかくなってくるような、ちょっと痛いような、そんな気持ちになるんだよ。いつか、ハル君も分かるよ」

「……うん」


 ああ、ああ。

 それならば、この胸の熱はきっとそうなのだろう。ハンバーグとは違う、特別な好きが、きっとこれなのだ。


 そして同時に、遥香の特別な好きが春希に向けられていないことにも気づいてしまう。ちりちりとした熱は黒く焦げついて。


 呼び鈴が鳴る。春希の母が仕事を終えて迎えに来たのだろう。


「お迎えが、きた、から。帰らなきゃ」

「あ、ハル君!?」


 俯いたまま走り出し、ドアの前に立っていた母の横をすり抜けて、逃げるように。

 自宅に駆け込んだ少年は、ベランダへ視線を向ける。


 朝顔は、くしゃくしゃに萎れていた。

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